141 卒業式
卒業式の朝、学園の雪は、ほとんど溶けかけていた。
中庭の石畳のあちこちに、水たまりができていた。屋根の端から、雫がぽたぽたと落ちていた。噴水の裏の雪溜まり……アルブレヒトが頭から突っ込んだ雪溜まりも、すっかり小さくなって、泥まじりの白い塊がひとつ残っているだけだった。
三週間の戦争が終わって、七日が経っていた。そのあいだに、学園の廊下からは果たし状が消えて、食堂では、スープを取りに立っても誰にも挑まれなくなった。……少しだけ、物足りないと思った自分に、驚いた。
講堂の天井には、削りたての新しい梁が、まだ一本だけ白く目立っていた。扉の樫の板にも、継ぎ足した新しい木の色が残っていた。
その講堂に、全校生徒が詰め込まれていた。
今日は、序列順ではなかった。学年順だった。一年生が後ろ、三年生が一番前。三年生の制服の胸には、白い花が一輪ずつ挿してあった。
俺は、一年の列の一番後ろの壁際に立っていた。
隣に、フィアットがいた。目を閉じて、背筋を伸ばして。
反対側に、セルカがいた。俺の袖をつまんで。
「……ハストさま」
「なんだ」
「……そつぎょうしき、なに、するの」
「三年が、いなくなる」
「……ずっと?」
「ずっと、だ」
セルカは、しばらく黙っていた。
それから、一番前の列の、白い花をつけた背中を、じっと見つめた。
「……かいちょうも?」
「会長も」
セルカの、袖をつまむ指に、少しだけ力がこもった。
◇
式は、エトワールの短い挨拶から始まった。
「――卒業生諸君」
壇上で、エトワールは拡声の魔道具を口元に当てた。眼鏡が、天窓からの光をきらりと跳ね返した。
「三年前、君たちは、この講堂で、私の長い話を聞かされた。……今日は短くする。三週間の戦争で、君たちはもう、十分に私の話を聞いた」
講堂の後ろのほうで、くすくすと笑い声が漏れた。
「ひとつだけ言っておく。……君たちは、強くなった。序列の数字ではなく。誰かが膝を折らされたとき、立ち上がった者がいた。誰かの名前が消されかけたとき、それを呼び続けた者がいた。……それが、この学園で君たちが学んだ、一番大事な魔術だ」
エトワールは、眼鏡を押し上げた。
「以上。卒業、おめでとう」
拍手が、講堂を満たした。
俺は、壁にもたれたまま、一番前の列の白い花を眺めていた。
一年前の春、俺はこの講堂の一番後ろで、居眠りをしていた。三百位の最下位で、誰にも気づかれずに三年間をやり過ごすつもりだった。……それが、どうだ。三百位から二位になって、二百九十九位に落ちて、眉毛を焦がした。目立たないどころの話じゃない。
それでも、悪い一年ではなかった、と思った。
次に、壇上に上がったのは、陛下だった。
王の礼装に身を包んで、穏やかな顔で、三年生の列を見下ろした。一番前の列に、自分の娘が座っている。陛下の目が、ほんの一瞬だけ、レイアーヌの上で止まった。
「――卒業生の皆さん。王として、祝いの言葉を述べる」
陛下の声は、よく通った。
「この冬、学園では、二百年前の古い約が、ひとりの生徒によって読み砕かれた。……王家は、その眼を預かると布告した。だが、本当は、預かっているのは私たちではない。この学園の、全員なのだ」
陛下は、講堂の一番後ろの壁際に、目をやった。
フィアットの上で。それから、俺の上で。
「名を呼ぶこと。名を忘れないこと。……卒業してからも、どうか、それを覚えていてくれたまえ。この国は、二十二年かけて、ようやくそれを思い出したところなのだ」
陛下は、そこで少しだけ言葉を切った。
それから、ふっと口元を緩めた。
「……それから、はっす」
講堂が、ざわついた。
陛下は、咳払いをひとつした。
「……はっす、ばらしい未来が、君たちを待っている。以上だ」
講堂の後ろで、俺は、壁に額を押しつけた。
フィアットが、目を閉じたまま、肩を震わせていた。
◇
最後に、卒業生の答辞があった。
壇上に上がったのは、会長だった。
白い花を胸に挿して、生徒会の腕章を左腕に巻いて。……白い腕章ではない、生徒会の、ただの紺色の腕章を。
会長は、壇上の演台の前に立って、一枚の紙を広げた。
講堂が、静まり返った。
会長が、口を開いた。
「――ほんじつは、わたくしたち、そつぎょうせいの、ために」
棒読みだった。
見事なまでの、棒読みだった。
学園祭の劇で、茨の魔王の台詞を棒読みしすぎて、台詞ごと削られた人だ。……忘れていた。
「かくも、さかんなる、しきを、ひらいて、いただき」
講堂の後ろのほうで、誰かが噴き出しかけて、慌てて口を押さえた。
「まことに……ありがたく……」
会長の声が、止まった。
紙を持つ手が、震えていた。
講堂の誰もが、息を詰めていた。
会長は、しばらく、紙を見下ろしたまま動かなかった。
それから、紙を、ゆっくりと二つに折った。
四つに折った。
演台の上に、置いた。
「……ごめんなさい。やっぱり、書いてきたの、読めません」
会長は、顔を上げた。
講堂の全員を、見渡した。
「三年間、この学園で、一番でした。……影の中から、誰にも見えない拳を振るって。誰に挑まれても逃げないことが、一番強い人の役目だと思っていました」
会長の声は、もう、棒読みではなかった。
「でも、この冬、教わりました。強い人の役目は、逃げないことだけじゃない。……誰かが膝を折らされたとき、影から出て、隣に立つことだって」
会長の目が、講堂の一番後ろの壁際に向けられた。
「教えてくれた人は、三百位から二位になって、二百九十九位に落ちて、眉毛を焦がしました」
講堂が、どっと沸いた。
俺は、もう一度、壁に額を押しつけた。
半分だけ生えかけた眉毛が、ひくひくと動いた。
会長は、笑いが静まるのを待って、それから、少しだけ声を落とした。
「……その人のことを、私は、勝手に師匠と呼んでいました。弟子にしてもらったことは、一度もありません」
会長は、まっすぐに、こちらを見ていた。
「でも、決勝のあと、その人が言ってくれました。もう、屋上の稽古は卒業だって。……だから、私、今日、二回卒業します」
会長は、深く深く頭を下げた。
「三年間、ありがとうございました。……後輩の皆さん、この学園を、よろしくお願いします」
講堂が、割れるような拍手に包まれた。
セルカが、俺の袖を、ぎゅっと握りしめていた。
淡い水色の目から、ぽろぽろと涙がこぼれていた。
◇
式が終わったあと、俺は、屋上にいた。
最下位同盟の、いつもの場所。貯水槽の陰。
今日は、ミモザもアルブレヒトもいた。セルカは貯水槽の上で膝を抱えていて、フィアットは扉のそばで目を閉じて立っていた。
扉が、開いた。
会長だった。
白い花を胸に挿したまま、生徒会の腕章は、もう外していた。
「……師匠」
「もう師匠じゃねぇだろ。卒業したんだから」
「卒業しても、師匠は師匠です」
会長は屋上の真ん中まで歩いてきた。
それから、両の拳を、胸の前で軽く合わせた。
「最後に、一本だけ。……お願いします」
ミモザが、息を呑んだ。アルブレヒトが、背筋を伸ばした。
俺は、ポケットから手を出した。
「……来い」
会長が、影に溶けた。
俺の、背中の影から。
拳が、来た。
決勝のときより、速かった。何も考えていない拳。届け、とだけ思っている拳。
俺は、振り返らなかった。
右の手のひらを、肩越しに、そっと後ろへ差し出した。
会長の拳が、俺の手のひらに、とん、と当たった。
止めたのではなかった。
受けたのだ。
俺が入学したばかりの春、この屋上で、初めて会長の拳を遮ったときと、同じ手で。……ただ、あのときは遮った。今日は、受けた。
会長は、拳を手のひらに当てたまま、しばらく動かなかった。
それから、ゆっくりと拳を下ろした。
「……届いた」
会長の声が、震えていた。
貯水槽の陰で、ミモザが両手で口を押さえて泣いていた。アルブレヒトが、黙ってその背中に手を添えていた。屋上の扉のそばで、フィアットが、目を閉じたまま、静かに頷いていた。
「三年かかって、やっと、届きました」
「……ああ」
俺は、手のひらを握った。拳の温かさが、まだ残っていた。
「届いた」
会長は、笑った。
泣きながら、笑っていた。
◇
屋上を出るとき、会長は、ポケットから紺色の腕章を取り出した。
生徒会長の腕章だった。
「次の生徒会長は、もう決まってるの。……私の推薦で」
「誰だよ」
「クルト君」
ミモザが、目を丸くした。
「えっ、クルトくん!? 喋らないのに!?」
「喋らないから、いいのよ。……ちゃんと、誰かの名前を覚えている子だから」
会長は腕章を大事そうにポケットに戻した。
それから、扉のそばのフィアットの前で立ち止まって、ぎゅっと抱きしめた。
貯水槽の上のセルカに手を伸ばして、セルカが降りてくると、セルカもまとめて抱きしめた。
「……かいちょう、くるしい」
「最後だから、我慢して」
「……さいご、やだ」
「最後じゃないわ。遊びに来るもの」
「……ほんと?」
「ほんと」
セルカは、会長の胸に顔を押しつけて、こくりと頷いた。
◇
屋上の階段の下で、クルトが待っていた。
会長が、ポケットから紺色の腕章を取り出して、クルトの手のひらに載せた。
クルトは、腕章を見下ろしたまま、長いこと黙っていた。それから、顔を上げて、会長を見た。
「……アイシャ先輩」
名前を、呼んだ。
会長が、目を見開いた。……クルトが、誰かの名前を自分から呼ぶのを、たぶん、誰も聞いたことがなかった。
「……がんばります」
それだけ言って、クルトは、腕章を左腕に巻いた。少しだけ、斜めだった。会長が、笑いながら、それを巻き直してやっていた。
◇
学園の門の前で、三年生たちが、ひとりずつ、学園を出ていった。
レイアーヌが、門の前で立ち止まって、振り返った。
「ハスト」
「なんだよ」
「北の離宮の庭、草むしりが終わったら、手紙を書くわ。……聖歌隊のチビ、返事くらいは書きなさいよ」
「……字、汚ぇぞ」
「汚くても、読むわよ。……四年分の話の続き、まだ全部は聞いてないもの」
レイアーヌは、にっこりと笑った。
それから、隣のミリエルの手を取って、門の外へ歩いていった。
ミリエルが、振り返って、小さく手を振った。淡い麦わら色の髪が、春の手前の風に揺れていた。聖女と呼ばれた人は、今は、薬草の種の袋を大事そうに抱えた、ただの卒業生の顔をしていた。
門の脇では、ペトラが、手帳に卒業生の顔を一人ずつ描き留めていた。
「全員、描くのか」
「全員。……英雄は、名前を残すべきだからね。名前と、顔と」
ペトラは、鉛筆を走らせながら、少しだけ鼻をすすった。
ディエゴが、腰に白い鞘を提げて、俺の前で足を止めた。
「ハスト」
「……なんだ」
「隣に立つ者を、間違えるな」
それだけ言って、ディエゴは、剣士の礼をひとつして、門を出ていった。
門の上の、石の飾りの上に、盆栽を抱えた大きな影が、いつの間にか座っていた。
バルトロの爺さんだった。
「……爺さんも、帰るのか」
「うむ。北の山へな。松が待っておる」
爺さんは、盆栽の枝ぶりを眺めながら、のんびりと言った。
「九人目。……お主の拳は、この冬、少しだけ温かくなった」
「……そうか」
「もっと温かくなったら、また会おう。そのときは、四十年分の拳を、正面から受けてもらうぞ」
爺さんは門の飾りから、ひょいと飛び降りた。
石畳に、ひびがひとつ入った。
エトワールの、悲鳴みたいな声が、遠くの学園長室の窓から聞こえた気がした。
◇
最後の三年生が門を出ていったあと、俺は、しばらく門の前に立っていた。
雪解けの水が、石畳の溝を流れていた。
フィアットが、俺の隣に立っていた。
「……春が、来ますね」
「ああ」
「ハスト様」
「なんだ」
フィアットは目を閉じたまま、門の外の道を向いていた。
「ハスト様が、あの名前を呼ぶ日。……いつか、来ますよね」
俺は、答えなかった。
胸の真ん中の、白い場所の縁が、ほんの少しだけ温かかった。
雪の夜の、縁側で。フィアットが、読めたかもしれない名前を、読まなかった夜から。
「……さあな」
俺は、門に背を向けた。
「帰るぞ。パン、焼く」
「焦がさないでくださいね」
「……努力する」
フィアットが、くすりと笑った。
セルカが、走ってきて、俺の袖をつまんだ。
雪解けの道を、三人で歩いた。
道の端の雪の下から、小さな緑の芽が、ひとつだけ顔を出していた。セルカが、それを見つけて、しゃがみ込んで、指先でそっとつついた。
「……はる」
「まだ早ぇよ」
「……はるの、におい」
セルカは、立ち上がって、また俺の袖をつまんだ。




