130 銀の眼の一位は、全部ぶち壊す
目を開けた瞬間、講堂が、全部、文字になった。
天井の梁。壁の石。窓の硝子。床板の木目。座っている三百人の生徒たち。その一人ひとりの胸の奥を流れる魔力。
全部が、行だった。
少し崩した、やわらかい、丁寧な字。アルフさんの字。世界の隅々まで、その字がびっしりと書き込まれていて、講堂という一枚の大きな頁を作っていた。
その頁の上に、別の字が塗り重ねられていた。
石に刻んだような、角張った、硬い字。
白い糸の形をして、講堂中に張り巡らされていた。床に膝をついた人たちの胸から伸びて、ラインハルト君から、レオン君から、アイシャ先輩から、クルト君から、二年の先輩から、セルカから、アルブレヒトさんから。
そして、ハスト様から。
全部の糸が、一点に集まっていた。
ベネディクトという人の腕の中の、白い表紙の本へ。
その本は、白い炎みたいに見えた。燃えているのではなかった。硬い字が、何万行も、何十万行も、ぎっしりと押し固められて、光っているのだ。二百年ぶんの約の帳簿。誰の名前を、誰に縛りつけたか。誰の名前を、白く消したか。
――ハスト様の胸の、白い場所に、鉤が刺さっていた。
糸の先が曲がって、白い場所の縁の罅に深く食い込んでいた。そこを、こじ開けようとしている。罅の向こうの、雪の夜を。
一番後ろの壁際で、セルカの唇が、声にならない名前を、まだ呼び続けていた。
唇の端から、赤い雫が落ちていた。
――うるさい。
もう一度、胸の中で言った。
全部、うるさい。
◇
「……銀の、眼」
ベネディクトという人の細い目が、大きく見開かれていた。
汗ばんだ丸い顔から、にこにこした笑みが、初めて剥がれ落ちていた。
「真眼……? 北の、第三皇子の……なぜ、学園の小娘が……」
それから、太い指が、慌てたように金の筆を握り直した。
「――付則。汝の眼は、約を見ず」
筆が、原本の頁の上を走った。
硬い字が一行、生まれた。白い糸になって、まっすぐ、私に向かって飛んできた。
見えた。
一画目が書かれた瞬間に、その行が何を言おうとしているのか、全部見えた。どこから始まって、どこで曲がって、どこで終わるのか。どこが、かすれているのか。
思いが先に立ち、指はそのあとを追う。
――ならば、思いより早く届くものに、約は追いつけない。
読むことは、書くことより、速い。
白い糸は、私の胸の前、腕一本ぶんのところで、ほどけた。
ほどけて白い粉になって、講堂の床にさらさらと落ちた。
「……な」
ベネディクトという人が、自分の筆の先と床の白い粉を交互に見た。
「なぜ……付則が、届かぬ」
「私は、あなたの帳簿に、名前を書いてません」
自分の声が、講堂に響いていた。
静かだった。驚くほど、静かだった。
「名前を差し出してない人を、あなたの約は縛れない。……そうですよね」
ベネディクトという人の喉が、ごくりと動いた。
「ならば、名を――」
「書かせません」
私は、一歩、前に出た。
「私の名前は、あなたの帳簿には、一文字も書かせない」
怒っている、と思った。
生まれて初めて、私は本気で怒っていた。
ラインハルト君の大きな声。レオン君の、泣かなかった目。アイシャ先輩がかすめた拳。記念に、と動いたクルト君の唇。藁半紙に震える字で書かれた『ハストさま』。焦げたパンを割ってもらって、温かいと呟いたアルブレヒトさんの声。
この人は、その全部を、帳簿の一行と呼んだ。
胸の白い場所の罅が、内側から焼けるように熱かった。その熱が、目の奥まで上ってきていた。
◇
二歩目で、足元の糸が見えた。
講堂の床を這って、アイシャ先輩の胸につながっている糸。その糸に、付則が一行、書き込まれていた。
膝を、折る。
硬い字だった。けれど、かすれていた。急いで書いたからだ。三画目と四画目のあいだに、筆が浮いた跡がある。
私は、そのかすれを目でなぞった。
読んだ。
付則が白い粉になって崩れた。
アイシャ先輩が、床に手をついて顔を上げた。それから膝に力を込めて、ゆっくりと立ち上がった。
自分の足で。
三歩目。ラインハルト君の付則。読んだ。
四歩目。レオン君の。クルト君の。二年の先輩の。
立ち上がる音が、講堂のあちこちで続いた。椅子が鳴った。誰かが、息を呑んだ。
「――付則!」
ベネディクトという人が、叫んでいた。
「付則! 付則! 汝らは膝を折る! 膝を――」
金の筆が、原本の頁の上を、めちゃくちゃに走っていた。硬い字が、次から次へと生まれて、白い糸になって、講堂中に飛び散った。
全部、読んだ。
書かれるより先に、読んだ。
ベネディクトという人が、一行書くあいだに、私は三行読んだ。三行書くあいだに、九行読んだ。読んだ行は、白い粉になって、雪みたいに講堂に降った。
ぱきん、と音がした。
金の筆が、ベネディクトという人の太い指の中で、真ん中から折れていた。
講堂の二階で、誰かが思わず噴き出した。
……たぶん、ガルシア先生だった。
◇
私は、ベネディクトという人の前に立っていた。
その腕の中の、白い本の前に。
近くで見ると、本は、目が焼けそうなほど白かった。何十万行の硬い字の、一番最後の頁。そこに、一行だけ、何も書かれていない行があった。
いや、書かれていた。
白く、塗りつぶされていた。
仲立ちの名。
二百年前、誰かの名前を消すために、自分の名前を差し出した人の名前。
私は、その白をまっすぐに見た。
――その瞬間、胸の奥が、裂けた。
◇
白い場所の、中にいた。
私の胸の中の、縁の罅割れた白い場所。いつもは外から眺めているだけのその白の、ずっと奥に。
声が、聞こえた。
誰かが、私を呼んでいた。
遠くから。雪の向こうから。焦げた匂いの向こうから。何度も、何度も。
呼ばれているのは、私の名前だった。
わかった。それが私の名前だと、はっきりわかった。
でも、その名前のところだけが、白く塗りつぶされていた。
呼んでいる声は、ちゃんと聞こえるのに。その声が形作っている名前の、音だけが、すっぽりと抜け落ちて、白い穴になっていた。
――フィアット、じゃない。
その名前は、私が今、名乗っている名前じゃなかった。
もっと前の。ずっと前の。雪の夜の向こうの。
――だれ?
――わたしを、よんでるのは、だれ?
◇
鼻の奥が、熱かった。
血が、唇の上を伝っていた。目の端からも、何か温かいものが流れていた。涙ではなかった。視界の端が、赤く滲んでいた。
講堂に、戻ってきていた。
私は白い本の前に立ったまま、少しよろめいた。
「……フィアット!」
背中で、ハスト様の声がした。
床に膝をついたまま、それでも、私の名前を呼んでいた。……今の、私の名前を。
私は唇の血を手の甲で拭った。
――大丈夫。
私の白いところに何が書いてあるのかは、今は、いい。
今、読まなきゃいけないのは、こっちの白だ。
私は、もう一度原本の最後の行を見た。
白い場所の奥で、まだ誰かが、白い名前を呼び続けていた。その声を、背中で聞きながら。
白は、読まれないから、そこにいられる。
誰にも読めないから、二百年そこにあり続けた。
なら。
読めば、いい。
縦の、まっすぐな線。アイシャ先輩の拳がかすめたときに見えた、一画目。
横の線。セルカの氷のときに見えた、二画目。
三画目。四画目。
白の下から、硬い、角張った字が、一画ずつ浮かび上がってきた。墓石に刻むような字。
――アンセルム。
最後の一画が、見えた。
その下に、もう一行小さな字が添えられていた。
『聖都ジセリオン、第四十一代教皇』
私は、その名前を口に出した。
「――アンセルム」
講堂の空気が、震えた。
「二百年前の、教皇。……あなたが、あの人の名前を消した人ですね」
ベネディクトという人が、原本を抱えたまま、後ずさった。
「……アンセルム、一世……? な、なぜ、その名を……原本の名は、誰にも読めぬはず……わたくしでさえ……」
原本の最後の行が、白く光った。
塗りつぶされていた白が、ひび割れていった。ひびの間から、硬い字が覗いていた。もう、隠れていられなかった。
名前を読まれた約は、結んだ者の名に還る。
結んだ者は、二百年前に死んでいる。
還る先が、どこにもなかった。
◇
講堂中の白い糸が、一斉にたるんだ。
ハスト様の胸の鉤が、ずるりと抜けた。セルカの胸の糸が、ふっと緩んだ。アルブレヒトさんの胸の、あの古い、黄ばんだ糸が、根元からほどけていった。
それでも、私は目を閉じなかった。
原本の、さらに奥。
硬い字の何十万行の、その下に。アルフさんのやわらかい字で書かれた、世界の行の中に。
一行だけ、ずれている行があった。
二百年前、アルフさんが白墨で書き換えた一行の、すぐ隣。魔力の門は、理屈を知るすべての人の隣に開く。……その隣に、ほんの少しだけ、古い行が残っていた。書き換えきれなかった、ずれの端っこ。
血と名を担保に世界と約を結べる、という一行。
教会は、二百年、そのずれの端っこにしがみついて、約を結び続けてきたのだ。
――あなたが書き換えなかった、ずれた行が、まだここに残っています。
北の空に向かって、いつか、そう言った。
アルフさん。
私は、書き換えられない。あなたみたいに、白墨を持っていない。
でも、読める。
読んで、白を剥がして、そこに何が書いてあるのかを、世界に見せることはできる。
私は、その一行を、読んだ。
一画ずつ。最初から、最後まで。かすれも、継ぎ目も、全部。
読まれたずれは、もう、ずれていられなかった。
世界の行の中で、その一行だけが白い粉になって、静かに崩れていった。
「――全部、いらない」
自分の声が、聞こえた。
「名前を消す約束も。名前を縛る約束も。……全部、いらない」
◇
ベネディクトという人の腕の中で、原本が、燃えた。
炎ではなかった。白い表紙が、内側から真っ白に光って、頁という頁が、白い灰になって崩れ落ちていった。銀の留め金が、からんと床に落ちた。
ベネディクトという人の指輪の宝石に刻まれた聖印に、ひびが入った。
講堂の扉の前で、ヴァイスハイト侯爵の外套の銀糸の聖印が、一本ずつほどけて、ただの糸くずになって床に散った。
講堂中で、白い腕章が灰になって落ちた。
アイシャ先輩の左腕から。ラインハルト君の、レオン君の、クルト君の、二年の先輩の左腕から。
講堂の一番後ろの壁際で、アルブレヒトさんの胸から伸びていた古い糸が、最後のひとすじまでほどけて、消えた。
扉の前で、ヴァイスハイト侯爵がよろめいた。
灰色の目が、講堂の一番後ろの、床に膝をついた白い外套の少年を見ていた。
色が、戻っていた。
「……アルブレヒト」
侯爵の唇が、震えていた。
「アルブレヒト……? 私は、今……お前を……」
アルブレヒトさんは、床に膝をついたまま、父親を見上げていた。
その手の中で、パンの包みが、くしゃくしゃに握りしめられていた。
◇
そして。
講堂の一番後ろから、声が、した。
「――ハストさまっ!!」
セルカだった。
床に膝をついたまま、両手をついて、身を乗り出して。唇の端から血を流したまま、淡い水色の目からぼろぼろと涙をこぼしながら。
講堂中に響く声で、叫んでいた。
「ハストさま! ハストさま、ハストさま、ハストさまっ……!」
何度も、何度も。
四日ぶんの、呼べなかった名前を、全部。
私の背中で、ハスト様が立ち上がる気配がした。
それで、もう、いいと思った。
膝から、力が抜けた。
講堂の床が、近づいてきた。
床に倒れる前に、誰かの腕が私を受け止めた。
冷たくなかった。温かかった。
「――フィアット」
ハスト様の声が、すぐ上から聞こえた。
私は、まだ開いたままの目で、ハスト様を見上げた。
碧い色が見えた。澄んだ碧。その真ん中の、白い場所。
鉤は、もう刺さっていなかった。
ただ、白い場所の縁の罅が、さっきよりほんの少しだけ増えていた。私の胸の白と、同じ形に。
「……ハスト様」
声が、ほとんど出なかった。
「ちゃんと、呼んで、もらえましたね」
ハスト様は何か言おうとして、口を開けて、閉じた。
それから、私の目元にそっと手のひらを当てた。
大きな手だった。
銀色が、その手のひらの下で、ゆっくりと閉じていった。
「……もういい。閉じとけ」
「……はい」
暗くなった。
暗くなる直前、講堂の扉のほうで、どたばたと大きな音がした。
「――待て待て待て! 逃がすかよ、デブ枢機卿!!」
ラインハルト君の声だった。
「扉に、挟まっておる」
バルトロ様の、のんびりした声。
「……捕らえたまえ」
陛下の、静かな声。
それから、ハスト様の胸の中で、セルカがまだ、ハストさま、ハストさま、と泣きながら呼び続けている声。
その全部を聞きながら、私は眠った。




