19 生徒会長
時間は進み、とうとう本日の俺の山場、午後の演習試合の時間がやってきてしまった。
内心、もう「面倒くさい」という言葉以外、何も浮かんでこない。俺は、もうどうにでもなれと、深いため息を吐いた。
競技場の白砂の上に、全校生徒が学年ごとに整列していた。俺は一年生の列の、いつもの最後尾。隣には、二年生と三年生の列が並んでいる。うわ、こっわ。上級生って、なんでこう、並んでるだけで圧があるんだろう。
順位戦の本番は二週間後。今日は、それに向けた全学年合同の実践演習だ。何組かの生徒が、全校の前で模範試合を披露することになっている。
この大勢の前で、俺は負けなければならない。そう思うと、ほんの少しだけ悲しい気分になった。でも、それ以上に、もうどうでもいいやという気持ちのほうが勝っているので、何も問題はなかった。
「……それでは、模範試合の一組目として。一年、ハスト君。三年、アイシャ・リズベットさん。コートに入場してください……」
審判役の教師の声に、競技場がざわめいた。
「え、生徒会長と……誰?」
「ハストって、あの最下位の?」
「なんでその組み合わせなんだよ……公開処刑じゃん」
あ〜あ。俺がぼーっとしているうちに、公開処刑の時間が来てしまったらしい。
俺は、無言でコートへ向かった。
一年生の列の中ほどで、フィアットが、胸の前で両手をぎゅっと握りしめているのが見えた。目が合った。俺は、誰にも見えない角度で、小さく親指を立てた。
――嘘じゃない親指、というわけにはいかなかったけど。
◇
私の名は、アイシャ・リズベット。
この王立学園の生徒会代表で、全学年を通じての序列一位。入学してから三年間、学園の序列戦で、一度も負けたことがない。
「攻撃が一切見えない、不動の序列一位」。
下級生たちが私をそう呼んでいるのは知っている。誇らしいと思ったことは、正直、一度もない。
見えない、というのは、つまり、誰も私を見ていない、ということだ。
幻影体術。身体の動きそのものを幻で覆い、相手の認識をずらす体術。極めれば、踏み込みも、拳の軌道も、肩の傾きすらも、相手の目には映らなくなる。私と戦った人は、みんな同じことを言う。気づいたら倒れていた、と。何が起きたのかわからなかった、と。
三年間。百を超える試合。その中で、私の拳を「見た」人は、ひとりもいなかった。
強くなればなるほど、私は透明になっていった。
私を見てくれるのは、エトワール様だけだった。博識王として、すべての戦いを俯瞰する人。あの方だけが、私の拳がどこから来て、どこへ行くのかを、正確に言い当てることができた。だから私は、あの方の隣にいる。
……でも、エトワール様は、見ることはできても、受け止めることはできない。あの方は、戦う人ではないから。
だから、私はずっと、待っていた。
私の拳を、見て、受け止めて、その上で叩き返してくれる誰かを。私が全力で打ち込んで、それでも倒れない誰かを。そして、私を、真正面から打ちのめしてくれる誰かを。
――変な趣味だと、言われているのは知っている。強い攻撃を受けるのが好きな、変わった生徒会長だと。
違う。少しだけ、違う。
私が欲しいのは、痛みではない。痛みは、ただの証拠だ。誰かが、私の速さに追いつき、私の拳を見て、私に届いた、という証拠。
入学順位戦の日、競技場の隅で、ひとりの一年生が、殲滅魔術級の一撃を食らって吹き飛ぶのを見た。全身から血を流して、壁に叩きつけられて、それでも、担架の上で親指を立てていた。
あの子なら、と思った。
あれだけの一撃を受けて、意識を保っていられる子なら。もしかしたら、私の拳も、受け止めてくれるかもしれない、と。
だから、追いかけた。少し、いや、だいぶ追いかけすぎて、逃げられたけれど。
そして、今朝。
学園長室で、その子は、私の前で、こう名乗った。
二代目『覇王』、ハスト・アーネット、と。
あの日、あの子は、殲滅魔術を受けたのではなかった。おそらく、受けたふりをしたのだ。そして今朝、私は、あの子の覇気ひとつで、立っていられなくなった。
世界の頂点。頂天者の、さらに上。
私の拳が、届くだろうか。
届かなくてもいい。ただ、見てほしい。この三年間、誰にも見えなかった私の拳を。
午前の職員会議に、私は自分から足を運んだ。生徒会代表として、演習試合の組み合わせについて意見を述べ、一年のハスト君との模範試合を、強く推した。教師たちは困惑していたけれど、序列一位の推薦を断れる人はいなかった。
そして今、私は、白砂のコートの上に立っている。
目の前に、あの子がいる。
◇
あの子は、訓練用の木剣を一本、ぶら下げていた。
持ち方が、なっていない。柄を握る位置が浅すぎるし、肘が伸びきっている。教本の一頁目すら守れていない、素人の持ち方だ。
もちろん、わざとだ。今の私には、それがわかる。
「……手加減……は、してくれませんよねぇ……。あはは……。まぁ、頑張りまぁす……」
弱々しい声。おどおどと泳ぐ視線。
今朝、学園長室で私を一瞬で立てなくした人と、同じ人の声だとは思えなかった。演技が、上手すぎる。この子は、この三年間、ずっとこうやって、学園の誰の目にも映らないように生きてきたのだ。
――私とは、逆のやり方で。
「あ……あぁ。私は、手加減は一切しないぞ」
声が、少しだけ上ずった。
「お互い、楽しもう」
あの子は、にこっと会釈をして、位置についた。そして、適当に、木剣を構えた。
私も、位置につく。拳を軽く握り、踵をわずかに浮かせる。いつもの構え。三年間、一度も崩されたことのない構え。
審判役の学年主任が、手を振り上げた。
「両者、用意はいいな? ……始めッ!!」
――その瞬間だった。
私の両手と両足に、何かが、流れ込んできた。
温かい。いや、熱い。血管の中を、自分のものではない魔力が、川のように駆け巡っていく。指先の感覚が、一段階、鋭くなった。踵が、さっきよりも軽い。筋肉の一本一本が、張り詰めた弓の弦のように、力を溜め込んでいく。
身体強化だ。
それも、私自身が自分にかけるものとは、比べものにならないほど精密な。私の身体の、筋の一本、関節の角度まで知り尽くしているかのように、ちょうど限界の一歩手前で、ぴたりと止められている。
「……ッ!?」
息が、止まった。
無詠唱。予備動作もない。審判の合図と同時に、あの子は、私の手足に、私の知らない魔力を流し込んだ。
なぜ? なぜ、相手を強化する?
答えは、ひとつしかなかった。
――負けるため、だ。
この子は、私に、自分を倒させるつもりなのだ。最下位が、序列一位に、派手に負ける。誰もが納得する、当たり前の結果を、作るために。私を強化して、私の拳で、自分を吹き飛ばさせる。
顔が、かっと熱くなった。
屈辱、だったのかもしれない。三年間、誰にも崩されなかった私の拳が、ただの小道具として使われる。最下位を演じるための、舞台装置として。
でも。
同時に、背筋を、ぞくりとしたものが駆け上がった。
この子は、私の身体の限界を、正確に知っている。私が、自分でも知らない限界の位置を。今朝、たった一度、覇気で押し潰しただけの相手の身体を、そこまで正確に。
――見ている。
この子は、私を、見ている。
目の前で、あの子が、木剣を握る手をがたがたと震わせ始めた。「ふぅー……ふぅー……」と、わざとらしく荒い息を吐いている。いかにも、怯えて、緊張しきった最下位の生徒。観客席から、くすくすと笑い声が漏れる。
上等だ。
あなたが、負けるために私を使うなら。私は、私の全部で、あなたに届きに行く。
私は、白砂を蹴った。
◇
幻影体術には、段階がある。
一段目は、「影踏み」。踏み込みの瞬間だけ、自分の足元に幻を残す。相手の目は、一瞬、元の位置に私がいると錯覚する。
二段目は、「影渡り」。移動の軌跡そのものを、幻で塗り潰す。相手の目には、私が消えたように見える。
三段目は、「影打ち」。拳の軌道まで、幻で覆う。相手は、打たれたあとで、初めて打たれたことに気づく。
三年間、私は、三段目を使ったことがなかった。二段目までで、誰もが倒れたから。
今日、初めて、三段目を使う。
一歩目。影踏み。私の残像が、開始位置に立ち尽くす。
二歩目。影渡り。私の身体が、競技場の空気に溶ける。観客席から、「消えた!」という声が上がる。
三歩目で、私は、あの子の懐にいた。
強化された脚が、信じられないほど速く、私の身体を運んでいた。いつもの倍。いや、それ以上。風を切る音すら、置き去りにしている。
狙いは、鳩尾。
最短距離。最速の一撃。三段目、影打ち。拳の軌道を幻で覆い、私の右拳が、あの子の鳩尾へと吸い込まれていく。
そのとき。
あの子の目が、動いた。
おどおどと泳いでいたはずの視線が、すっと、一点に定まった。私の、右拳に。
幻で覆われているはずの、誰にも見えないはずの、私の拳に。
――見えている。
息が、止まりそうになった。
あの子の瞳の奥で、碧い光が、ほんのかすかに、揺れていた。何かの補助魔術を、自分の目にかけている。私の幻を、透かして見ている。
そして、その目は、私の拳だけではなく、私の顔を見ていた。私の、目を。
三年間。百を超える試合。
初めて、誰かと、目が合った。
私の拳が、あの子の鳩尾に届く――
届かなかった。
皮膚に触れる、ほんの紙一枚手前で、私の拳は、何か、ひどく硬いものに受け止められていた。透明な壁。私の全力の、強化された拳を、ぴくりとも揺らがずに受け止める壁。
衝撃が、腕を伝って、肩まで跳ね返ってくる。
同時に、あの子と私の間で、轟、と風が爆ぜた。
私の拳から放たれたかのような、凄まじい風圧。白砂が柱のように巻き上がり、私の髪が後ろへ吹き流される。
違う。私の拳から出た風じゃない。この風は、あの子が、私の拳が壁に当たったのと、まったく同じ瞬間に、作り出したものだ。コンマ一秒の狂いもなく。
そして、あの子の身体が、宙に浮いた。
私の目の前から、後ろへ。まるで、私の拳に打ち抜かれたかのように。きれいな放物線を描いて、競技場の白砂の上を、二度、三度とバウンドしながら転がっていく。そのたびに、赤い飛沫が、宙に散った。
血。
――いいえ。違う。
私の拳は、あの子に、触れていない。
あの子の身体は、競技場の端の壁際まで転がって、ようやく止まった。仰向けに倒れたまま、動かない。制服は裂け、額から、口元から、赤いものが流れている。
静寂が、競技場を満たした。
◇
「……だ、大丈夫なのか、あれ……」
「蘇生師さん、呼ばなきゃまずいんじゃ……」
観客席から、恐る恐る、声が上がり始めた。
私は、拳を突き出したまま、動けなかった。
右拳を、見下ろす。皮膚に、傷ひとつない。あの壁に当たった痺れが、まだ、骨の奥に残っている。
届かなかった。
三年間で初めて、私の拳を見た人。初めて、目が合った人。その人に、私は、触れることすらできなかった。
手が、震えていた。脚も、震えていた。立っているのが、やっとだった。
怖い、のではなかった。
悔しい、のとも、少し違った。
あの子は、私を見た。私の、誰にも見えない拳を、正面から見た。そして、受け止めもせず、叩き返しもせず、ただ、透明な壁で、静かに、遮った。
――あなたの拳は、私には、届かない。
そう、言われた気がした。
それなのに。
胸の奥が、熱かった。三年間、一度も感じたことのない熱だった。
私の拳を見てくれる人が、いた。私の全力が、遠く及ばない人が、いた。私が、追いかけても、追いかけても、届かない背中が、この世界には、あった。
それが、どうしようもなく、嬉しかった。
壁際で、倒れていたあの子が、震える手を、ゆっくりと持ち上げた。薄く目を開けて、親指を、立てる。
観客席が、ほっと息をつく音がした。
私は、その親指を見つめた。
がたがたと震えている。でも、私には、わかった。その震えが、演技だということが。あの親指の先に、ほんのかすかに、碧い光が灯っていることが。
あの子の目が、半分だけ開いて、私を見ていた。
――ごめんよ。
唇が、声を出さずに、そう動いた気がした。
「……っ」
何に対して、謝られたのか、わからなかった。私の拳を小道具にしたことに? 届かせなかったことに? それとも、今の私の顔が、きっとひどく青ざめているから?
「あ、あのあのっ、治癒師です……!! 生徒の皆さんは、下がっていてください……!! わ、私が運びますのでっ……!!」
白衣の治癒師が、担架を押して駆け寄ってきた。私は、その治癒師の声に、聞き覚えがあった。今朝、学園長室で聞いた声だ。
担架に乗せられて、あの子が運ばれていく。
私は、その場に立ち尽くしたまま、ずっと、その背中を見送っていた。
◇
俺は、今年度二度目の担架に揺られて、またもや保健室ではなく、学園長室へと運び込まれた。
「おぉ……この幻術、前回も見たけど、やっぱりかなりエグいね」
エトワールが、机に頬杖をついて、俺の血まみれの顔を覗き込んできた。
「僕とレイラは、君が本当は無傷なことを知ってるけどさ。硝子板越しに見てたけど、今回はアイシャが、君が怪我をしたふりをすることまでは知らなかったからね。かなり動揺してたよ」
「そ、そうですよっ……!!」
治癒師の帽子を脱いだレイラさんが、半泣きで抗議してきた。
「わ、私も、正直、怖かったんですからねっ……!! 二回目でも、全然慣れませんっ……!!」
二人から文句を言われて、俺は「悪かったって」とこぼしながら、幻術を解いた。
魔素で構築された、リアルすぎる血液と打撲痕が、碧い粒子になって、一瞬で霧散していく。
「まぁまぁ。そもそも、並の人間が俺にダメージを与えることなんて、さらさらないんだから。あんまり気にしなくてもいいのに」
俺は、へらへらと笑った。
「……まぁ、生徒会長サマのあの顔を見て、ちょっと申し訳なくはなったけどさ」
担架の上から、最後に見たアイシャの顔。真っ青で、手足が細かく震えていた。フィアットのときと、同じだ。自分の拳で、人を壊してしまったと思ったのだろう。
……いや。
少しだけ、違った気がする。
吹っ飛んだ俺の身体でも、流れる血でもなく、目を見ていた。あの人は、最後まで、俺の目を見ていた。
エトワールとレイラさんが、揃って「はぁ〜……」と深いため息をついた。
そのとき、廊下の向こうから、足音が近づいてきた。
大きな足音。間隔が狭い。走っている。
エトワールも、人の気配に気づいて、顔を上げた。
「おっと。どうやら、誰かが来たようだね。……足音からして、三人かな?」
レイラさんも、つられて扉のほうを見つめた。
俺は、担架の上で、ゆっくりと身体を起こした。
足音のひとつに、聞き覚えがあった。軽くて、まっすぐで、少しだけ、焦っている足音。
……あぁ。そういえば、見に行くって、約束してたっけ。




