133 一回戦――干物屋の娘
その朝、分館の台所は、いつもより静かだった。
「……ハスト様。どうするんですか」
フィアットが、粥の椀を両手で包んだまま、目を閉じて訊いた。
「何を」
「ミモザさんとの試合です」
俺は、黙って粥をすすった。
長卓の端で、アルブレヒトが、アベルにパンの成形を教わっていた。昨日から、毎朝、分館に通ってきているのだ。もう約もないのに。……本人いわく、屋敷の料理長にこれ以上泣かれると困るので、という理由らしい。
「エトワール学園長が、立会人なんですよね」
「ああ」
「わざと負けたら、無効。わざと勝ちに行くのは……」
フィアットは、そこで言葉を切った。
続きは、言わなかった。言わなくても、わかっていた。
「……ハストさまは、きめてない」
セルカが、粥の匙をくわえたまま言った。
「においで、わかる。……まよってる、におい」
「迷ってねぇよ」
「まよってる」
アルブレヒトが、生地を丸める手を止めずに、静かに言った。
「……主。いえ、ハスト殿」
「なんだ」
「あの方は、屋上で私に転び方を教えてくださったとき、こう言いました。転ぶのは怖い。でも、転んだあとに誰かが見ていてくれたら、また起きられる、と」
アルブレヒトは、丸めた生地を天板に並べた。
「……私は、講堂で、あの方にパンを拾っていただきました。名前も思い出せないまま」
それ以上は、何も言わなかった。
アベルが、アルブレヒトの丸めた生地を指でつついて、こくりと頷いた。
「……じょうず」
◇
第三試合場は、中庭の東の端にあった。
雪かきされた石畳の上に、白い線で円が描かれている。直径、二十歩。線の外に出たら、場外で負けだ。円の周りには、もう生徒たちが三重にも四重にも人垣を作っていた。
二位と、二百九十九位。
本来なら、一回戦で一番人の集まらない組み合わせだった。
「――最下位同盟の、同盟対決! どっちが勝っても記事になる! さあさあ、見ていって!」
人垣の最前列で、ペトラが手帳を振り回していた。
その隣に、白い腕章のない左腕で、会長が腕を組んで立っていた。会長は、自分の試合が午後にある。それでも、朝一番からここに来ていた。
ラインハルトとレオンとクルトが、その後ろに並んでいた。アルブレヒトは、少し離れたところで、背筋を伸ばして立っていた。アベルに持たされたらしい、パンの包みを抱えて。
フィアットとセルカは、俺の後ろにいた。
「……ハスト様」
フィアットが、目を閉じたまま、小声で言った。
「ミモザさん、昨日の夜、ほとんど寝てないと思います。……色が、すごく張りつめてる」
「わかってる」
円の反対側に、ミモザが立っていた。
麦わら色のふたつ結びが、冬の風に揺れていた。制服の上に、港町の漁師が着るような、分厚い毛糸の上着を羽織っている。胸の前で、潰れたパンの包みを、両手でぎゅっと抱きしめていた。
顔が、真っ白だった。
膝が、小刻みに震えていた。
それでも、ミモザは、まっすぐに俺を見ていた。
◇
立会人は、エトワールだった。
学園長が一回戦の立会人に立つなんて、前代未聞だ。人垣のあちこちから、ざわめきが上がっていた。
「両者、前へ」
エトワールの声に、ミモザが、ぎくしゃくと前に出た。
それから、胸に抱えていたパンの包みを、どうしていいかわからないというように見下ろした。
「……あ、あの。これ」
ミモザは、包みを、円の外の会長に差し出した。
「持っててもらえますか……? 食べられなくて……」
「ええ。預かるわ」
会長は、潰れたパンを、両手で大事そうに受け取った。
ミモザは、円の真ん中に戻ってきた。
俺の目の前で、立ち止まった。
「……ハストさん」
声が、震えていた。
「わたし、ハストさんに、手加減してほしくないです」
「……」
「でも、ハストさん、本気出したら、わたしなんか、一瞬で場外ですよね。……知ってます。講堂でも、中庭でも、見てたから」
ミモザは、両手を胸の前でぎゅっと握った。
「だから、お願いがあります」
「何だ」
「わたしの火を、見てください」
まっすぐな目だった。
「一回だけでいいです。最後まで、ちゃんと唱えるから。……出ても、出なくても。見てて、ください」
人垣が、静まり返っていた。
俺は、しばらく、ミモザの顔を見ていた。
それから、頷いた。
「……ああ。見る」
ミモザの顔に、ほんの少しだけ、色が戻った。
エトワールが、眼鏡を押し上げた。
レンズの奥の目が、俺をじっと見ていた。……第百十五条。故意に負けたと認めた場合、その決闘は無効。
わかっている。
わざとは、負けない。
ただ、見る。
それだけだ。
「――始め」
◇
ミモザは、両手を胸の前で合わせた。
目を閉じた。
唇が、小さく動いた。……いち、に、さん。鯵を開くときの、数え方。
それから、詠唱が始まった。
「――炎よ。眠れる灯よ。我が胸の奥にて、目を覚ませ」
一節目。
声は、震えていなかった。
入学してから、何百回、何千回と唱えてきた詠唱だった。一音も、間違えなかった。
「凍てつく夜を、照らすもの。凍える手を、温めるもの」
二節目。三節目。
人垣の誰かが、くすりと笑った。
「……どうせ、煙だろ」
「二百九十九位だぜ」
その声が、聞こえていないはずはなかった。
ミモザは、目を閉じたまま、唇を動かし続けた。
「我が呼び声に、応えよ。小さき灯よ、大いなる火となりて」
四節目。
ミモザの合わせた手のひらの隙間から、白い煙が、ゆらりと立ちのぼった。
人垣から、ため息が漏れた。
やっぱり、と誰かが言った。
――違う。
俺には、見えていた。
煙の芯が、橙色に光っていた。昨日の夜、学園の屋上で、ほんの一瞬だけ光った色。それが、今は、消えずに灯っていた。
ミモザの胸の奥で、門の折り目が、一枚ずつ開いていくのが見えた。端から、ゆっくりと。腹から開く魚のように。
鯵なら、一枚三つ数えるうちに開けます。
屋上で、あいつはそう胸を張った。
いち。
に。
さん。
ミモザが、目を開けた。
「――『ファイア・ボール』っ!!」
◇
火が、生まれた。
ミモザの手のひらの上で。
小さな火ではなかった。
煙の芯から溢れ出した橙色の光が、一気に膨れ上がった。一年分、いや、生まれてから十五年分、門の奥で詰まって、煙になって消えていくしかなかった魔力が、折り目の開いた門から、まとめて噴き出していた。
火の玉、という大きさではなかった。
燻製小屋が一軒、まるごと燃えているような火だった。
人垣が、悲鳴を上げて後ずさった。
円の真ん中で、ミモザ自身が、自分の手の上の火を見上げて、目をまん丸に見開いていた。
「……え。……え? え、えええっ!?」
火は、ミモザの手を離れた。
まっすぐ、俺のほうへ。
――避けられた。
半歩、横にずれるだけで。
止められた。
指一本動かさずに、火の前に氷の壁を一枚置くだけで。
吹き消せた。
息ひとつで。
全部、できた。
でも、それをやったら、ミモザの火は、俺に届かない。
見てて、ください。
あいつは、そう言った。
見るというのは、避けることでも、止めることでも、消すことでもない。
――受けることだ。
負けたくないのは、変わらない。
俺は、今も、負けず嫌いだ。完璧に負けるのも、完璧に引き分けるのも、全部、負けず嫌いの裏返しだった。中途半端な負けは、負けより悔しいから。
なら、今、一番悔しいのは何か。
あいつの十五年分の火を、俺の手で、なかったことにすることだ。
俺は、その場から動かなかった。
ポケットに手を突っ込んだまま、両足で石畳を踏みしめて、ミモザの火を、正面から受けた。
◇
熱かった。
当たり前だった。
燻製小屋一軒ぶんの火が、まともに胸にぶつかってきた。制服の前が一瞬で焦げて、前髪がちりちりと音を立てた。
身体の表面に、ごく薄い冷気を一枚だけ纏っていた。火傷をしないための、最低限の。それ以上のことは、何もしなかった。
足を踏ん張った。
石畳の上を、靴の底が、ずるずると後ろへ滑っていった。
一歩。二歩。
火の勢いは、止まらなかった。十五年分の火だ。止まるわけがなかった。
三歩。四歩。
背中の後ろで、人垣が割れる気配がした。
五歩目で、靴の踵が、白い線を越えた。
火が、ようやく尽きた。
俺は、円の外の石畳の上に、仰向けに倒れていた。
冬の空が、見えた。
制服の前から、細い煙が立ちのぼっていた。
◇
誰も、声を出さなかった。
最初に動いたのは、エトワールだった。
立会人の位置から、円の外に転がった俺のところまで、ゆっくりと歩いてきた。眼鏡のレンズが、冬の光をきらりと跳ね返した。
俺を、見下ろした。
「……はっす〜、君」
「なんだよ」
「故意に、負けたかね」
人垣が、息を呑んだ。
第百十五条。故意に敗れたと立会人が認めた場合、その決闘は無効。
俺は、仰向けのまま、空を見ていた。
「……負けてねぇよ」
「場外だが」
「受けただけだ」
エトワールは、しばらく黙っていた。
それから、俺の焦げた制服を見下ろして、ふっと笑った。
「……受けることと、負けることは、違う」
エトワールは、くるりと背を向けて、円の真ん中を向いた。
拡声の魔道具を、口元に当てた。
「――勝者、ミモザ・リーフェル。序列戦規則第三により、両者の序列を入れ替える」
一拍、間があった。
「ミモザ・リーフェル、全学年序列、二位」
中庭が、爆発した。
◇
円の真ん中で、ミモザが、ぺたんと座り込んでいた。
自分の両手を見下ろしていた。火が出たばかりの、少し煤けた手のひら。
それから、顔を上げて、円の外に倒れている俺を見た。
「……ハ、ハストさん」
声が、ひっくり返っていた。
「ハストさん!! だ、大丈夫ですか!? わ、わたし、わたし、ハストさんを燃やし……!」
「燃えてねぇよ」
俺は、上半身を起こした。
焦げた前髪が、ぱらぱらと膝の上に落ちた。
「……出たな」
ミモザの動きが、止まった。
「火」
ミモザの目に、みるみる涙が溜まっていった。
今度は、止めようとしなかった。
「……でました」
ミモザは、煤けた手のひらを、胸の前で握りしめた。
「でました……! ハストさん、わたし、でました……! 火、でました……!」
わんわんと、声を上げて泣いた。
燻製小屋。あったかくできる。父ちゃん。村のみんな。……泣き声の合間に、そんな言葉が、ぼろぼろとこぼれていた。
円の外で、会長が、潰れたパンの包みを胸に抱いたまま、一緒に泣いていた。ラインハルトが、なぜか両手を突き上げて叫んでいた。クルトが、一番大きな音で拍手をしていた。アルブレヒトは、背筋を伸ばしたまま、目元を指で押さえていた。
人垣の後ろのほうで、さっき「どうせ煙だろ」と笑った生徒が、気まずそうに目を逸らしていた。
◇
「……ハストさま」
セルカが、俺の前にしゃがみ込んでいた。
淡い水色の目が、俺の顔の、少し上のほうを見ていた。
「……まゆげ」
「は?」
「まゆげ、ない」
俺は、自分の額に手をやった。
眉毛が、なかった。
正確に言うと、右の眉毛が半分と、左の眉毛の三分の二が、きれいに焦げてなくなっていた。
フィアットが、俺の隣で、目を閉じたまま、口元を両手で押さえていた。肩が、小刻みに震えていた。
「……笑うな」
「わ、笑って、ません」
「笑ってるだろ」
「……ふふっ」
ペトラが、人垣の最前列で、手帳に猛烈な速さで何かを描いていた。
たぶん、明日の号外の似顔絵だ。
眉毛のない男の。
「――ハストさま、二百九十九位」
セルカが、なぜかとても嬉しそうに言った。
「わたしの、二つ上。……ちかい」
それから、俺の焦げた前髪を、小さな手でそっと撫でた。
ひんやりとして、気持ちがよかった。
◇
その日の夕方には、もう、学園中にミモザの名前が知れ渡っていた。
二位の席は、一位のすぐ下だ。トーナメントの残りの試合で、ミモザに勝てば、その相手が二位になる。
翌日の二回戦の相手が発表されると、ミモザは、また白目をむいて倒れかけた。
「……クルトくん、です」
ミモザは、会長に支えられながら、震える声で言った。
「序列百八十七位の、クルトくん……。わたしに勝ったら、クルトくんが二位……」
「……それは、それで、いいんじゃないかしら」
会長が、困ったように笑った。
「二位の椅子って、なんだか、一週間で何人も座ることになりそうね」
ペトラが、手帳に書き込みながら、にやりと笑った。
「いい見出しが浮かんだよ。『呪われた二位の椅子』」
「縁起でもねぇ」
俺は、焦げた前髪を指でつまんだ。ぱらりと崩れた。
二位の椅子から降りたのは、ほんの数刻前だ。降りてみると、驚くほど、肩が軽かった。
それなのに、胸の奥が、少しだけ熱かった。
火の熱が、まだ残っているのだ。十五年分の、干物屋の娘の火の熱が。




