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131 呼べる名前


「――ハストさま」

「なんだ」

「……ハストさま」

「だから、なんだ」

「ハストさま」

「……」

「ハストさま、ハストさま」


分館の台所の長卓で、セルカが、俺の袖をつまんだまま、さっきから同じ言葉を繰り返していた。


用があるわけではなかった。


ただ、呼んでいるだけだった。


「……百九十八」


長卓の反対側で、アベルが、指を折って数えていた。


「百九十九。……にひゃく」

「数えんな」

「だって、きょうの、きろく」


アベルは、柱の前まで歩いていって、自分の背丈の傷の横に、炭で小さく『200』と書き込んだ。それから、満足そうに戻ってきた。


セルカは、俺の袖をつまんだまま、また口を開いた。


「ハストさま」

「……ああ」

「ハストさま」

「ああ」


俺は、もう、何も言い返さなかった。


講堂で、四日ぶんの名前を叫んでから、三日が経っていた。セルカは、あれから一度も、俺の袖を離していない。寝るときも、俺の部屋の扉の前で毛布にくるまって、扉の隙間から、ハストさま、と呼んでくる。


呼べなかった四日を、取り戻そうとしているのだ。


それがわかっているから、俺は、何回呼ばれても、ああ、と答えることにしていた。


◇


フィアットは、まだ眠っていた。


講堂で倒れてから、三日。分館の二階の、一番日当たりのいい部屋で、ロリババアが付きっきりで看ていた。


「眼を使いすぎたのじゃ」


ロリババアは、寝台の脇の椅子に、ちょこんと腰かけていた。足が床に届かないので、ぶらぶらと揺れている。


「あれだけの白を、一度に読んだのじゃからな。……二百年ぶんの約の帳簿と、世界の行のずれ。わしでも、まともに見たら三日は寝込む」

「……起きるのか」

「起きる」


ロリババアは、きっぱりと言った。


「この子の眼は、そう柔ではない。……ただ、蓋が、また一枚外れた。目が覚めたら、何かを訊いてくるやもしれぬ」


ロリババアは、眠っているフィアットの額に、小さな手のひらを当てた。


「訊かれたら、お主が答えよ。わしではなく」

「……何をだよ」


ロリババアは、答えなかった。


ただ、ほんの一瞬だけ、俺を見た。


それから、窓の外に目をやった。


◇


講堂の一件から、王都は、ひっくり返ったような騒ぎだった。


『銀眼の一位、白い約を読み砕く!』


ペトラの号外は、三日連続で刷り増しになった。似顔絵のフィアットは、両目から銀の光を放って、白い本を指さしていた。ちょっと格好よすぎる、と思った。


「格好よかったんだよ、本当に」


ペトラは、分館の門の前で胸を張った。


「あたし、二階の回廊で見てたもん。手帳に書くの、忘れちゃったくらい。……記者失格だね。でも、いいんだ。あれは、書くより先に、見ておくものだった」


元財務卿ベネディクトは、講堂の扉に腹がつかえて動けなくなっているところを、バルトロの爺さんに襟首をつままれて捕まった。今は、王宮の地下牢にいる。ジセリアの評議会から、引き渡しの使者が向かっているらしい。


ヴァイスハイト侯爵は、翌朝、自分の足で王宮に出向いて、請願を取り下げた。


陛下の話では、侯爵は、執務室で長いあいだ黙って立っていたそうだ。それから、ひとつだけ訊いたという。


――陛下。私は、息子の名前を忘れていたあいだ、何を見ていたのでしょうか。


陛下は、壁に掛かった兄弟の絵の前で、こう答えたそうだ。


――何も、見ていなかったのだよ。……私も、二十二年、そうだった。


それから、陛下は、全校生徒への布告を一枚だけ出した。


『学園序列一位フィアット・セルジーネの眼は、王家が預かるものである。その眼について問う者は、王に問え』


それだけだった。


それだけで、学園の誰も、フィアットの眼のことを、面と向かっては口にしなくなった。


◇


二日目の昼には、見舞いの客が押しかけてきた。


「――肉だ! 肉を持ってきたぞ、ハスト!」


ラインハルトが、両手に骨付きの塊肉を抱えて、分館の門をくぐってきた。左腕には、もう何も巻いていなかった。


「寝てる奴に肉かよ」

「起きたら食うだろ! フィアットは命の恩人だ。恩人には肉だ。親父がそう言ってた」


その後ろから、レオンが手ぶらでついてきた。


「……お前は何も持ってきてねぇのか」

「来ただけで十分だろ」


レオンは、そう言いながら、台所の竈の薪が足りないのを見て、黙って裏の薪小屋へ割りに行った。


クルトは、何も言わずに台所の流しの前に立って、溜まっていた洗い物を、全部片付けていった。湯の温度から布巾の絞り方まで、完璧だった。


会長は、白い花の束を抱えて来た。


それを二階の部屋の窓辺に生けて、眠っているフィアットの寝顔をしばらく見つめていた。それから、階段を降りてくるなり、長卓の端のセルカに、がばっと抱きついた。


「セルカちゃん……! よかった、よかったぁ……!」

「……かいちょう、くるしい」

「ごめんね、ごめんね……!」

「……くるしい。……でも、いい」


セルカは、会長の腕の中で、もがくのをやめた。それから、会長の肩越しに、俺のほうを見た。


「ハストさま」

「……ああ」


会長が、セルカを抱きしめたまま、ぼろぼろと泣き出した。


ラインハルトが肉を焼き始めて、台所が煙だらけになって、レオンが薪を抱えて戻ってきて窓を全部開けて、アベルが柱に新しい数字を書き込んだ。


騒がしかった。


三週間ぶりに、騒がしい台所だった。


◇


「――載ってる」


三日目の夕方、アルスが、台所の長卓で顎から手を離した。


「全知の書の、血統魔法の章。最後に一行、増えてやがる」

「何て」

「『血と名による世界との約は、二百年前に絶え、今また絶えた』。……二回、絶えてんだよ。笑えるだろ」


アルスは、笑わなかった。


「聖約の仲立ちの名も、もう白くねぇ。アンセルム。二百年前の、ジセリアの教皇だ。……白いのは、ひとつだけ残ってる」

「ひとつ」

「誰が、二百年前に世界の行を変えたか。……そこだけは、まだ白い」


アルスは、こめかみを指で叩いた。


「嬢ちゃんが読んだのは、消した奴の名前だ。消された奴の名前じゃねぇ。……消された名前は、消した奴の名前を読まれても、戻らねぇらしい」


台所の入口で、ロリババアが立っていた。


その小さな手に、四つにたたまれた藁半紙が握られていた。


ロリババアは、それを長卓の上で開いた。


真ん中に、何も書いていない、白い紙。


……俺には、白紙にしか見えなかった。


ロリババアは、しばらく、その紙を見下ろしていた。


それから、また丁寧にたたんで、袖の中にしまった。


「まだじゃな」


それだけ言った。


左の頬に、小さなえくぼができていた。


◇


その日の夜、分館の門を、誰かが叩いた。


扉を開けると、白い外套の男が立っていた。


いや。


白い外套ではなかった。学園の制服だった。聖印の刺繍のない、ただの黒い制服。淡い金髪を後ろで束ねて、灰色の目をしていた。


アルブレヒトだった。


手に、紙包みをひとつ、抱えていた。


「……何しに来た」

「約が、解けましたので」


アルブレヒトは、背筋を伸ばして言った。


「私はもう、あなたの従者ではありません。物置に置いていた鞄を、取りに参りました。……それから」


アルブレヒトは、紙包みを、両手で差し出した。


「これを」


受け取ると、温かかった。


包みを開くと、丸いパンが入っていた。


少しだけいびつで、少しだけ焦げていて、でも、爆発はしていなかった。


「屋敷の厨房で、焼きました。……生まれて初めて、厨房に立ちました。料理長が、泣いていました」

「泣くほど下手だったのか」

「泣くほど驚いていました」


アルブレヒトは、真顔で言った。


それから、台所の奥に目をやった。


長卓の端に、セルカが座っていた。俺の袖の代わりに、アベルの袖をつまんでいた。


アルブレヒトは、台所に入っていった。


セルカの前で立ち止まって、それから、床に膝をついた。


約に折らされた膝ではなかった。


自分で、折った膝だった。


「……セルカ嬢」


セルカは、淡い水色の目で、アルブレヒトを見下ろした。


「あなたの口から、主の名前を奪ったのは、私です。……私の書いた付則でした。許してほしいとは、申しません。ただ」


アルブレヒトは、頭を下げた。


床につくほど、深く。


「申し訳、ありませんでした」


台所が、しんとした。


セルカは、長いこと黙っていた。


それから、アベルの袖を離して、長卓の上のパンの包みを指さした。


「……それ、ばくはつ、してない?」

「……していません」

「じゃあ」


セルカは、少しだけ首を傾げた。


「ハストさまのパンより、まずかったら、ゆるさない」


アルブレヒトが、顔を上げた。


アベルが、パンを半分にちぎって、セルカに渡した。セルカは、小さな口でかじった。


もぐもぐと、長いこと噛んでいた。


「……しょっぱい」

「……塩を、また間違えたかもしれません」

「でも、ハストさまのより、こげてない」


セルカは、もう一口かじった。


「……ゆるす。はんぶんだけ」


アルブレヒトは、膝をついたまま、長いこと動かなかった。


それから、ほんの少しだけ、口元を緩めた。


笑ったのだと思う。


初めて見る顔だった。


◇


アルブレヒトが鞄を抱えて帰ろうとしたとき、台所の入口から、麦わら色のふたつ結びが飛び込んできた。


「――あっ、いた! アルブレヒトさん!」


ミモザだった。


講堂でパンの包みを拾ったあと、名前を思い出した瞬間に、ミモザは、その場でわんわん泣いたらしい。思い出せなくてごめんなさい、と。……思い出せなかったのは、ミモザのせいではないのに。


「ペトラさんに聞きました! アルブレヒトさん、もう聖約、使えないんですよね!」

「……はい」


アルブレヒトは、静かに答えた。


「血統魔法は、世界から消えました。私には、もう、何もありません。序列も、三百位のままです」

「じゃあ!」


ミモザは、両手を胸の前でぎゅっと握った。


「最下位同盟に、入りませんか!」


アルブレヒトが、固まった。


「……最下位、同盟」

「わたしが二百九十九位で、アルブレヒトさんが三百位で、セルカちゃんが三百一位です! ちょうど三人、並んでます!」

「ハストさまは、もう、ちがう」


セルカが、横から言った。


「ハストさまは、二位。うらぎりもの」

「裏切ってねぇよ」

「うらぎりもの」


ミモザは、アルブレヒトの手を勝手に取って、ぶんぶんと振った。


「明日の昼休み、屋上です! まずは、転び方からです! 頭から行くと、鼻が折れるので気をつけてください!」


アルブレヒトは、振られる自分の手を見下ろしていた。


魚の脂の軟膏の匂いがする、荒れた小さな手だった。


「……盗品の、魔術を」


アルブレヒトは、ぽつりと言った。


「私でも、覚えられるでしょうか」


ミモザは、きょとんとした。


それから、にっこりと笑った。


「盗品じゃないです。魔術です。……ハストさんが、そう言ってました」


◇


その夜遅く、二階の部屋の扉が、かすかに鳴った。


廊下で毛布にくるまっていたセルカが、ぱっと顔を上げた。


扉の向こうから、細い声がした。


「……ハスト様」


フィアットの声だった。


俺は、扉を開けた。


フィアットは、寝台の上で、上半身を起こしていた。目は、閉じていた。顔色は、まだ少し白かった。それでも、口元が、ほんの少しだけ笑っていた。


「……おはよう、ございます」

「夜だぞ」

「……そうなんですか」


フィアットは、閉じた瞼のまま、窓のほうを向いた。


それから、小さな声で言った。


「……おなか、すきました」


俺は、黙って台所に降りていった。


窯に火を入れて、粉をこねた。


焼き上がったパンは、やっぱり、少しだけ焦げていた。


フィアットは、それを両手で持って、ゆっくりとかじった。


「……焦げてます」

「うるせぇ」

「おいしいです」


フィアットは、もう一口かじった。


それから、パンを持ったまま、閉じた瞼の下で、俺のほうを見た。


「……ハスト様」

「なんだ」

「ひとつだけ、訊いてもいいですか」


ロリババアの言葉が、頭をよぎった。


訊かれたら、お主が答えよ。


「……あの白い場所の奥で、誰かが、私を呼んでたんです。私の名前を。……でも、フィアットじゃない名前でした」


フィアットの声は、静かだった。


「ハスト様は、その名前を、知ってますか」


窓の外で、雪が、また降り始めていた。


俺は、答えようとした。


口を開いて、胸の奥を探した。


雪の夜。焦げた匂い。小さな、冷たい手。俺が、叫んでいた名前。


――白かった。


「……知らない」


本当のことだった。


本当のことのはずだった。


なのに、その言葉を口にした瞬間、胸の真ん中の白い場所の縁で、罅が一本、ぴしりと音を立てた気がした。


フィアットは、それ以上、何も訊かなかった。


ただ、焦げたパンを、最後のひとかけらまで、ゆっくりと食べた。


扉の外で、セルカが、小さな声で呼んだ。


「……ハストさま」


二百十四回目だった。


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