135 本戦一回戦――霧の中の一礼
本戦の舞台は、秋の順位戦と同じ、学園の中央の大試合場だった。
すり鉢の形をした石造りの観覧席が、何層にも積み重なっている。その底に、雪をきれいに払った円形の試合場。観覧席は、もう、上の上まで生徒で埋まっていた。最上層の来賓席には、天幕が張られて、王家の紋の旗が揺れていた。
陛下が来ているのだ。
陛下の隣には、レイアーヌ先輩の席が空いていた。王女様は、今日は観客ではなく、選手だから。
控えの間の小さな窓から、私は、その全部を見上げていた。
目は、閉じていた。
それでも、見えた。三千人ぶんの色。興奮の赤と、期待の黄色と、それから、ほんの少しの怖れの灰色。……私に向けられた灰色だった。
秋の順位戦のときは、誰も私を怖がらなかった。目を閉じた一年生の女の子が、なぜか勝ち上がっていく。みんな、面白がって、首を傾げて、最後には拍手をしてくれた。……あの頃の観覧席の色は、もっと明るい黄色だった。
今の私は、あの頃と同じように目を閉じている。それなのに、見る側の色が変わってしまった。眼を開けたのは、一度きりなのに。
銀眼の一位。
講堂で、全校生徒の前で目を開けてから、学園の誰も、私の眼のことを口にしなくなった。陛下の布告があるからだ。けれど、口にしないことと、怖がらないことは違う。廊下ですれ違う生徒の色が、ほんの一瞬だけ、灰色に揺れる。そのたびに、胸の奥が、少しだけ冷たくなった。
「……フィアット」
セルカが、私の袖をつまんでいた。
「こわい?」
「……ちょっとだけ」
「だいじょうぶ」
セルカは、淡い水色の目で、私をじっと見上げた。
「みんな、フィアットの目、こわいんじゃない。……フィアットが、つよいのが、こわいだけ」
「……それ、なぐさめてる?」
「なぐさめてる」
セルカは、真顔で頷いた。
私は、思わず笑ってしまった。
控えの間の扉の外で、ハスト様が壁にもたれていた。炭で描き足した眉毛が、昨日より少しだけ上手になっていた。……今朝、私がもう一度描き直したからだ。
「――第一試合」
試合場のほうから、審判の先生の声が響いた。
「一年、フィアット・セルジーネ。対、二年、ミレーユ・ヴァルドラン」
◇
試合場の反対側の入口から、ミレーユ先輩が歩いてきた。
秋の順位戦のときと、同じ姿だった。
背の高い人。鈍い銀色の髪を、首の後ろできっちりと結い上げている。軽装の胸当てと、腰に下げた細身の長剣が一本。派手さはないけれど、立っているだけで、背筋の通った人だとわかる。
ただ、胸当てが秋のときより古びていた。
剣の柄に巻かれた革も、新しいものではなかった。ところどころが擦り切れて、自分で巻き直した跡があった。
秋の順位戦の夜、ミレーユ先輩の家に、知らせが届いた。ヴァルドラン家の当主が、第三皇子派と通じて、学園の試合の裏で何かを企てていた、と。先輩のお父様は捕らえられて、家は爵位を失った。
それでも、先輩は学園を辞めなかった。
王都の下層の食堂で、皿を洗って学費を払っている。そういう噂を、ペトラさんから聞いた。決闘期間のあいだに、二十八位から九位まで上がってきた、という話も。
一度も、私に果たし状を送ってこなかった。
先輩は、試合場の真ん中で足を止めた。
私をまっすぐに見て、深く一礼した。
「ミレーユ・ヴァルドランです。……今は、ただのミレーユですが」
凛とした声だった。秋と、何も変わらない声。
「よろしくお願いします、セルジーネさん」
今は、ただのミレーユ。そう名乗るとき、先輩の声は少しも揺れなかった。何度も、何度も、そう名乗り直してきた人の声だった。
私も、深く頭を下げた。
「フィアット・セルジーネです。……よろしくお願いします、ミレーユ先輩」
顔を上げると、先輩は、ほんの少しだけ口元を緩めていた。
「ひとつ、お願いがあります」
「……はい」
「秋のあなたは、目を開けて戦った。……今日は、閉じたままのあなたと、戦わせてください」
観覧席が、ざわめいた。
「講堂で、あなたが目を開けたと聞きました。……あの眼を開けば、きっと、私の霧など一瞬で読まれてしまう。でも、それでは、私は、あの秋から一歩も進めていないことになる」
先輩は、腰の長剣の柄にそっと手を添えた。
「目を閉じたあなたが、私の霧の中で、私をどう見るのか。……それを、知りたいのです」
私は、しばらく黙っていた。
それから、頷いた。
「……はい。閉じたまま、行きます」
「ありがとう」
先輩は、もう一度、小さく頭を下げた。
それから私の顔を見て、静かに言った。
「父のことは、知っています。……あなたたちが、止めてくれたことも」
私の肩が、こわばった。
「恨んでは、いません」
先輩の声は、穏やかだった。
「止めてもらえなかったら、私は、何も知らないまま、父の企てた舞台の上で剣を振っていた。……私の剣は、曇らずに済んだ。家の名は、なくしましたが」
先輩は、柄を握り直した。
「剣は、残りました」
◇
「――始めッ!」
先輩の唇が、動いた。
「――霧よ、深く。我が影を、千に分かて。白き帳となりて、我が剣を隠せ。……『ミスト・ヴェール』」
秋のときは、霧よ、のひと言だけだった。
今日の詠唱は、四節あった。
先輩の足元から、白い霧が湧き上がった。秋よりもずっと濃く、ずっと速く。霧はあっという間に試合場を覆い尽くして、観覧席の最前列まで溢れ出した。
観覧席から、どよめきが上がった。
「見えねぇ!」
「試合場が、全部……!」
私は目を閉じたまま、霧の中に立っていた。
瞼の裏で、色を探した。
――見えなかった。
正確に言うと、全部が先輩の色だった。
鈍い銀色。先輩の髪と同じ色。それが、霧の粒のひとつひとつに溶け込んで、試合場いっぱいに広がっていた。右を見ても、左を見ても、上を見ても、全部が同じ銀色。
先輩は、自分の魔力を霧そのものにしていた。
どこにいるのか、わからない。……いや、どこにでもいる。
秋の私は、目を開けて、霧の中の先輩の剣筋を読んだ。でも、今日の霧は、剣筋を隠すための霧ではなかった。先輩自身を、消すための霧だった。
右の肩口を、冷たいものがかすめた。
細身の剣の、切っ先だった。
制服の袖が、すっと裂けた。
――どこから。
わからなかった。剣が来る直前まで、霧の銀色は、どこも少しも揺れていなかった。
左の頬を、風が撫でた。
髪が一房、はらりと落ちた。
観覧席の誰にも、何も見えていないはずだった。霧の中から、ときどき、剣の打ち合う音だけが聞こえる。私の剣が空を切る音と、先輩の剣が私の制服を裂く音。
三度目の切っ先が、私の膝をかすめた。
私は、膝をついた。
観覧席から、悲鳴のような声が上がった。銀眼の一位が、霧の中で膝をついた。見えていないはずの観客にも、それだけは伝わったらしい。
控えの間の窓のほうから、セルカの色が、ぎゅっと縮こまるのが見えた。ハスト様の色は、少しも揺れていなかった。……揺れないように、こらえている色だった。
◇
白い霧の中で、膝をついていた。
周りは、どこまでも白かった。
――白い場所に、似ていた。
胸の奥の、縁の罅割れた白い場所。講堂で、その奥まで入ってしまったときの白さ。誰かが、遠くから、私を呼んでいた白さ。
一瞬、また、声が聞こえた気がした。
私の名前を呼ぶ声。フィアットじゃない名前を。
私は、首を横に振った。
――今は、いい。
今、この霧の中で、私を呼んでいるのは、ミレーユ先輩の剣だ。
私は、目を閉じたまま、耳を澄ませた。
色は、見えない。行も、霧に溶けて読めない。
なら、色でも行でもないものを、探せばいい。
霧の中で、何かが、聞こえた。
ほんのかすかな、衣擦れの音。
それから、息を吸う音。
それから、もう一度、衣擦れ。
――剣が来た。
四度目の切っ先が、私の左の肩口をかすめていった。
その直前の、衣擦れと、息。
もう一度、耳を澄ませた。
衣擦れ。息。衣擦れ。……切っ先。
わかった。
先輩は、剣を振る前に必ず一礼していた。
ほんのわずかに腰を折って、息を吸って、身体を起こす。秋の試合でも今日の試合の始めでも、先輩は深く一礼した。……霧の中でも、同じだった。剣を振るたびに、見えない相手に、小さく頭を下げていた。
それが、先輩の剣だった。
ヴァルドランの家の名を失っても、手放さなかったもの。
私は、ゆっくりと立ち上がった。
剣を、鞘に収めた。
霧の中で、観覧席がざわめくのが聞こえた。何も見えないはずなのに。剣を収める音だけは、届いたのだ。
私は霧の真ん中で、目を閉じたまま深く一礼した。
◇
霧の向こうで、衣擦れの音が止まった。
長い沈黙があった。
それから霧の中から、先輩の声がした。
「……気づきましたか」
「はい」
「誰にも、気づかれたことはありませんでした。……父にも」
衣擦れの音がした。
先輩が、一礼する音だった。
私は、息を吸った。
「――第六階梯、『Boosted all』」
身体の内側に、行が流れ込んできた。腕に、足に、目の奥に。全部が、一拍だけ速くなる。
衣擦れ。息。
先輩の身体が、起き上がる。
その瞬間、私は鞘から剣を抜いて、前に踏み込んだ。
霧の中で、ふたつの剣が交差した。
金属の音は、しなかった。
先輩の切っ先が、私の右の肩口の、ほんの指一本手前で止まっていた。
私の切っ先が、先輩の喉元の、ほんの指一本手前で止まっていた。
霧が、ゆっくりと晴れていった。
試合場の真ん中で、私たちは、剣を突きつけ合ったまま、向かい合っていた。
審判の先生が、霧の晴れた試合場を見て、目を見開いた。
ふたりの剣の、どちらが先に止まったのか。先生には、見えていなかったはずだった。
先輩が、剣を下ろした。
「――私の、負けです」
観覧席には、まだ霧の名残がうっすらと漂っていた。その薄い白の向こうで、三千人が、息を詰めてこちらを見下ろしているのがわかった。
先輩は、静かに言った。
「あなたの剣のほうが、半拍、早かった。……一礼の分だけ」
◇
「――勝者、フィアット・セルジーネ!」
観覧席が、爆発した。
霧の中で何が起きていたのか、誰にも見えていなかった。それでも、歓声は止まなかった。霧が晴れたとき、ふたりが剣を突きつけ合ったまま向かい合っていた。……それだけで、十分だったのだと思う。
先輩は剣を鞘に収めて、私の前に立った。
「……霧の中で」
先輩の声が、少しだけ震えていた。
「霧の中で、一礼を返してくれる相手は、あなたが初めてでした」
それから、先輩は、深く、深く頭を下げた。
秋のときより、ずっと深く。
「ありがとう、セルジーネさん」
私も、頭を下げた。裂けた袖の隙間から、冬の風が肌に冷たかった。
顔を上げると、先輩は、晴れた空を見上げていた。
「春になったら、騎士団の入団試験を受けます。……下層の食堂の女将さんが、推薦状を書いてくれると言ってくれたので」
「……騎士団」
「家の名がなくても、受けられる試験です。……名前がなくなっても、剣は残る。今日、あなたが、それを見つけてくれた」
先輩は、私を見て、笑った。
霧の中で聞こえた一礼の音を、私はたぶん、ずっと忘れないと思う。家の名前をなくした人が、それでも手放さなかったもの。名前は奪えても、そういうものは、誰にも奪えないのだ。
秋の試合のあと、私が最後に見た先輩は、試合場の隅で、黙って自分の剣を見下ろしていた。……今の先輩は、あのときと、まるで違う顔をしていた。
◇
控えの間に戻ると、ハスト様が、壁にもたれたまま待っていた。
「……見えたのか」
「見えませんでした」
私は、裂けた制服の袖を押さえながら、正直に言った。
「霧の中では、何も。……色も、行も」
「じゃあ、どうやって」
「聞こえたんです。先輩が、一礼する音が」
ハスト様は、しばらく黙っていた。
それから、ふっと息を吐いた。
「……目を開けなくても、見えるもんは見える、か」
「はい」
私は、目を閉じたまま、笑った。
「見なくていいものを見ないで、見たいものだけ、ちゃんと見る。……今日は、少しだけ、できた気がします」
セルカが、私の裂けた袖を、小さな指でつまんだ。
「……フィアット。かみ、きれてる」
「え?」
左の頬のところの髪が、一房だけ、短くなっていた。
ハスト様が、炭で描いた眉毛の下で、少しだけ目を細めた。
「……揃えてやろうか」
「ハスト様が切ったら、眉毛みたいになりそうなので、いいです」
「……」
セルカが、ぷっと噴き出した。
ハスト様は、何も言い返さなかった。
ただ、描き足した眉毛を指でそっとこすった。炭が少しだけ滲んだ。




