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134 一回戦――盗品の一節


試合の朝、私は、第六試合場の観覧席に、父の姿を見つけた。


白い外套ではなかった。


焦げ茶色の、飾りのない厚手の外套だった。胸に、銀糸の聖印はなかった。講堂でほどけて、ただの糸くずになって床に散ってから、父は一度も、あの外套に袖を通していない。


ヴァイスハイト侯爵が、学園の、序列三百位の息子の一回戦を見に来る。


ほんのひと月前なら、ありえないことだった。


父は観覧席の一番後ろの端に、背筋を伸ばして座っていた。周りの生徒たちが、ちらちらと父のほうを見ては、慌てて目を逸らしていた。父は、それに気づいていないふりをしていた。……あるいは、本当に気づいていないのかもしれない。父の灰色の目は、ただまっすぐに、試合場の円の中を見ていた。


私が、これから立つ場所を。


◇


七つのとき、屋敷の礼拝堂で、額に聖印を押された。


ヴァイスハイトの血は、約の器である。汝は、その器として生まれた。


それから十年、私は、器だった。


条文を読み上げることを覚えた。紋章を浮かべることを覚えた。付則を書き足すことを覚えた。誰かの膝を折らせ、誰かの口に我が主と言わせることを、正しいことだと信じて覚えた。


それが、全部、消えた。


講堂の床に、白い灰になって崩れ落ちた原本と一緒に。


残ったのは、序列三百位という数字と、黒い制服と、乗馬の落ち方を応用した転び方と。


それから、手のひらの上で、雪の粉をひと回りだけ渦巻かせる、一節の風だけだった。


器が空になったら、何が残るのか。


この十日間、ずっと考えていた。


答えは、まだ出ていない。


今朝、試合場へ向かう途中の回廊で、ハスト殿に呼び止められた。


「……アルブレヒト」


眉毛のない顔で、ハスト殿は、私の手のひらを指さした。


「お前の門は、詰まってねぇ。開きっぱなしだ。十年、条文を流してたんだからな。……ただ、流れる先が、ずっと決まってた」

「流れる先、ですか」

「約の帳簿だ。お前の行は、全部、あの白い本に向かって流れてた。……それが、もうねぇ。だから、どこに流していいか、わからなくなってる」


ハスト殿は、自分の胸の真ん中を、親指で軽く叩いた。


「自分の手に、流せ。それだけだ」


それだけ言って、ハスト殿は、さっさと歩いていってしまった。


炭で描き足した眉毛が、左右で太さが違っていた。


私は、笑わないように、唇を噛んだ。


――自分の手に。


十年、私の手は、誰かの帳簿のためのものだった。


◇


「――よう」


円の反対側から、大きな声がした。


ラインハルト・アルク。序列百五十八位。一年。


両の拳を腰に当てて、仁王立ちしていた。左腕には、もう何も巻いていなかった。


十日前、私は、この男を雪の上に跪かせた。


この男の口に、我が主、と言わせた。


この男は、泣いていた。悔しさで、怒りで、自分の口が自分のものでなくなった恐怖で。


「先に言っとくぞ」


ラインハルトは、私を指さした。


「お前に膝つかされたこと、俺は忘れてねぇからな。一生忘れねぇ。孫の代まで語り継いでやる」

「……ええ。忘れないでください」


私は、静かに答えた。


「忘れられるのは、つらいことですから」


ラインハルトの眉が、ぴくりと動いた。


一瞬、何かを言いかけて、やめた。


講堂でのことを、思い出したのだと思う。私の名前を、一瞬、誰も思い出せなかったときのことを。


「……だからな」


ラインハルトは、指を下ろして、両の拳を握り直した。


「全力で行く。手加減なんか、しねぇ。……それが、礼儀ってもんだろ」

「望むところです」


私は、一礼した。


ラインハルトも、ぎこちなく頭を下げた。


円の外の人垣の中に、レオン殿の姿があった。腕を組んで、窓の外を見るような目で、こちらを見ていた。


目が合った。


レオン殿は、表情を変えなかった。ただ、顎をほんの少しだけ、円の真ん中のほうへしゃくった。


行け、という意味なのか。さっさと負けろ、という意味なのか。私には、わからなかった。


わからなかったけれど、背筋が、少しだけ伸びた。


円の外の人垣の最前列で、麦わら色のふたつ結びが、両手を口に当てて叫んでいた。


「アルブレヒトさーん! 呼んでくださいね! 読むんじゃなくて、呼んで!」


ミモザ嬢だった。


昨日、学園の二位になった少女。今日の午後には、クルトという一年と二回戦を戦う。それなのに、朝一番から、ここにいた。


その隣で、ハスト殿が、腕を組んで立っていた。


眉毛が、なかった。


正確に言うと、昨日の火で焦げて半分ほど残った眉毛を、フィアット嬢が、炭で丁寧に描き足していた。左右で、太さが少し違った。


私は、思わず目を逸らした。


笑ってはいけない場面だった。……たぶん。


◇


「――始め!」


立会人の声と同時に、ラインハルトが右手を天に突き上げた。


「――天を裂く雷鳴よ! 我が腕に宿りて、その名を轟かせ!」


十日前と、同じ詠唱だった。


声が、大きかった。十日前より、さらに大きかった。喉を潰しながら、毎晩、中庭で磨き直した詠唱。……ハスト殿が、雪溜まりの前で、そう言っていた。


私は、両手を前に差し出した。


「――風よ」


声が、硬かった。


条文を読み上げるときの声だった。十年かけて身体に染み込んだ、器の声。


手のひらの上で、何も起きなかった。


行が、門のところで止まっているのが、自分でもわかった。命令を待っている。条番号と、結びの句を待っている。……読み上げられるのを、待っている。


「闇を穿ち、敵を穿ち!」


ラインハルトの三節目。


雷の気配が、空気をちりちりと焦がし始めた。


「――風よ、我が手に」


二度目も、硬かった。


雪の粉が、ほんの少しだけ揺れて、すぐに止まった。


「アルブレヒトさん!!」


ミモザ嬢の声が、人垣を突き抜けて届いた。


「鯵です!! 開くんです!! 端から、ゆっくり!!」


……鯵。


意味がわからなかった。


わからなかったのに、なぜか、肩の力が抜けた。


私は、目を閉じた。


読むのではなく。


呼ぶ。


屋上で、フィアット嬢がそう言った。行は、ちゃんと来ている。命令されるのを待っているだけだ、と。


――命令しない。


――ただ、来てくれと、呼ぶ。


「我が前に立つすべてを、打ち砕けぇぇ!! 『サンダー・ストライク』ッ!!」


五節の雷が、一直線に飛んできた。


私は、目を開けた。


「――風よ。我が手に、集え」


声が、柔らかかった。


手のひらの上で、風が、渦を巻いた。


雪の粉をひと回りどころではなかった。円の中の雪が、私の足元から舞い上がって、両手のあいだで小さなつむじ風になった。


――『ウィンド』。


一年の最初の授業で習う、一節の、一番小さな風。


つむじ風が、私の手を離れて、雷とぶつかった。


雷が、ほんのわずかに、軌道を曲げた。


ほんのわずかだった。指一本ぶんくらいだった。


それでも、雷は、私の胸の真ん中ではなく、左の肩をかすめていった。


――かすめて、それで十分だった。


五節の雷の余波が、私の身体を、円の外へ弾き飛ばした。


右肩から入った。


背中を丸めた。


転がった。


一回転して、膝をついた姿勢で、雪の上に止まった。


円の、白い線の外で。


◇


「――勝者、ラインハルト・アルク!」


立会人の声が、聞こえた。


私は、雪の上に膝をついたまま、自分の両手を見下ろしていた。


手のひらが、少しだけ痺れていた。雷の余波と、それから、さっきのつむじ風の手応えで。


――出た。


約ではない。条文でもない。器に注がれた、誰かの名前でもない。


私が呼んで、私の手から出た、風だった。


指一本ぶんしか曲げられなかった風。五節の雷に、ほとんど何もできなかった風。学園の一年生なら、入学して最初の月に覚える風。


それなのに、胸の奥が、熱くて仕方がなかった。


聖約で誰かを跪かせたときには、一度も感じたことのない熱さだった。あのとき私の胸にあったのは、正しいことをしたという冷たい満足だけだった。今は違う。負けたのに。雪の上に膝をついているのに。……手のひらが、まだ風の形を覚えていた。


雪の上に、影が落ちた。


顔を上げると、ラインハルトが、右手を差し出していた。


「……立てよ」


私は、その手を取った。


ラインハルトは私を引っ張り上げた。力が強かった。私がよろめくと、肩をつかんで支えた。


それから、にやりと笑った。


「盗品にしちゃ、悪くねぇ風だったぜ」


私は、言葉に詰まった。


十日前、レオン殿を跪かせたあと、私は同じことを言った。盗品にしては、悪くない読みでした、と。


その言葉が、そっくりそのまま、私に返ってきた。


ただ、ラインハルトの声には、棘がなかった。


「……魔術、です」


私は、言った。


「盗品ではなく、魔術です。……ミモザ嬢に、何度も訂正されましたので」


ラインハルトは、目を丸くした。


それから、腹を抱えて笑い出した。


「わはははは! そうだな! 魔術だ! いい風だったぜ、アルブレヒト!」


名前を、呼ばれた。


フルネームでもなく、家の名でもなく。


ただの、アルブレヒト、と。


◇


観覧席の一番後ろの端に、父は、まだ座っていた。


私は円を出て人垣を抜け、観覧席の段を一段ずつ上っていった。


父の前で、立ち止まった。


「……負けました」


父は、私を見上げていた。


灰色の目だった。私と同じ色の。


講堂で、私を知らない少年として見下ろした目。……今は、違う色をしていた。


「見ていた」


父の声は、低かった。


父は、私が幼い頃から、私の稽古を一度も見に来なかった。約の作法は、ベネディクトの役目だった。父はただ、毎年の終わりに、私の上達を聞かされて、そうか、と頷くだけの人だった。


その父が、雪の観覧席の一番後ろで、手袋もはめずに座っていた。


「お前が、倒れるところを。……初めて見た」


それから、父は、少しだけ目を伏せた。


「きれいな、転び方だった」


私は、何も言えなかった。


父は、自分の膝の上で、両手を組んでいた。その指が、かすかに震えていた。


「……アルブレヒト」


父が、私の名前を呼んだ。


ゆっくりと。一音ずつ、確かめるように。


「お前の名を、もう一度、呼んでもいいか。……屋敷に帰ったら、家系図の、白いところの前で。お前の叔父の名も、思い出せたら、そこで」


私は、頷いた。


声が出なかったので、頷くことしかできなかった。


◇


その日の午後、第二試合場で、ミモザ嬢はクルトという一年に負けた。


火は、出たそうだ。昨日ほど大きくはなかったけれど、ちゃんと、橙色の火が。それを、クルトという一年は、石の壁を三枚重ねて、黙って受け止めて、四枚目の石で、ミモザ嬢の足元をそっと崩したらしい。


ミモザ嬢は、頭から転んだ。


クルトという一年は、全学年二位になった。


ミモザ嬢は、序列百八十七位になった。


「――呪われた二位の椅子、二人目!」


ペトラという記者の号外は、その日の夕方には刷り上がっていた。


クルトという一年は、号外の似顔絵の下で、耳まで真っ赤になって、教室の隅の席で頭を抱えていたそうだ。


◇


夕方、私は、ハブられ分館の台所にいた。


もう約はない。従者でもない。来る理由は、何もなかった。屋敷では、父が家系図を広げて待っているはずだった。


それでも、足が勝手に向いていた。


長卓の上で、パンの生地をこねていた。竈の前ではハスト殿が粥を煮ていて、炭で描いた眉毛は、湯気で少しだけ滲んでいた。フィアット嬢が、それを見ないように、ずっと窓のほうを向いていた。アベルが、隣に椅子を引っぱってきて、私の手元をじっと見張っていた。


「……てのひらの、ここ」

「ここ、ですね」

「うん。やさしく」


窯に入れたパンは、爆発しなかった。


焼き上がったパンを、半分に割った。


長卓の端に、セルカ嬢が座っていた。膝を抱えて、氷の小鳥を作っていた。


私は、割ったパンの半分を、セルカ嬢の前に置いた。


セルカ嬢は、氷の小鳥を作る手を止めて、パンを見下ろした。


それから、私を見上げた。


「……きょう、まけた?」

「負けました」

「……いたかった?」

「少しだけ」


セルカ嬢は、パンを両手で持って、小さな口でかじった。


もぐもぐと、長いこと噛んでいた。


「……しょっぱくない」

「今日は、塩と砂糖を、間違えませんでした」

「……ふうん」


セルカ嬢は、もう一口かじった。


それから、ぽつりと言った。


「……ゆるす。……はんぶんと、もうすこし」


私は、パンの残り半分を持ったまま、しばらく動けなかった。


器が空になったら、何が残るのか。


答えは、まだ出ていない。


でも、空になった器には、何かを入れることができる。


焼きたてのパンの温かさとか。


名前を呼ばれる声とか。


一節の、小さな風とか。


帰り道の雪は、行きよりも少しだけ柔らかかった。


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