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138 準決勝――時計を貸して


その夜、わたしは眠れなかった。


ハブられ分館の二階の、フィアットとわたしの部屋。窓の外では、雪が静かに降っていた。


隣の寝台で、フィアットも、眠っていなかった。


寝息が、聞こえなかった。目を閉じたまま、天井を見ているのがわかった。フィアットは、いつも目を閉じているから、起きているのか寝ているのか、見た目ではわからない。でも、においでわかる。眠っているときのフィアットは、焼きたてのパンみたいなにおいがする。今は、雪の朝みたいな、少し硬いにおいがしていた。


「……フィアット」

「なに? セルカ」


すぐに返事が来た。


「……あした」

「うん」

「フィアットと、たたかうの、はじめて」


準決勝。わたしの準々決勝の相手は、二年の槍の人だった。速かったけれど、まっすぐすぎた。一拍で、懐に入れた。……それで、わたしは、ここまで来てしまった。


フィアットの山の、一番上まで。


「……そうだね。はじめてだね」


フィアットの声が、少しだけ笑っていた。


「雪原の旗取りのときは、同じ組だったもんね」

「……うん」


わたしは毛布の中で膝を抱えた。


「……こわい」

「私も」


フィアットは、あっさり言った。


「セルカの一拍、速いもん。……講堂のあとから、もっと速くなってる」

「……フィアットの、目のほうが、こわい」

「閉じてるよ」

「とじてても、こわい」


フィアットが、くすっと笑った。


それから、しばらく黙っていた。


雪の音だけが、していた。


「……ねえ、セルカ」

「なに」

「あしたは、時計、使わないんだよね」

「……つかわない。人前では」

「うん。……でも、もし、どうしても使っちゃったら」


フィアットは寝台の上で、こちらに顔を向けた。


閉じた瞼が、月明かりの中で、うっすらと白く光っていた。


「そのときは、私の時計は止めないで。……北の湖のときみたいに。セルカの時計、私に貸して」


わたしは毛布の中で、ぎゅっと膝を抱きしめた。


北の湖。止まった世界の中で、わたしは、フィアットの時間だけは止めなかった。わたしの時計だから。……そう言ったのは、わたしだった。


「……かす」


わたしは、小さく言った。


「フィアットには、いつでも、かす」

「ありがと」


それから、フィアットの寝息が聞こえ始めた。


焼きたてのパンのにおいが、ふわりと部屋に広がった。


わたしは、まだ眠れなかった。


◇


朝の台所は、いつもより騒がしかった。


「……どっちを、おうえんすればいいの」


アベルが、長卓の上で、困ったように首を傾げていた。両手に一枚ずつ、小さな旗を持っていた。片方には、下手な字で『フィアット』。もう片方には『セルカ』。昨日の夜、アルブレヒトに手伝ってもらって作ったらしい。


「両方、振ればいいでしょう」


アルブレヒトが、パンの生地を丸めながら、真顔で言った。


「それでは、旗の意味がありません」

「……じゃあ、かわりばんこに、ふる」


アベルは、旗を交互に振る練習を始めた。右、左、右、左。途中で両方の旗が絡まって、長卓の上に転がった。


ハストさまは、竈の前で粥を煮ていた。何も言わなかった。でも、粥をかき混ぜる手が、いつもより少しだけ速かった。


◇


準決勝の試合場は、昨日よりも、もっとたくさんの人で埋まっていた。


最上層の来賓席に、陛下がいた。その隣に、サリナさまがいた。紅い髪が、天幕の影の中でも目立っていた。サリナさまが学園の試合を見に来るのは、はじめてだった。足が床に届かないので、ぶらぶらと揺れていた。


観覧席の最前列に、ハストさまがいた。


眉毛は、もう、炭で描いていなかった。……今朝、フィアットが描こうとしたら、もういい、と言って逃げた。半分だけ生えかけた眉毛が、ちょっとだけ情けなかった。


その隣に、ミモザと、アルブレヒトと、会長がいた。会長は、午後に、もうひとつの準決勝を戦う。それなのに、朝から、ここにいた。


「――準決勝、第一試合。一年、フィアット・セルジーネ。対、一年、セルカ・アーネット」


観覧席が、どよめいた。


全学年一位と、全学年四位。ふたりとも、一年。ふたりとも、同じ分館に住んでいる。……ペトラさんの号外には、『同じ屋根の下の決戦』と書いてあった。


わたしは試合場の真ん中で、フィアットと向かい合った。


フィアットは、目を閉じていた。


剣を、まだ抜いていなかった。


「……セルカ」

「なに」

「本気で、来てね」

「……フィアットも」


フィアットは、こくりと頷いた。


それから、ゆっくりと剣を抜いた。


「――始めッ!」


◇


わたしは、最初から、一拍を使った。


「――第五階梯、『Ice lance』」


氷の槍が、十二本。


フィアットのまわりを、ぐるりと囲むように並べた。正面だけじゃなく、背中にも、頭の上にも。逃げる場所が、どこにもないように。


フィアットは、動かなかった。


目を閉じたまま、剣を下段に構えて、立っていた。


十二本が、一斉に飛んだ。


フィアットの剣が、動いた。


一本目を払った。二本目を、払った剣を返して弾いた。三本目と四本目のあいだを、身体ひとつぶん、すり抜けた。


見ていない。


目を閉じている。


それなのに、全部、見えている。


氷の槍が、ひとつ残らず、フィアットの後ろの石畳に突き刺さった。


観覧席が、どよめいた。


「――第六階梯、『Boosted all』」


フィアットの身体が、すうっと軽くなったのが、においでわかった。


速かった。


一拍。


わたしは、フィアットの剣の内側に入った。


氷の短剣が、わたしの手の中に生まれていた。フィアットの胸元へ。


フィアットの剣の柄が、わたしの短剣の腹を、こつんと叩いた。


短剣が、手から弾けて飛んだ。


――読まれていた。


一拍の、その先まで。


わたしは、後ろへ跳んで、距離を取った。


フィアットは、追ってこなかった。


目を閉じたまま、静かに剣を構え直していた。


「……セルカの一拍は、きれいだね」


フィアットが、言った。


「いつも、同じ長さ。いつも、同じ速さ。……だから、来るのがわかる」


わたしは、唇を噛んだ。


――なら。


「――第七階梯、『Frost seal』」


石畳が、フィアットの足元から凍りついた。


一拍。


もう一拍。


二拍続けて、加速した。


いつもの、一拍じゃない。サリナさまの修行部屋で、こっそり練習していた、二拍。指先が、少しだけ歳を取る感じがした。


フィアットの背中に、回り込んだ。


氷の短剣を、もう一度、手の中に。


フィアットの首筋に、届く。


――届く。


フィアットが、振り返った。


目を閉じたまま。


剣の切っ先が、わたしの喉元に、向いていた。


わたしの短剣と、フィアットの切っ先が、ぶつかる。


そのとき、わたしの指が、勝手に動いた。


袖の中で。


何かを、握るように。


――時計を。


◇


世界が、止まった。


観覧席の歓声が、ぴたりと止まった。舞っていた氷の破片が、宙に浮いたまま動かなくなった。最上層の来賓席で、陛下が、身を乗り出した姿勢のまま固まっていた。


ハストさまが、観覧席の手すりを握ったまま、止まっていた。


全部が、止まっていた。


わたしは、自分の手を見下ろした。


止めてしまった。


人前では、使わないって、言ったのに。ハストさまの秘密を守るって、言ったのに。フィアットと、本気で戦うって、言ったのに。


指先が、震えていた。


「――セルカ」


声が、した。


目の前で、フィアットが、剣を下ろしていた。


動いていた。


止まった世界の中で、フィアットだけが、動いていた。


……止めていなかった。


フィアットの時計だけは、わたしは、止めていなかった。


昨日の夜、約束したから。北の湖のときと、同じように。


フィアットは止まった世界の中で、ゆっくりと瞼を持ち上げた。


銀色が、あふれた。


誰にも見えない世界で。


止まった観覧席の誰にも、止まった陛下にも、止まったハストさまにも、見えない世界で。フィアットは、目を開けて、わたしを見ていた。


「……ずるは、だめだよ」


フィアットが、笑っていた。


怒っていなかった。


「……ごめん」


わたしの声が、震えた。


「ゆび、かってに、うごいた。……フィアットに、まけたくなかった」

「うん。わかってる」


フィアットは剣を鞘に収めた。


それから、止まった試合場の真ん中で、わたしの前にしゃがみ込んだ。


銀色の目が、まっすぐに、わたしの目を見ていた。


「セルカの色、きれいだね」

「……え」

「淡い、水色。……講堂のあとから、ちょっとだけ、あったかい色になってる」


わたしは、何も言えなかった。


フィアットの銀色の目が、わたしの胸の奥まで、全部見ていた。


怖くなかった。


不思議なくらい、怖くなかった。


「……フィアット」

「なに? セルカ」

「フィアットの、しろいとこ」


フィアットの肩が、ぴくりと動いた。


「……わたし、においで、わかる。フィアットの、むねのおくの、しろいとこ。……こわくない?」


フィアットは、しばらく黙っていた。


止まった世界には、風も吹かなかった。雪も降らなかった。ふたりの息の音だけが、聞こえていた。


「……こわいよ」


フィアットは、小さく言った。


「時々、誰かが呼んでる。フィアットじゃない名前で。……誰なのか、わからない。わかるのが、こわい」


それから、フィアットは、笑った。


「でも、セルカがいるから。ハスト様がいるから。……だから、大丈夫」


わたしは、フィアットの手を取った。


温かかった。


「……フィアットの、しろいとこ」


わたしは、もう一度、言った。


「ハストさまの、しろいとこと、おなじ、におい」


フィアットの目が、大きく見開かれた。


銀色が、止まった世界の中で、ほんの一瞬だけ、揺れた。


「……そう、なの?」

「うん。……ずっと、おもってた。いえなかった」


フィアットは、長いこと、わたしの顔を見ていた。


それから、ゆっくりと、瞼を下ろした。


銀色が、消えた。


「……ありがと、セルカ」


フィアットは、立ち上がった。


剣を、もう一度抜いた。


「じゃあ、続き、しよう。……ちゃんと、動いてる世界で」


◇


わたしは、時計をもう一度動かした。


止まる前と、まったく同じ瞬間に。


氷の破片が、また舞い始めた。観覧席の歓声が、何事もなかったように戻ってきた。陛下が、身を乗り出した姿勢の続きで、椅子から腰を浮かせた。


誰も、気づいていなかった。


……たぶん。


最上層の来賓席で、サリナさまの足が、一瞬だけ、ぶらぶらするのをやめた気がした。


わたしの短剣と、フィアットの切っ先が、ぶつかった。


ぶつかって、わたしの短剣が、砕けた。


フィアットの剣は、わたしの二拍目の、ちょうど終わりのところを狙っていた。止まった世界で、わたしの時計の中にいたフィアットは、わたしの時間の長さを、もう知っていた。


フィアットの切っ先が、わたしの喉元の、指一本手前で止まった。


「……まいった」


わたしは、言った。


「フィアットの、かち」

「――勝者、フィアット・セルジーネ!」


観覧席が、爆発した。


わたしは試合場の真ん中に、ぺたんと座り込んだ。


負けた。


本気で、負けた。


悔しかった。でも、胸の奥は、なぜか軽かった。止まった世界で、フィアットと話したことが、胸の真ん中で温かく灯っていた。


フィアットが、わたしの前にしゃがんで、手を差し出した。


わたしは、その手を取った。


「……四位のまま」


わたしは、立ち上がりながら、ぼそっと言った。


「フィアットに、まけても、四位。……上の人がかっても、なにもおきない。……ハストさまより上、まだ、やだ」


フィアットが、声を上げて笑った。


観覧席の最前列で、ハストさまが、半分だけ生えかけた眉毛の下で、こちらを見ていた。


においで、わかった。


ハストさまは、何かに気づいていた。止まった世界のことに。……でも、何も言わない顔をしていた。


わたしは、ハストさまに向かって、小さく手を振った。


ハストさまは、少しだけ迷ってから、振り返してくれた。


◇


その日の夕方、分館の門の前で、サリナさまが待っていた。


「セルカ」

「……はい」


サリナさまは、小さな手で、わたしの指先を包んだ。二拍の加速で、少しだけ歳を取った指先を。


「……二拍、か。わしに黙って、練習しておったな」

「……ごめんなさい」

「謝ることはない」


サリナさまは、左の頬に、えくぼを作った。


「止めた世界の中で、何を話したかは、訊かぬよ。……ただ、ひとつだけ」


サリナさまは、わたしの指を包んだまま、少しだけ声を落とした。


「お主の鼻は、正しい。……正しいことを知ってしまった者は、言うときを選ばねばならん。それだけは、覚えておくのじゃ」


わたしは、頷いた。


サリナさまの手は、ちょっとだけ冷たくて、ちょっとだけ震えていた。


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