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139 決勝――前の一位と、目を閉じた一位


最後の朝、私は、生徒会室で、三週間分の立会記録を読み返していた。


分厚い紙の束だった。決闘期間の二十一日間に、生徒会の役員たちが立ち会った決闘の記録が、全部ここにある。誰が誰に挑んで、誰が勝って、序列がどう動いたか。


ページをめくるたびに、知っている名前が出てきた。


ラインハルト君が、レオン君に負けた日。ハスト君……師匠が、二百十四位の子に、転び方七番で負けた日。ミモザちゃんが、旗を守り抜いた雪原の日。


それから、白い外套の名前が、何度も、何度も。


レオン君の立会記録の、勝者の欄。インクが滲んで、小さな黒い丸になったところ。


私は、その黒い丸を、指でそっと撫でた。


あの夜、この欄にペン先を下ろしたまま、動けなかった。見届けることしか、しなかった。


その次の頁には、私自身の名前があった。


勝者、アルブレヒト・フォン・ヴァイスハイト。


それから、三日後の頁。講堂の一件のあとに、生徒会の書記の子が、震える字で書き足した一行。


『この日、全ての白い腕章が灰となる。立会人、全校生徒』


私は、紙の束を閉じた。表紙の革に、三週間分の手の脂が染みて、少しだけ色が濃くなっていた。来年からは、この束を、次の会長が引き継ぐ。誰になるのかは、まだ決まっていない。……クルト君あたりが、意外と向いているかもしれない。


窓の外は、よく晴れていた。三週間、降ったり止んだりを繰り返していた雪が、今朝は嘘みたいに止んで、空が高かった。


あと七日で、卒業式だ。


この学園で、私が拳を振るうのは、今日が最後になる。


一年生の春、この生徒会室に初めて入った日のことを思い出した。前の会長が、序列戦規則の分厚い本を私の腕に載せて言った。規則は、弱い人を守るためにある、と。


それから三年。私は、影の中から、誰にも見えない拳を振るって、ずっと一位の椅子に座っていた。誰に挑まれても逃げなかった。……それが、強い人の役目だと思っていた。


今は、少しだけ違うことを考えている。強い人の役目は、逃げないことだけじゃない。誰かが膝を折らされたとき、影から出て、隣に立つことだ。……それを教えてくれたのは、三週間の戦争と、三百位から二位になって二百九十九位に落ちた、眉毛の焦げた人だった。


◇


決勝の舞台に上がる前に、控えの間の廊下で、フィアットさんとすれ違った。


フィアットさんは、目を閉じていた。


秋の順位戦の決勝のときと、同じように。


「……アイシャ先輩」


フィアットさんが、立ち止まった。


「秋の決勝のときも、こうやって廊下ですれ違いましたね」

「ええ。……あのときは、私が一位で、あなたが挑戦者だった」

「今日は、逆です」

「ふふ。そうね」


私は、笑った。


三年間無敗だった私に、秋、目を閉じた一年生の女の子が勝った。悔しくて、その夜は、生徒会室で一晩中、拳の素振りをした。……それから、半年。


その女の子は、講堂で、全校生徒の前で目を開けて、白い約を全部、読み砕いた。私の左腕から、白い腕章を灰にしてくれた。


「フィアットさん」

「はい」

「目は、閉じたままでいいわ」


フィアットさんが、少しだけ首を傾げた。


「あなたが、見なくていいものを見ないために閉じてるって、師匠から聞いたの。……だから、閉じたままでいい」


私は、自分の目元に、そっと指を当てた。


「私も、閉じて行くから」


フィアットさんの閉じた瞼が、ほんのわずかに震えた。


それから、口元が、ゆっくりとほころんだ。


「……はい。じゃあ、ふたりとも、閉じたまま」


◇


「――全校トーナメント、決勝!」


審判の先生の声が、すり鉢の底から、最上層の天幕まで響いた。


「一年、フィアット・セルジーネ! 全学年序列一位!」


観覧席が、揺れた。


「三年、アイシャ! 全学年序列三位!」


もう一度、揺れた。


決闘期間の終わりに三十一位まで落ちた私は、トーナメントで、上の人たちを順番に倒して、三位まで戻ってきていた。準決勝の相手は、三年の序列三位の、大斧を振るう先輩だった。去年まで、私の三年間で、一度だけ引き分けた人だった。


今日の試合場を、私は、隅から隅まで見回した。


冬の正午の、高い太陽。雪を払った石畳の上には、影がほとんどない。ふたりぶんの短い影と、観覧席の手すりの、細い影だけ。


影渡りの、出口が少ない。


……わかっていた。今日の決勝が正午に組まれたのは、たぶん、エトワール学園長の意地悪だ。


観覧席の最前列に、師匠がいた。


半分だけ生えかけた眉毛が、少しだけ情けなかった。その隣に、セルカちゃんがいて、ミモザちゃんがいて、アルブレヒト君がいて、ラインハルト君とレオン君とクルト君が並んでいた。


屋根のない試合場の、観覧席の最上段の、さらに上の天幕の屋根の上に、盆栽を抱えた大きな影がひとつ、座っていた。


バルトロ様だった。


「――始めッ!」


◇


私は目を閉じた。


フィアットさんも、目を閉じていた。


ふたりとも、何も見ていなかった。


私は、自分の影の中に、溶けた。


どこから出るかを、決めなかった。どこを打つかも、決めなかった。


ただ、届け、とだけ思った。


バルトロ様の背中に、百一回目で触れたときと、同じように。白い外套の頬を、紋章の小さな影からかすめたときと、同じように。


――出た。


フィアットさんの、背中の、短い影から。


拳が、フィアットさんの肩口へ伸びた。


フィアットさんが、半歩だけ、横にずれた。


拳が、空を切った。


――読まれた?


違う。


フィアットさんは、私を読んでいなかった。読めないはずだった。私の影渡りは、魔術じゃない。行がない。色も、影の中では消える。そして、私は、何も考えていなかった。


それなのに、半歩、ずれた。


私は、また影に溶けた。


観覧席の手すりの影から。フィアットさんの足元から。自分の影から。


三度、拳を打った。


三度、半歩ずつ、かわされた。


四度目の拳が、フィアットさんの前髪を、かすめた。


フィアットさんの頬に、一筋、赤い線が走った。


観覧席が、悲鳴を上げた。


◇


私は試合場の端に着地して、息を整えていた。


フィアットさんは目を閉じたまま、頬の血を手の甲で拭っていた。


「……先輩の拳」


フィアットさんが、静かに言った。


「何も、聞こえません。行も、見えません。色も、影の中では消えちゃう。……ミレーユ先輩の一礼みたいな音も、しない」

「じゃあ、どうして、避けられたの」

「風です」


フィアットさんは、少しだけ笑った。


「先輩が影から出てくるとき、その分だけ、空気がどきます。……ほんの少しだけ。先輩の身体の大きさの分だけ、風が、私の頬を撫でるんです」


私は目を閉じたまま、息を呑んだ。


――目を閉じた一位。


この子は、目を閉じていても、世界のほうが、この子に全部を教えてくれるのだ。


「でも」


フィアットさんの声が、少しだけ硬くなった。


「四回目は、間に合いませんでした。……先輩の拳、どんどん速くなってます」

「ええ」


私は、拳を握り直した。


「三年分、速くなってる最中なの。……今日で、最後だから」


◇


五度目。


私は、影に溶けた。


今度は、フィアットさんの影の中に。


フィアットさんの真下の、正午の太陽が作る、一番短くて、一番濃い影。そこから、まっすぐ上へ。


――出られなかった。


影が、なかった。


フィアットさんの足元が、白く光っていた。


「――第三階梯、『Light』」


小さな光の珠が、フィアットさんの足元の石畳の上に、ひとつ灯っていた。真下から照らす光。……それが、フィアットさんの影を、跡形もなく消していた。


出口が、閉じた。


私は影の中で、出口を失った。


――違う。


まだ、ひとつ、残っている。


私自身の、影。


私は、自分の影から飛び出した。


試合場の端から、真正面へ。何の小細工もなしに。影渡りでもなく、幻影体術でもなく。ただ、まっすぐに、走った。


三年間、影の中から、誰にも見えない拳を振るってきた。


最後の一撃だけは、影から出て、正面から。


――師匠に、屋上で拳を遮ってもらった、あの日みたいに。


フィアットさんが、剣を構えた。


目を閉じたまま。


私の拳が、フィアットさんの顔へ。


フィアットさんの剣が、私の脇腹へ。


◇


止まっていた。


私の拳は、フィアットさんの額の、ほんの指一本手前で止まっていた。


フィアットさんの剣の切っ先は、私の脇腹の、ほんの指一本手前で止まっていた。


どちらも、届いていなかった。


どちらも、止めていた。


試合場が、しんと静まり返っていた。三千人が、息をするのを忘れていた。


審判の先生が、ふたりの間にゆっくりと歩み寄ってきた。


私の拳と、フィアットさんの切っ先を、交互に見比べた。


私は、目を開けた。


フィアットさんも、目を開けていた。


銀色だった。


近くで見ると、本当にきれいな色だった。冬の朝の、雪の上に差す最初の光みたいな。


その銀色が、私の拳を見て、少しだけ細められた。


「……先輩」

「なに?」

「先輩の拳、止まったの、私の剣より、ほんの少しだけ遅かったです」


私は、自分の拳を見下ろした。


フィアットさんの額との間の、指一本ぶんの隙間。


それから、フィアットさんの剣の切っ先と、私の脇腹との間の、指一本ぶんの隙間。


同じ、指一本。


でも、たぶん、フィアットさんの言うとおりだった。私の拳が止まったのは、フィアットさんの切っ先が止まったのを、肌で感じたあとだった。


「……そうね」


私は、拳をほどいた。


「私の、負けね」

「――勝者、フィアット・セルジーネ!」


観覧席が、崩れ落ちるような歓声に包まれた。


最前列で、ラインハルト君が、手すりから身を乗り出して何かを叫んでいた。レオン君が、その襟首を掴んで引き戻していた。クルト君が、誰よりも大きな音で手を叩いていた。ミモザちゃんとセルカちゃんが、抱き合って跳ねていた。アルブレヒト君は、背筋を伸ばしたまま、静かに拍手をしていた。


最上層の天幕の下で、陛下が立ち上がっているのが見えた。その隣で、サリナ様が、小さな手を叩いていた。


◇


私は試合場の真ん中で、空を見上げていた。


高い、冬の空だった。


負けた。


三年間の最後の拳で、また、目を閉じた一年生に負けた。


悔しかった。


秋と同じくらい。……いいえ、秋よりも、ずっと。


秋の悔しさは、三年間守ってきた椅子を奪われた悔しさだった。今日の悔しさは、違った。三年分の全部を、最後の一撃に乗せて、それでも届かなかった悔しさ。……自分の全部を出し切った人だけが味わえる、混じりけのない悔しさだった。


それなのに、胸の奥が、ふしぎなくらい、温かかった。


フィアットさんが、目を閉じ直して、私の前に立っていた。


「……先輩」

「なに?」

「最後の一撃、影から出てきてくれて、ありがとうございました」


私は、フィアットさんを見た。


「影の中の拳は、風でしかわからなかったけど。……最後の拳は、ちゃんと、見えました。目を閉じてても」


私は、何も言えなかった。


代わりに、フィアットさんを、ぎゅっと抱きしめた。


「――っ、せ、先輩」

「ごめんなさい、ちょっとだけ」

「……はい」


フィアットさんは、私の腕の中で、少しだけ笑っていた。


◇


試合場を降りると、観覧席の最前列の手すりのところに、師匠が立っていた。


半分だけ生えかけた眉毛の下で、碧い目が、私を見ていた。


「……師匠」


私は手すりの前で立ち止まった。


師匠は、しばらく黙っていた。


三年間、何度、弟子にしてくださいと頼んだかわからない人。そのたびに、面倒くさそうに目を逸らした人。……私が、勝手に師匠と呼んでいる人。


師匠が、口を開いた。


「……いい拳だった」


それだけだった。


それだけで、もう、だめだった。


涙が、止まらなくなった。


負けても泣かなかったのに。抱きしめても泣かなかったのに。三年間、一度も褒めてくれなかった人の、たった一言で。


「……っ、師匠……」

「泣くなよ」

「泣いて、ません……」

「泣いてるだろ」


師匠は、困ったように頭をかいた。それから、手すり越しに、私の頭の上に、ぽん、と手を置いた。


大きな手だった。


冷たくなかった。


「……もう、屋上の稽古は卒業だ。会長」


私は、顔を上げた。


卒業。弟子にした覚えは一度もない、と言い続けてきた人が。


「……それって、私、弟子だったってことですか」

「……知らねぇよ」


師匠は、ぷいと横を向いた。耳の先が、ほんの少しだけ赤かった。


天幕の屋根の上で、バルトロ様が、盆栽を抱えたまま、低く言うのが聞こえた。


「ふむ」


それから、もう一度。


「……ふむ」


二回目の「ふむ」は、ほんの少しだけ、震えていた気がした。


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