136 本戦一回戦――七つの型と、一拍
本戦一回戦の第三試合の前に、俺は、控えの間へ続く回廊で、ひとりの三年生に呼び止められた。
「――ハスト」
黒に近い深紅の髪を、短く刈り込んだ男だった。背筋は、定規を当てたようにまっすぐだった。腰には、長剣と並べて、古い白い鞘をひとつ提げていた。剣の入っていない、聖剣の鞘を。
ディエゴ・エスピノーザ。全学年序列、四位。
これから、セルカと戦う男だった。
「少し、話がある」
ディエゴは、回廊の窓辺に立って、試合場を見下ろした。観覧席は、もう、上の上まで埋まっていた。
「講堂で、あの銀眼の一位が、白い約を読み砕いた夜のことだ」
ディエゴの声は、静かだった。
「我が家には、初代剣聖シャロンの残した剣帖がある。七つの型を記した、古い帖だ。……その最後の一頁は、二百年、白紙だった。何も書かれていない頁として、代々の当主が受け継いできた」
ディエゴは腰の白い鞘に、そっと手を添えた。
「あの夜、その頁に、字が戻った」
俺は、ディエゴの横顔を見た。
「戻った?」
「白が剥がれて、下から字が出てきたのだ。シャロンの手で書かれた、八つ目の型が」
ディエゴは、窓の外の空を見上げた。
「型の名は、『隣』。……添え書きが、一行だけあった。『我が師、黒板の人に教わりし型。師の名は、ついに書けず』」
――黒板の人。
背中に、何かが走った。
ロリババアの言う、あの人。全知の書の、最後の白。フィアットが、白い頁の前で、言いかけては言い直す名前。
「エスピノーザの家では、昔から、こう伝えている。我が祖は、名の消えた師の、最後の弟子だった。師が裁かれた日、ただひとり、剣を抜かずに、その隣に立った、と」
ディエゴは、俺を見た。
「膝を折ったのではない。最後まで、隣に立ったのだ。……私が、あの白い外套に言った言葉は、その伝えだ」
「……なんで、それを俺に」
「わからん」
ディエゴは、あっさりと言った。剣士らしい、迷いのない声だった。
「ただ、あの夜から、ずっと思っている。……お前の隣にいる、あの小さな氷の娘は、誰かの隣に立つということを、誰よりもよく知っている目をしている」
ディエゴは窓辺から離れた。
「だから、私は、今日、八つ目の型を使う。……使えるかどうかは、わからんが」
◇
控えの間で、セルカは、膝を抱えて座っていた。
氷の小鳥は、作っていなかった。ただ、自分の手のひらを、じっと見下ろしていた。
「……セルカ」
「ハストさま」
セルカは、顔を上げた。
「とけい、つかわない」
先に言われた。
「人前では、つかわない。……一拍だけ。いつもの」
「わかってる」
「あの剣の人、つよい。においで、わかる。……まっすぐな、におい」
それから、セルカは、少しだけ頬をふくらませた。
「……勝ったら、四位」
「ああ」
「ハストさま、二百九十九位。……わたし、四位」
「そうなるな」
「……やだ」
セルカは、本気で嫌そうな顔をした。
「ハストさまより上、やだ。……すごく、やだ」
「じゃあ、負けるか」
セルカは、淡い水色の目で、俺をじっと見上げた。
それから、首を横に振った。
「……まける気も、ない」
その声は小さかったけれど、少しも揺れていなかった。北から帰ってきてから、この子の声は、ときどきこういう芯を持つようになった。
小さな手が、俺の袖をつまんだ。
「ハストさまは、ミモザの火、うけた。……わたしも、あの剣の人の剣、ちゃんと、うける。うけて、かえす」
フィアットが、控えの間の入口から、目を閉じたまま、くすりと笑った。
「……セルカ、ハスト様に似てきたね」
「にてない」
「似てる」
「……にて、ない」
セルカは、ぷいとそっぽを向いた。
耳の先が、少しだけ赤かった。
◇
「――第三試合。一年、セルカ・アーネット。対、三年、ディエゴ・エスピノーザ」
試合場の真ん中で、ふたりが向かい合った。
背の高い剣士と、小さな氷の娘。
観覧席から、ざわめきが上がっていた。学園の一番下の数字と、上から四番目の数字。決闘期間の最初の日、セルカは、学園で一番下の数字だった。それが、本戦の舞台に立っている。
ディエゴは長剣を抜いて、正眼に構えた。
白い鞘は、腰に提げたままだった。
「エスピノーザ流、一の型より参る」
「……よろしく、おねがいします」
セルカが、ぺこりと頭を下げた。
「――始めッ!」
ディエゴが、踏み込んだ。
一の型。ただ、まっすぐに踏み込んで、まっすぐに斬る。それだけの型だった。それだけなのに、速かった。学園の剣術の授業で教わる踏み込みの、倍は速かった。
「――第五階梯、『Ice lance』」
セルカの周りに、氷の槍が十二本、扇のように並んだ。
ディエゴの長剣が、一閃した。
十二本のうち、四本が、まとめて砕けた。
残りの八本を、二の型が払った。横薙ぎの一閃。三の型が、返す刀で斜めに。四の型で、身体ごと回って。
氷の破片が試合場の上できらきらと舞った。
観覧席が、どよめいた。
「――第七階梯、『Frost seal』」
セルカの声と同時に、ディエゴの足元の石畳が、白く凍りついた。
ディエゴは凍った石畳の上で滑らなかった。
五の型。足の裏で、氷を噛むように踏みしめて、そのまま前へ。
六の型。下から斬り上げる。
セルカの姿が、ぶれた。
一拍。
いつもの、一拍だけの加速。斬り上げられた長剣の切っ先が、セルカの前髪の、ほんの数本だけをかすめていった。
ディエゴの目が、わずかに見開かれた。
「……その一拍は」
ディエゴは剣を構え直しながら、低く言った。
「拍ではないな。……時だ」
セルカの肩が、ぴくりと震えた。
講堂で、アルブレヒトに言われたのと、同じことだった。
ディエゴは、それ以上何も言わなかった。
ただ、七の型を構えた。
剣を、鞘に収めるように、身体の後ろへ引く。そこから、一番遠い距離を、一番速く。エスピノーザ流の、最後の型。
――居合だった。
◇
セルカは、動かなかった。
氷の槍も、氷の壁も、呼ばなかった。観覧席の三千人が、息を止めているのがわかった。雪の降らない冬の空の下で、試合場の上の空気だけが、ぴんと張りつめて凍っていた。
ただ、小さな手を、胸の前で軽く握っていた。
俺は、観覧席の最前列で、手すりを握りしめていた。
七の型は、学園の誰にも見えない速さで来る。一拍の加速でも、間に合うかどうか。
時計を使えば、避けられる。
使わない、とセルカは言った。
ディエゴが、踏み込んだ。
長剣が、鞘走るように、後ろから前へ。
セルカの姿が、ぶれた。
一拍。
切っ先が、セルカの肩口をかすめた。制服の袖が、ざっくりと裂けた。
それでも、セルカは、倒れなかった。
一拍分だけ、居合の内側に入っていた。ディエゴの長剣の、根元のほうに。切っ先ではなく、鍔に近いところに。……そこなら、斬られても、浅い。
セルカの小さな手が、ディエゴの長剣の刃に、そっと触れた。
「――第六階梯、『Frozen edge』」
ディエゴの長剣が、刃の根元から切っ先まで、一瞬で白く凍りついた。
刃ではなく、氷の棒になっていた。
ディエゴは、凍った剣を見下ろして、それから、小さく笑った。
「……斬らせて、受けたか」
「……うけて、かえす」
セルカは、ぼそっと言った。
ディエゴは凍った長剣を、静かに石畳の上に置いた。
それから、腰の白い鞘に、手をかけた。
◇
剣の入っていない、聖剣の鞘だった。
ディエゴはそれを腰から外して、両手で持った。
鞘を、剣のように構えた。
観覧席が、静まり返った。
「――八の型」
ディエゴの声が、試合場に響いた。
「『隣』」
ディエゴが、動いた。
踏み込まなかった。
斬りかかりもしなかった。
すうっと、横に滑るように動いて、セルカの隣に立った。
正面ではなく。背後でもなく。
隣に。
肩が並ぶほどの近さで。セルカと同じ方向を向いて。
ディエゴの持つ白い鞘が、セルカの首筋の横に、そっと添えられていた。
斬る構えではなかった。
守る構えに、見えた。
……違う。
あれは、たぶん、両方なのだ。隣に立つ者は、いつでも相手を斬れる。そして、いつでも相手を守れる。どちらにするかを決めるのは、隣に立った者の心ひとつ。
名の消えた師の隣に、剣を抜かずに立った剣聖の型。
セルカは、動かなかった。
首筋に添えられた白い鞘を、横目で見ていた。
それから、ぽつりと言った。
「……となりは」
セルカの足元から、霜が、音もなく広がった。
「となりは、ハストさまの、ばしょ」
ディエゴの足元の石畳が、一瞬で凍りついた。
足首まで。膝まで。
ディエゴの身体が、セルカの隣で、氷の中に縫い止められた。
セルカは、ディエゴの隣から、一歩だけ離れた。
それから、振り返って、凍りついたディエゴの喉元に、指先を向けた。
指先に、小さな氷の針が一本、浮かんでいた。
「……わたしの、となり。……ほかの人は、だめ」
◇
試合場が、しんとしていた。
それから、ディエゴが、声を上げて笑った。
膝まで凍りついたまま、白い鞘を両手で持ったまま、腹の底から笑っていた。
「――参った」
ディエゴは、鞘を下ろした。
「隣を、譲らぬか。……我が祖も、そうだったと伝えにある。師の隣だけは、最後まで、誰にも譲らなかった、と」
「――勝者、セルカ・アーネット!」
観覧席が、爆発した。
「序列戦規則第三により、両者の序列を入れ替える。セルカ・アーネット、全学年序列、四位」
セルカの顔が、くしゃりと歪んだ。
勝ったのに。本戦の一回戦で、四位の剣士に勝ったのに。
泣きそうな顔をしていた。
「……やだぁ」
セルカは、観覧席の最前列の俺を見上げて、心の底から嫌そうに言った。
「ハストさまより、上。……二百九十五も、上。……やだぁ……」
観覧席の何人かが、噴き出した。
俺は、手すりから身を乗り出して、セルカに手を伸ばした。
セルカは、試合場の縁まで駆けてきて、俺の手を両手でつかんだ。
冷たくなかった。
温かかった。
「……ハストさま。となり、とられなかった」
「ああ」
「……えらい?」
「えらい」
セルカは、少しだけ目を細めた。
その後ろで、膝の氷を解かれたディエゴが、白い鞘を腰に戻しながら、俺を見上げていた。
何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ、頭を下げた。
剣士の礼だった。
その礼が、俺に向けられたものなのか、俺の隣の誰かに向けられたものなのか。……俺には、わからなかった。
◇
その日の夕方には、四位の席に座ったセルカの机の上に、果たし状が十七通積み上がっていた。
セルカは、それを一通ずつ手に取って、黙って凍らせていった。
封筒が、ぱきぱきと音を立てて、透きとおった氷の板になった。十七枚の氷の板が、机の上にきれいに並んだ。
「……読まないのか」
「よまない。……トーナメント、まだある」
セルカは、氷の板を一枚つまんで、窓の光にかざした。中に閉じ込められた封筒の字が、ゆらゆらと歪んで見えた。
「それに、四位、すぐやめる。……準々決勝で、まけたら、また下がる」
「わざと負けたら、無効だぞ」
「わざとじゃない。……つぎ、フィアットの山」
セルカは、ちらりと、隣の席のフィアットを見た。
フィアットは、目を閉じたまま、何も言わずに、ほんの少しだけ口元を緩めていた。
◇
帰り道、雪の積もった並木道で、俺はフィアットに訊いた。
「……黒板の人、って、知ってるか」
フィアットの足が、止まった。
「ディエゴが言ってた。シャロンの師匠で、名前が消えた奴だって。……ロリババアの言う、あの人と、同じ奴なんだろ」
フィアットは、しばらく黙っていた。
それから、目を閉じたまま、俺のほうを向いた。
「……はい。知ってます」
「名前も、か」
「名前も」
フィアットは、自分の胸に手を当てた。
「でも、言えないんです。私が口にしても、ハスト様には、白い音にしか聞こえない。……書いても、白い紙にしか見えない。サリナ様にも、そうでした」
雪が、並木の枝から、ぱさりと落ちた。
「いつか、ちゃんと届くようにします。……それまで、待っててもらえますか」
俺は、フィアットの顔を見た。
閉じた瞼の下で、銀色が、ほんのかすかに揺れていた。
あの人の名前を、たったひとりで抱えている顔だった。北の離宮から帰ってきてから、ずっと。
「……ああ」
俺は、頷いた。
「待つのは、得意だ」
フィアットは、少しだけ笑った。
セルカが、俺たちの間に割り込んで、両方の袖をつまんだ。
「……わたしも、まつ。……でも、ごはんは、まてない」
「わかったよ」
並木道の向こうで、分館の煙突から、夕飯の煙が上がっていた。今夜は、アルブレヒトが焼いたパンが出るらしい。




