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137 準々決勝――王女の最後の剣


準々決勝の朝、控えの間の扉を叩いたのは、レイアーヌ先輩だった。


「入っていいかしら」


返事をする前に、先輩はもう扉を開けていた。


制服の上に、白い稽古着を羽織っていた。腰には、細身の長剣が一本。王家の紋の入った柄頭が、窓からの光を受けて、小さく光っていた。


「……レイアーヌ先輩」

「試合の前に、少しだけ話がしたかったの。試合のあとだと、どっちかが泣いてるかもしれないでしょう」


先輩は、控えの間の長椅子に、私の隣に腰を下ろした。


セルカは、部屋の隅で膝を抱えて、レイアーヌ先輩をじっと見ていた。ハスト様は、廊下で待っていると言って、出ていったばかりだった。


先輩は、しばらく、自分の膝の上の手を見下ろしていた。


それから、ぽつりと言った。


「……白い都のこと、あなたは知ってるのよね」


私は、頷いた。


四年前の春、ジセリアの白い都で、ひとりの王女様が、火刑の柱に縛りつけられた。それを、十三歳の男の子と、十八歳の口の悪い青年が助け出した。男の子は、王女様の怖い記憶に、碧い蓋をした。……そして去年の秋、王女様は、衣装箪笥の奥の木剣の擦り跡に指を重ねて、その全部を自分で思い出した。


ハスト様は、そのとき、自分が二代目の覇王だと先輩に明かして、残っていた蓋も全部外したそうだ。蓋をするんじゃない、返すんだ、と言って。


「全部、返してもらったの。鐘の音も、足元の炎も、碧い光も。……大丈夫だ、姫さん、ちょっと寝てろ、って言った、あの聖歌隊のチビの声も」


先輩は、自分の手のひらを、ゆっくりと開いた。


「怖い記憶よ。今でも、ときどき夢に見る。火の熱さで目が覚める夜もあるわ。……でも、蓋をされていたときより、ずっといい。怖かったのも、助けられたのも、全部、私のものだから」


それから、先輩は、私のほうを向いた。


「……セルジーネさん。あなたの眼で、私の中、どう見える? あの人が蓋をしていたところ」


部屋の隅で、セルカの肩が、ぴくりと動いた。


私は、しばらく黙っていた。


それから、瞼を、ほんの少しだけ持ち上げた。


銀色が漏れない、ぎりぎりのところまで。


先輩の色が見えた。


金色。まっすぐな、朝の光みたいな金色。その胸の奥に、蓋の跡があった。


もう、蓋はなかった。


ただ、蓋がかぶせられていた縁のところに、碧い色が、ほんのひとすじだけ残っていた。


澄んだ碧。……ハスト様の色だった。


傷跡ではなかった。寒い夜に、眠っている子に毛布をかけて、朝になってそれを畳んだあとに残る、ほんのりした温もりみたいな碧。先輩の金色の中で、それは小さな灯りのように光っていた。


私は、瞼を下ろした。


胸の奥が、ふわりと温かくなった。……それから、ほんの少しだけ、ちくりとした。


四年前の、十三歳のハスト様。自分の胸の白い場所を抱えたまま、それでも、誰かの怖い記憶に、こんなにやさしい蓋をかぶせることができた男の子。そして、相手が望んだときに、それをちゃんと返すことができた人。


私の胸の白いところには、まだ蓋がかかっている。誰が、いつかぶせたのかもわからない蓋が。


「……蓋は、もうありません」


私は、言った。


「蓋のあったところに、ハスト様の色が、少しだけ残ってます。……灯りみたいに」


先輩の目が、わずかに見開かれた。


それから、ふっと息を吐いて、笑った。


「……そう。あのチビ、置き土産までしていったのね」


先輩は、私の顔をじっと見た。


「あなたにも、白いところがあるんでしょう。講堂で、そういう顔をしてたわ」


私は、答えられなかった。


「急いで開けなくていいわ。……でもね、セルジーネさん。自分の記憶は、怖くても、自分のものよ。返してもらったときに、それがよくわかった」


先輩は長椅子から立ち上がった。


「さて。……今日は、あなたを全力で試すわよ」


先輩は、腰の長剣の柄にそっと手を置いた。


「あなたの眼は、王家が預かるもの。父上の布告よ。……私も、王家の人間だから。預かるものがどれほどのものか、この剣で確かめておかないとね」


◇


「――準々決勝、第一試合。一年、フィアット・セルジーネ。対、三年、レイアーヌ・フォン・フラハイト」


試合場の真ん中で、レイアーヌ先輩は、細身の長剣を抜いた。


切っ先を、まっすぐに私へ向けた。


最上層の来賓席の天幕の下で、陛下が、身を乗り出しているのが見えた。目を閉じていても、わかった。陛下の色が、娘の剣と、弟子の私とのあいだで、落ち着きなく揺れていた。


……どっちを応援すればいいのか、わからないのだと思う。陛下の隣では、エトワール学園長が、眼鏡を押し上げながら、楽しそうに陛下の横顔を眺めていた。


「――始めッ!」


先輩の唇が、動いた。


「――光よ、我が切っ先に宿れ。闇を退け、偽りを退け、ただ一筋の真実を貫け。……『ルミナス・スラスト』」


細身の長剣の切っ先に、白い光が灯った。


光の点だった。針の先ほどの、小さな、まばゆい点。


先輩が、踏み込んだ。


突きだった。


一直線に、私の胸の真ん中へ。


「――第六階梯、『Boosted all』」


身体の内側に、行が流れ込んできた。腕に、足に、目の奥に。全部が、一拍だけ速くなる。


私は、剣で、光の突きを払おうとした。


払えなかった。


先輩の切っ先は、私の剣をすり抜けるように、私の胸の前の、何もない空間を突いた。


ぱちん、と、何かが弾ける音がした。


身体の内側を流れていた行が、ぷつりと途切れた。


一拍の速さが、消えた。


「……っ」

「芯を突いたわ」


先輩の声が、静かに響いた。


「どんな魔術にも、光の芯がある。行が集まって、結び目になっているところ。……私の剣は、そこを突く。ジセリアの使節団が来たとき、巨大化した伯爵を元に戻したのも、この突きよ」


先輩は、切っ先を構え直した。


「階梯の名前と、本当の名前で呼ぶ魔術。……きれいな行ね。きれいすぎて、芯がどこにあるのか、すぐにわかる」


◇


先輩の突きが、次々と来た。


私が新しい行を呼ぶたびに、その芯を、光の切っ先が正確に突き抜いていった。


『Boosted all』。突かれた。


『Wind step』。突かれた。


『Light shield』。突かれた。


呼んだ瞬間に、消されていく。


観覧席から、どよめきが上がっていた。銀眼の一位の魔術が、ひとつも形にならない。王女様の剣が、全部を突き消していく。


私は、後ろへ跳んで、距離を取った。


息が、上がっていた。


怖かった。


剣で負けるのは、怖くない。魔術を呼べないことが、怖かった。ハスト様に教わって、陛下に教わって、ようやく階梯と本当の名前で呼べるようになった行が、呼んだそばから、ひとつずつ消されていく。秋の順位戦の前の、何もできなかった頃の私に、引き戻されていくような気がした。


観覧席の最前列で、ハスト様の色が、少しも揺れずにこちらを見ていた。


――ミモザさんの火を、ハスト様は、避けなかった。


――目を開ければ、先輩の突きの行が見える。どこを狙って、どう来るのか。


開けない、と決めていた。


ミレーユ先輩のときも、開けなかった。見なくていいものを見ないで、見たいものだけを見る。……そう決めたのだ。


なら、行を呼ぶのをやめればいい。


芯を突かれるのは、行に結び目があるからだ。


結び目のない魔術。


ひとつだけ、あった。


陛下に教わった、私の術。


ないものを作らない。あるものも隠さない。今そこにある本物を、そのまま写すだけの幻。


――『映し』。


陛下の弟子になって、最初の三日間の試しを思い出した。


執務室の窓辺に、一輪の花が挿してあった。それを、ただ写せ、と陛下は言った。花びらが揺れたら、写しも揺れる。日が陰ったら、写しも陰る。一瞬でも遅れたら、それはもう、さっきの花の写しだ。……さっきの花は、もう、ここにはない。だから、それは嘘になる。


三日目の夕方、私の写した花が、窓から吹き込んだ風で、本物と同じ瞬間に揺れた。


陛下は、長いこと黙ってそれを見ていた。それから、ぽつりと言った。……二十二年で、初めての弟子だ、と。


◇


私は、目を閉じたまま、息を吸った。


それから、静かに吐いた。


試合場の真ん中に、私が、もうひとり立っていた。


同じ姿。同じ剣。同じ呼吸。閉じた瞼の、睫毛の震えまで、全部同じ。


本物の私が、右足を引いた。


写しの私も、同時に右足を引いた。


一瞬でも遅れたら、それは過去の写し、嘘になる。だから、遅れない。本物と、ぴったり同じ瞬間に、同じものを写し続ける。


観覧席が、静まり返った。


最上層の来賓席で、陛下が、椅子から腰を浮かせたのがわかった。


先輩が、足を止めていた。


細身の長剣の切っ先が、ふたりの私のあいだで、迷うように揺れていた。


「……父上の、幻術」


先輩の唇が、動いた。


「いいえ。……違う」


先輩の切っ先が、写しの私の胸の真ん中へ、すっと伸びた。


芯を探していた。


切っ先が、止まった。


「――芯が、ない」


先輩の声が、かすれていた。


「行が、結ばれていない。……嘘が、ひとつもない」


先輩は、もうひとりの私の胸の前に、切っ先を突きつけたまま、動けなくなっていた。


どちらが本物か、わからないのだ。


光の芯を突く剣は、偽りを突く剣だ。嘘の結び目を、正確に突き抜く剣。……でも、映しには、嘘がない。今そこにある本物を、そのまま写しているだけだから。


先輩の剣が、ふたりの私のあいだで、ほんのわずかに揺れた。


その、ほんのわずかな揺れの間に。


ふたりの私が、同時に踏み込んだ。


◇


ふたつの切っ先が、先輩の喉元の、指一本手前で止まっていた。


右からと、左から。


先輩の細身の長剣は、どちらの私にも届かない位置で、宙に浮いていた。


試合場が、しんとしていた。


それから、先輩が、ゆっくりと剣を下ろした。


「……どっちが、本物?」

「右です」


私は、目を閉じたまま答えた。


写しの私が、すうっと薄くなって、冬の光の中に溶けていった。


先輩は、消えていく写しを、長いこと見つめていた。


それから、声を上げて笑った。


「――参ったわ」


先輩は長剣を鞘に収めた。


「父上の弟子に負けるなら、仕方ないわね。……しかも、父上の幻術の、裏側みたいな術で」

「――勝者、フィアット・セルジーネ!」


観覧席が、爆発した。


最上層の来賓席で、陛下が、椅子に深く座り直していた。両手で顔を覆っていた。……たぶん、どんな顔をしていいかわからなかったのだと思う。


あとで聞いた話では、陛下はその日の夕方、侍従長にこう言ったそうだ。


――娘が負けて悲しくて、弟子が勝って嬉しい。娘の剣が見事で誇らしくて、弟子の術が見事で誇らしい。……困ったものだね。私の胸は、ひとつしかないのだよ。


侍従長は、黙って紅茶のおかわりを注いだらしい。


◇


試合場を出る通路で、先輩は、私の隣を歩いていた。


「……春になったら、北の離宮に行くの」


先輩は、前を見たまま言った。


「叔父様のお母様と、ルチアという女の子が眠っている庭があるって、父上に聞いたわ。叔父様も、今は、そこにいる。……誰も手入れをしていないから、雑草だらけなんですって」

「……はい」

「卒業したら、しばらく、そこの庭師をやるつもり。王女の仕事は、それからでいいわ。……ミリエルも、施療院の薬草の種を持って、一緒に来てくれるって」


先輩は、少しだけ笑った。


「父上の分も、ちゃんと草をむしってくるわ。……二十二年分ね」


通路の出口に近づくにつれて、観覧席の歓声が、石の壁の向こうで遠くなっていった。先輩の足音と私の足音が、通路の天井に、交互に響いていた。


先輩の足音は、少しも乱れていなかった。負けたばかりの人の足音とは、思えなかった。……たぶん、この人は、負けることも含めて、今日の剣を最後まで振り切ったのだ。


通路の出口で、ハスト様が、壁にもたれて待っていた。


炭で描き足した眉毛は、今朝、また私が描き直したものだった。


先輩は、ハスト様の前で立ち止まった。


ハスト様の顔を、まじまじと見た。


「……その眉毛、どうしたの」

「聞くな」

「ふうん」


先輩は、ハスト様の描き足した眉毛を、しばらく黙って見ていた。


それから、まっすぐにハスト様の目を見た。


「ハスト」

「なんだよ」

「白い都で、あなたが私を寝かせたこと」


ハスト様の肩が、ほんのわずかに強張った。


「卒業する前に、一発殴っておくって決めてたの。……忘れてないわよね」

「……覚えてる」


先輩は、右の拳を、ハスト様の肩に、こつん、と当てた。


王女様の拳にしては、ずいぶん軽かった。


「はい。これで、おしまい」


先輩は、少しだけ目を細めた。


「……ありがとう、聖歌隊のチビ。あの日のことも、返してくれたことも」


ハスト様は、しばらく黙っていた。


それから、短く言った。


「……ああ」


先輩は満足そうに頷いた。


それから、くるりと背を向けて、通路の向こうへ歩いていった。


背筋が、まっすぐだった。稽古着の裾が、通路を吹き抜ける冬の風に、小さく揺れていた。


王女様の、最後の序列戦の剣を収めた背中だった。


「……ハストさま」


セルカが、いつの間にか、ハスト様の袖をつまんでいた。


「……あの人、すき?」

「は?」

「……あの人、ハストさまを見るとき、においが、あまい」

「気のせいだ」

「……ふうん」


セルカは、レイアーヌ先輩が去っていった通路の先を、じっと見つめていた。


それから、ハスト様の袖をつまむ指に、少しだけ力を込めた。


私は目を閉じたまま、ふたりの横でこっそり笑った。


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