140 雪の中の少年
その夜、ハブられ分館の台所は、人で溢れ返っていた。
「――優勝、おめでとう!! 銀眼の一位!!」
ラインハルト君が、骨付きの塊肉を両手に掲げて叫んだ。三本目だった。
「肉だ! 祝いには肉だ! 親父がそう言ってた!」
「お前の親父、何でも肉だな」
レオン君が、窓を全部開けながら言った。台所は、肉を焼く煙で真っ白になっていた。
長卓の端では、アベルが、二本の小さな旗を交互に振っていた。『フィアット』と『セルカ』。今朝は絡まっていた旗が、今はきれいに並んではためいていた。夕方までに、アルブレヒトさんに柄を直してもらったらしい。
そのアルブレヒトさんは、竈の前で、ハスト様の隣に並んでパンをこねていた。古い前掛けをつけて、小鬼の刺繍を胸に。
「……ハスト殿。この生地は、何回こねれば」
「数えるな。手が覚える」
「手が……覚える」
「パンが、いたくないって、いうまで」
アベルが、旗を振りながら言った。
ミモザさんは、セルカの隣で、膝を抱えて座っていた。両手の中に、小さな橙色の火を灯していた。手のひらの上で、ろうそくの炎くらいの火が、ゆらゆらと揺れている。
「……見てください、フィアットさん。ずっと、消えないんです」
ミモザさんは、目を潤ませながら笑った。
「春休みに、港町に帰ったら、父ちゃんの燻製小屋で、これを灯すんです。……村のみんな、びっくりするかなぁ」
「するよ。きっと」
「えへへ」
セルカが、ミモザさんの火に、指先から冷たい空気をそっと吹きかけた。火は、少しだけ揺れて、それでも消えなかった。
「……つよい火」
「でしょう!」
会長は、窓辺で、レイアーヌ先輩と並んで、紅茶を飲んでいた。ふたりとも、目元が少しだけ赤かった。
アルスさんは、長卓の一番奥で頬杖をついて、焼き上がったばかりのアルブレヒトさんのパンを、断りもなくちぎって口に放り込んでいた。
「……悪くねぇ」
「ありがとうございます」
「褒めてねぇよ。塩が足りねぇ」
「……努力します」
サリナ様は、長卓の一番端の椅子に、ちょこんと腰かけて、その全部を眺めていた。足が床に届かないので、ぶらぶらと揺れていた。
左の頬に、ずっと、えくぼができていた。
途中で、ペトラさんが、刷り上がったばかりの号外の束を抱えて飛び込んできた。
「――最終序列、出たよ!」
ペトラさんは、号外を長卓の上にばさっと広げた。
『全校トーナメント最終結果。一位、フィアット・セルジーネ。三位、アイシャ。四位、セルカ・アーネット』
「……二位は?」
「クルト君」
台所が、一瞬、静まり返った。
「呪われた二位の椅子、最後まで呪われてたね。クルト君、予選の四日目で負けたんだけど、相手がフィアットちゃんだったの。一位に負けても、序列は入れ替わらない。……つまり、二位のまま、トーナメントが終わっちゃった」
教室の隅で黙って皿を洗っていた男の子が、全学年二位で年度を終える。
ラインハルト君が、肉を持ったまま、床に転げて笑った。
「……で、ハスト君は」
ペトラさんが、にやりと笑って、号外の一番下を指さした。
『二百九十九位、ハスト』
「……一位から二百九十八番目」
「数えんな」
ハスト様が、竈の前から、低い声で言った。半分だけ生えかけた眉毛が、ぴくりと動いた。
セルカが、号外を覗き込んで、ぽつりと言った。
「……わたし、四位。ハストさま、二百九十九位。……二百九十五も、上。……やだぁ」
台所中が、笑い声でいっぱいになった。
◇
帰り際、サリナ様が、私の袖をそっと引いた。
「フィアット」
「はい」
「……今夜は、雪が降るぞ」
サリナ様は、窓の外の夜空を見上げていた。まだ、星が見えていた。
「雪の夜は、白いものがよく見える。……見えても、急いで読むでないぞ」
それだけ言って、サリナ様は、紅い髪を揺らして、門の外の夜の中へ帰っていった。
◇
みんなが帰ったのは、夜もずいぶん更けてからだった。
台所の灯りを消して、私は、分館の縁側に出た。
雪が、降り始めていた。
昼間はあんなに晴れていたのに。夜になって、音もなく、白いものが空から落ちてきていた。
縁側の端に、ハスト様が座っていた。台所の騒ぎが一段落したあと、いつの間にかいなくなっていたのだ。
膝の上に肘をついて、雪の降る庭を、黙って見ていた。
半分だけ生えかけた眉毛の下で、碧い目が、どこか遠くを見ていた。
私は少しだけ迷ってから、ハスト様の隣に腰を下ろした。
「……冷えるぞ」
「大丈夫です」
ハスト様は、それ以上何も言わなかった。
ふたりで、雪を見ていた。
さっきまでの台所の騒がしさが、嘘みたいだった。肉の煙の匂いが、まだ少しだけ服に残っていた。
庭の真ん中の、アベルの背丈の傷が刻まれた柱に、雪が少しずつ積もっていった。
「……ハスト様」
「なんだ」
「昨日、セルカと戦ったとき」
私は、膝の上で両手を握った。
「止まった世界の中で、セルカが、言ったんです。……私の胸の白いところと、ハスト様の胸の白いところは、同じにおいがするって」
ハスト様の肩が、ほんのわずかに動いた。
雪が、しんしんと降っていた。
ハスト様は、長いこと、何も言わなかった。
それから、ぽつりと言った。
「……知ってたのか。止まったこと」
「ハスト様は、気づいてましたよね」
「……まあな」
ハスト様は雪の庭を見たまま、息を吐いた。白い息が、夜の中にふわりと溶けていった。
「四年前の、冬だ」
ハスト様の声は、低かった。
「北の、辺境の村で。……俺が、十三のとき」
私は、息を止めた。
「大事な子が、いた。……守れなかった」
ハスト様は自分の右手を見下ろしていた。
「村が、焼けた。雪の中だった。紋章をつけた兵たちが来て、吹雪の向こうで、銀の光がひとつ光った。……俺は、走ってた。その子の名前を、叫びながら」
ハスト様の指が、ゆっくりと握りしめられた。
「その名前が、思い出せねぇんだ」
声が、少しだけ、かすれていた。
「顔も、声も、手の冷たさも、覚えてる。……名前だけが、白い。どれだけ思い出そうとしても、そこだけ、雪に埋もれたみたいに」
私の胸の奥の、白い場所が、ずきんと痛んだ。
雪の中を、走っていた。
小さな私が。泣きながら。焦げた匂いから逃げて。
誰かが、遠くから、私を呼んでいた。
「……ハスト様」
私の声が、震えていた。
「見ても、いいですか」
ハスト様が、こちらを向いた。
「ハスト様の、白いところ。……目を開けて」
ハスト様は、私の顔をじっと見ていた。
閉じた瞼の、その下まで見透かすような目で。
長い沈黙だった。
雪が、ハスト様の髪に、私の髪に、静かに降り積もっていった。
「……ああ」
ハスト様は、短く言った。
「見ろ」
◇
私は、瞼を持ち上げた。
銀色が、雪の夜の中にあふれた。
ハスト様の色が見えた。
碧。澄んだ碧。夏の空の、一番高いところの色。
その真ん中に、白い場所があった。
ぽっかりと開いた、白い穴。その縁に、細い罅が、何本も何本も走っていた。講堂のあの日、鉤に抉られたところ。……そして、その罅の形が。
私の胸の白の罅と、同じ形をしていた。
鏡に映したみたいに。
一枚の紙を、真ん中で破いて、ふたつに分けたみたいに。
私は、白い場所の奥を見た。
――雪が、見えた。
◇
吹雪だった。
夜の村が、燃えていた。茅葺きの屋根が、次々と火を噴いて、雪の夜空を橙色に焦がしていた。
男の子が、走っていた。
十三歳くらいの、痩せた男の子。髪に雪をまとわりつかせて、裸足に近い足で、膝まで積もった雪をかき分けて。
碧い目だった。
濁った、碧。泣きそうな色。怒りと、怖さと、どうしようもない焦りで、ぐちゃぐちゃに濁った碧。
男の子は、叫んでいた。
誰かの名前を。
何度も、何度も。喉が裂けそうなほど。
――その名前が、白かった。
叫んでいる声は聞こえるのに、名前のところだけ、音が抜け落ちていた。白い穴が、吹雪の中にいくつも開いていった。
男の子の向こうに、小さな人影が見えた。
雪の中に、うずくまっていた。
小さな手が、雪の上に伸びていた。
冷たい手だった。
――その瞬間、私の胸の白が、内側から裂けた。
◇
雪の中を、走っていた。
小さな私が。泣きながら。前も見ずに。
後ろから、焦げた匂いがしていた。
誰かが、私の名前を呼んでいた。遠くから。吹雪の向こうから。喉が裂けそうな声で。
――ああ。
あれは、この声だ。
私が、白い場所の奥でずっと聞いていた、フィアットじゃない名前で私を呼ぶ声。
あれは。
この男の子の、声だ。
ふたつの雪が、重なった。
ハスト様の白の奥の雪と、私の白の奥の雪が。表と裏から、同じ夜を見ていた。ハスト様は、走りながら叫んでいた。私は、走りながら、その叫びを聞いていた。
ふたつの白が、ぴたりと重なって、ひとつの白い名前になった。
その名前が、見えた。
白く塗りつぶされた、短い名前。
私の眼なら、読める。
アンセルムの名前を、読んだように。原本の白を剥がしたように。一画ずつ、たどっていけば。
縦の線が、見えかけた。
最初の一画が、白の下から、うっすらと浮かび上がりかけた。
――私は、そこで、止まった。
◇
読んだら、どうなるのか。
わからなかった。
わからなかったけれど、ひとつだけ、わかった。
この名前は、私が読むものじゃない。
この名前は、ハスト様が、十三歳の冬に、雪の中で、喉が裂けるほど叫んだ名前だ。叫んで、叫んで、それでも届かなくて、白い穴の中に落としてしまった名前だ。
それを、私が、この眼で勝手に剥がしていいはずがない。
レイアーヌ先輩の記憶を、ハスト様が自分の手で返したように。名前を返すのは、それを抱えてきた人の役目だ。
――いつか、ハスト様が、自分で呼ぶ。
その日まで、この白は、ハスト様のものだ。
そして、たぶん。
私のものでも、ある。
私は、瞼を下ろした。
銀色が、雪の夜の中に、静かに消えていった。
――見えても、急いで読むでないぞ。
サリナ様は、知っていたのだ。今夜、私が、ここで、この白の前に立つことを。……たぶん、ずっと前から。
◇
目を閉じると、縁側の冷たさが戻ってきた。
雪の音。隣に座るハスト様の、息の音。
頬が、濡れていた。
雪ではなかった。
「……フィアット」
ハスト様の声が、すぐ隣から聞こえた。
「何が、見えた」
私は、しばらく黙っていた。
嘘は、つきたくなかった。ハスト様にも、私自身にも。
「……雪が、見えました」
私は、正直に言った。
「それから、男の子が、誰かの名前を呼んでました。……すごく、大事そうに」
ハスト様は、何も言わなかった。
「名前は、読みませんでした」
私は、膝の上で両手を握った。
「読めたかもしれないけど、読みませんでした。……それは、ハスト様が、いつか自分で呼ぶ名前だと思ったから」
ハスト様が、私のほうを向く気配がした。
「……読めたのか」
「たぶん」
「なんで、読まなかった」
私は、目を閉じたまま、笑った。
「……ハスト様が、レイアーヌ先輩の記憶を、自分の口から返したのと、同じ理由です。返すのは、ずっと抱えてきた人じゃなきゃ」
雪が、降っていた。
ハスト様は、長いこと、黙っていた。
それから、私の頭の上に、ぽん、と手を置いた。
大きな手だった。
温かかった。
「……そうか」
それだけだった。
それだけで、十分だった。
◇
私たちはそれからしばらく、ふたりで雪を見ていた。
胸の奥の白い場所が、静かに脈打っていた。
講堂のあの日から、白い場所を見るのが怖かった。白の奥で誰かが呼んでいて、その声に答えたら、今の私がどこかへ行ってしまう気がしていた。フィアットとして、ハスト様の隣で、焦げたパンを食べている私が。
今は、少しだけ違った。
あの声は、怖いものではなかった。雪の中で、喉が裂けるほど、誰かを探していた声だった。
罅は、もう増えていなかった。
その代わりに、ほんの少しだけ、温かかった。
隣に座るハスト様の胸の白も、たぶん、同じだった。
――私の白と、ハスト様の白は、同じ夜でつながっている。
それが、何を意味するのか。私が、本当は誰なのか。フィアットじゃない名前が、何なのか。
今は、まだ、知らなくていい。
知るときは、きっと、来る。
そのときは、ハスト様が、自分の声で、その名前を呼んでくれる。
雪の中で、喉が裂けるほど叫んだ、あの声で。
……そう、信じていたかった。
縁側の後ろの、台所に続く扉の隙間から、淡い水色の目が、こっそりこちらを覗いていた。
セルカだった。
目が合うと、セルカは、何も言わずに扉を閉めた。
閉める直前、小さな声が聞こえた。
「……ふたりとも、おなじ、におい」
それから、ぱたぱたと、二階へ駆け上がっていく足音がした。
ハスト様が、小さく舌打ちをした。
私は、目を閉じたまま、雪の中で笑った。




