132 トーナメント表
フィアットが学園に戻ってきたのは、講堂の一件から五日目の朝だった。
一年の教室の扉を開けた瞬間、教室中の目が、一斉にこちらを向いた。
正確に言うと、俺の後ろに立っているフィアットのほうを向いた。
フィアットは、目を閉じていた。いつもと同じように。瞼の下から、銀色は一筋も漏れていなかった。
教室が、しんと静まり返った。
誰も、何も言わなかった。陛下の布告がある。その眼について問う者は、王に問え。……問えるわけがない。かといって、何事もなかったような顔もできない。三十人ぶんの戸惑いが、教室の空気をぴんと張りつめさせていた。
その空気を、一番後ろの席の大声が、真っ二つに割った。
「――おかえり、銀眼の一位!!」
ラインハルトだった。
椅子の上に立ち上がって、両手を大きく振っていた。
「……お、おかえりなさい?」
「おかえり、フィアットさん!」
「おかえり!」
あちこちから、声が上がった。誰かが拍手を始めて、それが教室中に広がった。教室の後ろで、クルトが、一番大きな音で手を叩いていた。
フィアットは、目を閉じたまま、入口で立ち尽くしていた。
それから、耳まで真っ赤になって、深々と頭を下げた。
「……た、ただいま、戻りました」
レオンが、窓の外を見たまま、ぼそっと言った。
「座れよ。授業、始まるぞ」
その声が、いつもより少しだけ柔らかかった。
◇
「目、開けないのか」
昼休み、屋上に上がる階段で、俺はフィアットに訊いた。
「もう、全員に見られたろ。陛下の布告もある。隠す理由は、あんまりねぇぞ」
「……開けると、全部が字に見えるんです」
フィアットは、階段の手すりに手を添えながら、ゆっくりと上っていた。
「講堂のときからずっと。壁も、床も、人も。全部、アルフさん……ええと、世界の行に見えて。開けてるだけで、頭がいっぱいになっちゃうんです。だから、閉じてるほうが楽で」
一瞬、何かの名前を言いかけて、言い直した。……聞き取れなかった。白い音がした気がした。
「それに」
フィアットは、踊り場で足を止めた。
「目を閉じてても、見えるものは見えますから。……見なくていいものまで見ないために、閉じてるんです」
それ以上は、何も言わなかった。
あの夜、焦げたパンを食べながら訊かれたことを、フィアットは、あれから一度も口にしていない。
フィアットじゃない名前。
俺は、知らないと答えた。
その答えが、まだ、胸の真ん中の白い場所の縁に、細い棘みたいに引っかかっていた。
◇
屋上には、最下位同盟がいた。
ひとり、増えていた。
「――はい、アルブレヒトさん! 右肩から入って、背中を丸めて、転がる!」
「承知しました」
黒い制服の男が、雪の上に、すっと身を沈めた。
右肩から入って、背中を丸めて、転がった。
一回転して、膝をついた姿勢で、ぴたりと止まった。
完璧だった。
ミモザが、口をぽかんと開けていた。
「……な、なんで一回目でできるんですか!?」
「父の屋敷で、幼い頃から、乗馬の落ち方を仕込まれましたので」
「ずるいです! わたし、まだ三回に一回は頭から行くのに!」
「三回に二回は、肩から行けるようになったのですね。……進歩です」
「褒めないでください! 悔しいので!」
ミモザは、雪を蹴り上げて地団駄を踏んだ。それから、足を滑らせて、頭から雪に突っ込んだ。
貯水槽の上で、セルカが、膝を抱えたまま言った。
「……いまの、頭」
「見なかったことにしてください……!」
フィアットが、俺の隣で、くすくすと笑っていた。
アルブレヒトは、雪の上に膝をついたまま、自分の手のひらを見下ろしていた。
「……転び方は、覚えました。次は、詠唱です」
「詠唱、やったことねぇのか」
「ありません。聖約は、条文を読み上げるものでしたので」
アルブレヒトは、立ち上がって、両手を前に差し出した。
ミモザが、紙切れを一枚、横から差し出した。一年の最初の授業で習う、一節の風の詠唱が書いてあった。
アルブレヒトは、それを真剣な顔で読み上げた。
「――第一節。風よ。我が手に、集え。……以上」
何も起きなかった。
屋上を、冷たい風が一回だけ吹き抜けた。たぶん、ただの冬の風だった。
「……あの、アルブレヒトさん」
ミモザが、おずおずと言った。
「第一節、とか、以上、とか、いらないです……」
「条文には、条番号と、結びの句が必要では」
「詠唱は条文じゃないです!」
フィアットが、とうとう声を出して笑った。
笑いながら、目を閉じたまま、アルブレヒトのほうに顔を向けた。
「アルブレヒトさん。行は、ちゃんと来てますよ。……ただ、読み上げるみたいに唱えるから、門のところで行が、待ってるんです。命令されるのを」
「命令を……待っている」
「はい。だから、呼んであげてください。読むんじゃなくて」
アルブレヒトは、しばらく黙っていた。
それから、もう一度、両手を差し出した。今度は、紙を見なかった。
「……風よ。我が手に、集え」
声が、少しだけ柔らかかった。
アルブレヒトの手のひらの上で、雪の粉が、くるりと小さく渦を巻いた。
ほんの、ひと回りだけ。
アルブレヒトは、その小さな渦を、長いこと見つめていた。
「……盗品の、魔術」
「魔術です」
ミモザとフィアットが、同時に言った。
アルブレヒトは、目を伏せて、少しだけ口元を緩めた。
「……魔術、ですね」
◇
午後、講堂で、トーナメント表の発表がやり直された。
天井には、新しい梁が一本渡されていた。まだ削りたての木の匂いがしていた。あの日、バルトロの爺さんが乗っていた梁は、爺さんの重さで少し曲がってしまったらしい。
扉の樫の板にも、新しい木が継ぎ足されていた。……元財務卿の腹がつかえた跡だそうだ。
「――さて」
壇上で、エトワールが咳払いをした。
眼鏡が、きらりと光った。
「先日は、少々邪魔が入ったが。……改めて、全校トーナメントの組み合わせを発表する」
講堂中が、息を呑んだ。
「三百一名を、八つの試合場で戦わせる。最初の四日間で、十六名まで絞る。最後の三日間が本戦だ。……例年どおり、組み合わせは序列順の抽選で決めた。文句は受け付けない」
壇上の黒板に、大きな紙が貼り出された。
細い線が、無数に枝分かれしていた。
講堂の生徒たちが、一斉に身を乗り出した。自分の名前を探して、指で線をたどって、悲鳴を上げたり、拳を握ったりしていた。
俺も、自分の名前を探した。
二位。シードの枠。一回戦の相手は、一番遠い序列から選ばれる。
線の先をたどった。
――ミモザ・リーフェル。序列二百九十九位。
講堂の真ん中あたりで、どさっ、と音がした。
麦わら色のふたつ結びが、椅子から床に崩れ落ちていた。
「ミ、ミモザちゃん!?」
「誰か、水! 水持ってきて!」
隣の席の女子生徒たちが、慌てて抱き起こしていた。ミモザは、白目をむいて、うわごとのように呟いていた。
「……に、二位……ハストさん……一回戦……さいかい……さいかいどうめい……」
講堂の後ろのほうで、アルブレヒトの名前が呼ばれた。三百位、一回戦の相手は、ラインハルト・アルク。
ラインハルトが、椅子の上に立ち上がって、アルブレヒトのほうを指さした。
「――正々堂々だ! 全力で行くからな!」
アルブレヒトは、背筋を伸ばして、深く一礼した。
それから、セルカの名前。フィアットの名前。会長の名前。レイアーヌの名前。ディエゴの名前。……それぞれの線の先に、それぞれの相手が並んでいた。
フィアットが、目を閉じたまま、黒板のほうを向いていた。
「……先輩たちと、全員、同じ山じゃないんですね」
「同じ山だったら、決勝まで行けねぇだろ」
「行けたら、いいなって」
フィアットは、小さく言った。
「アイシャ先輩と、もう一回。……卒業する前に、正面から」
講堂の出口では、ペトラが、黒板のトーナメント表を、手帳に猛烈な速さで書き写していた。
その横に、なぜか小さな木の板が立てかけてあった。板には、生徒の名前がずらりと並んで、その横に、豆粒みたいな数字が書き込まれていた。
「……何だ、それ」
「予想表。……賭けじゃないよ? 予想。新聞の企画」
ペトラは、鉛筆の尻で板を叩いた。
「優勝予想の一番人気は、もちろん銀眼の一位。二番人気が前の一位の会長。三番が王女様。……で、ハスト君は」
「聞いてねぇ」
「一回戦で負ける予想が、八割」
「……ほっとけ」
「残りの二割は、ミモザちゃんの気絶で不戦勝」
ペトラは、手帳を閉じて、急に真顔になった。
「でもさ、あたし、この一回戦、いちばん楽しみなんだよね。……二位と二百九十九位。最下位同盟の、同盟対決。どっちが勝っても、記事になる」
それから、少しだけ声を落とした。
「ミモザちゃん、毎晩ひとりで屋上に上がってるの、知ってる?」
俺は、答えなかった。
ペトラは、鉛筆を耳の上に戻して、にっと笑った。
「親指、動いてないね。……知ってたんだ」
廊下の端で、セルカが、自分の名前の線を指でなぞっていた。
「……わたし、本戦まで行ったら、ディエゴ」
「四位の、剣の人か」
「……つよい。においで、わかる」
セルカは、淡い水色の目で、黒板を見上げていた。それから、俺の袖をつまんだ。
「ハストさま。……ミモザに、まけて、いい?」
「……は?」
「ハストさまが、まけたら、二百九十九位。わたしの、すぐ上の上。……ちかくなる」
「そういう理由で負けられるか」
「……ちぇっ」
セルカは、本気で残念そうな顔をした。
◇
講堂を出たところで、エトワールに呼び止められた。
「はっす〜君」
「……なんだよ」
「第百十五条のことは、覚えているね」
エトワールは、眼鏡を押し上げた。
「二位以上の者が、故意に敗れたと立会人が認めた場合、その決闘は無効。……トーナメントでも同じだよ。君の一回戦の立会人は、私が務める」
「わざわざ、学園長が」
「わざわざ、だ。……君が、あの子を相手に、どういう試合をするのか。この目で見ておきたくてね」
エトワールは、それだけ言って、廊下の向こうへ歩いていった。
俺は、窓の外の中庭を見下ろした。
雪の上で、ミモザが、女子生徒たちに両脇を支えられて、ふらふらと歩いていた。
――ハストさんが本当に負けるときは、わたしが勝ちます。
屋上で、あいつはそう言った。
わざと負けることは、もうできない。わざと勝ちに行くのは、俺が嫌だ。
なら、どうする。
答えは、出なかった。
◇
その夜、分館の屋上から、学園のほうを見ていた。
学園の屋上に、小さな灯りがひとつ、揺れていた。
目を凝らすと、麦わら色の髪が見えた。
ミモザだった。
ひとりで、屋上の真ん中に立って、両手を胸の前で合わせていた。唇が、動いていた。……いち、に、さん。鯵を開くときの、数え方。
それから、長い詠唱。一年の最初に習う、五節の火の詠唱。入学してから一度も発動したことのない、百点満点の詠唱。
ミモザの手のひらの上に、煙が上がった。
白い煙だった。
火ではなかった。
ミモザは、煙を見下ろして、しばらく動かなかった。それから、首を振って、また両手を合わせた。
いち、に、さん。五節の詠唱。煙。
いち、に、さん。五節の詠唱。煙。
何度も。何度も。
俺は、分館の屋上の手すりに肘をついて、それを見ていた。
行こうと思えば、すぐに行けた。もう少し、こうだ、と教えてやることもできた。
行かなかった。
明日、あいつが戦う相手は、俺だ。
灯りの下で、ミモザが、また両手を合わせた。
煙が上がった。
その煙の芯のところが、ほんの一瞬だけ、橙色に光ったように見えた。
ミモザは、気づかなかった。
煙を手で払って、また、いち、に、さん、と数え始めた。
俺は、手すりから肘を離した。
あいつの門は、もう、開きかけている。
折り目に沿って、端から、ゆっくりと。毎晩、ひとりで、魚を開くみたいに。俺が教えたのは、ほんの入口だけだ。あとは全部、あいつが自分でやっている。
明日、あいつの門が開いたら。
そのとき、俺は、どうするのか。
わざと負けるのは、もうできない。負けたふりも、エトワールが見ている。かといって、ここまで来たあいつの火を、俺の手で消すのは。
――それは、負けるより、ずっと嫌だった。
台所に降りて、窯に火を入れた。
翌朝、学園の屋上の扉の前に、焼きたてのパンの包みがひとつ、置いてあったらしい。
包みの端に、炭で小さく、魚の絵が描いてあったそうだ。
……誰が置いたのかは、知らない。
ミモザは、そのパンを試合が終わるまで食べられずに、ずっと胸に抱えていたらしい。おかげで、包みの中のパンは、すっかり平たく潰れてしまったそうだ。




