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129 白い原本


講堂の席は、序列順に並べられていた。


一番前の列の、一番右がフィアット。その隣が、俺だった。


「……なんで、序列順なんだよ」

「トーナメント表の発表は、序列順に座るのが慣わしなんです」


フィアットが、目を閉じたまま、小声で答えた。膝の上で両手を揃えて、背筋をぴんと伸ばしている。一位の席に座るのは、秋の順位戦のあとの表彰式以来だと言っていた。


「去年までは、アイシャ先輩がここに座ってました」


その会長は、今、三十一番目の席にいた。前から二列目の端。左腕に、白い腕章を巻いたまま。


振り返ると、講堂の一番後ろの壁際に、三百番目と三百一番目の席が並んでいた。


三百番目に、白い外套。


三百一番目に、淡い水色の髪。


アルブレヒトとセルカが、並んで座っていた。


互いに、一言も口をきいていなかった。アルブレヒトは背筋を伸ばして前を向き、セルカは膝を抱えて床を見ていた。ふたりのあいだに、椅子ひとつぶんの気まずい空気が、目に見えるほど漂っていた。


……自分の口から主の名前を奪った男と、隣り合わせ。セルカの席を替えてくれと頼むべきだったか、と一瞬思った。けれど、セルカは、ときどき横目で、アルブレヒトの膝の上を見ていた。


アルブレヒトの膝の上には、小さな紙包みが載っていた。


今朝、分館の台所で、アベルに持たされた昼のパンだった。


◇


壇上には、エトワールが立っていた。


その後ろの一段高い席に、陛下がいた。王の礼装に身を包んで、穏やかな顔で講堂を見下ろしている。隣に、レイアーヌが座っていた。


二階の回廊には、来賓の席が並んでいた。教師たち。王宮の役人たち。それから、ガルシア先生が、なぜか焼き栗の袋を抱えて手すりにもたれていた。


屋根裏の梁の上に、盆栽を抱えた大きな影がひとつ。……バルトロの爺さんだ。来賓席には座らないらしい。梁が、爺さんの重さでかすかにたわんでいた。


「――さて」


エトワールが、拡声の魔道具を片手に、咳払いをした。


「三週間の戦争も、残すところ、あと一週間となった。これより、全校トーナメントの組み合わせを――」


講堂の扉が、開いた。


重たい樫の両開きの扉が、外からゆっくりと押し開かれて、冬の冷たい風が講堂の中に吹き込んだ。


最初に入ってきたのは、壮年の男だった。


背が高く、淡い金髪を後ろに撫でつけ、灰色の目をしていた。白い外套の胸に、銀糸の聖印。……アルブレヒトに、よく似ていた。二十年ぶん歳を取らせて、顔から表情をすべて削ぎ落としたら、こうなるのだろう。


ヴァイスハイト侯爵だった。


その後ろから、もうひとり。


扉の幅いっぱいに、巨体が入ってきた。


金糸の法衣だった。ただ、ところどころの刺繍がほつれて、裾は泥で汚れていた。もとは豪奢だったはずのものが、逃げ回るうちにくたびれ果てた、という風情だった。法衣の下の身体は、それでもまだ、はちきれんばかりに膨らんでいた。


丸い顔に、細い目。指という指に、宝石の指輪。


そして、その太い両腕に、一冊の本を抱えていた。


白い表紙。銀の留め金。


――原本。


「――招いた覚えは、ないがね」


壇上から、陛下の声がした。


穏やかな声だった。けれど、講堂の空気が、それだけで、ぴんと張りつめた。


「元財務卿、枢機卿ベネディクト。ジセリアの評議会は、君の行方を探しているよ。教会の金庫の中身と一緒にね」

「おや、陛下」


巨体の男は、汗ばんだ額を絹の布で拭いながら、にこにこと笑った。


「お久しゅうございます。……教会は崩れましたが、約は崩れませぬ。わたくしは、ただ、約の守り手として、愛し子の後見に参っただけのこと」


ベネディクトの細い目が、講堂の一番後ろの壁際に向けられた。


三百番目の席に。


アルブレヒトの肩が、びくりと跳ねた。


◇


「――この学園で、聖約が汚されたと聞きましてな」


ベネディクトは、講堂の真ん中の通路を、のしのしと歩いてきた。生徒たちが、思わず身体を引いた。


「盗品の技にて、正しき約の結び手が、雪の中に放り投げられたと。……なんとも、嘆かわしい」


ベネディクトは、一番前の列の前で立ち止まった。


細い目が、俺を見下ろした。


「あなたが、その盗人ですな。三百位殿。……いや、今は二位殿でしたか」

「……決闘の結果は、学園の規則によるものです」


エトワールが、壇上から言った。


眼鏡のレンズが、冷たく光っていた。


「異議があるなら、学園長の私に――」

「ならば、約の規則によりましょう」


ベネディクトは、エトワールの言葉を、柔らかく遮った。


太い指が、原本の銀の留め金を外した。


白い表紙が、開かれた。


その瞬間、講堂の空気が変わった。


寒くなったのではなかった。暗くなったのでもなかった。ただ、講堂の中にいる全員の胸の奥を、誰かの冷たい指が、そっと撫でたような感触がした。


ベネディクトは、法衣の懐から、金の筆を一本、取り出した。


開いた頁の上に、筆先を下ろした。


「――付則」


紋章には、触れていなかった。


ただ、原本の頁に、文字を書いた。


「約に名を差し出せし者は、皆、膝を折る」


講堂のあちこちで、どさっ、という音がした。


前から二列目の端で、会長が、椅子から滑り落ちるように膝をついた。少し後ろで、ラインハルトが、レオンが、クルトが。二年の列で、誰かがひとり。


それから、一番後ろの壁際で。


セルカが、椅子から崩れ落ちた。


その隣で、アルブレヒトも。


白い腕章を巻いた者たちが、一斉に、講堂の床に膝をついていた。


悲鳴が、上がった。


◇


「……ベネディクト様」


一番後ろの席から、かすれた声がした。


アルブレヒトが、膝をついたまま、顔を上げていた。膝の上に載っていたパンの包みが、床に転がっていた。


「なぜ……私まで」

「なぜ、とは、異なことを」


ベネディクトは、振り返りもせずに言った。


「あなたは、約を汚した。盗人に敗れ、約の結び手でありながら、盗人の従者となった。……ヴァイスハイトの器として、これ以上の恥がありましょうか」


ベネディクトの筆が、原本の上で、また動いた。


「付則。約を汚せし者は、その名を失う」


アルブレヒトの胸の、あの古い糸が、白く光った。


講堂の空気が、また少しだけ冷たくなった。


――何かが、抜けていく感じがした。


講堂の後ろのほうで、誰かが首を傾げた。


「……あれ? あの白い外套の人、誰だっけ」

「三百位の……ええと……」

「名前、なんて言ったっけ……」


ざわめきが、さざ波のように広がっていった。


俺は、自分の頭の中を探った。白い外套の男。雪溜まりに頭から突っ込ませた男。分館の台所で、パンを爆発させた男。……名前が。


アル――。


その先が、白くかすれていた。


思い出そうとすると、指の間から雪がこぼれるみたいに、するすると逃げていく。


講堂の扉の前で、ヴァイスハイト侯爵が立っていた。


その灰色の目が、自分の息子を、見下ろしていた。


何の色も浮かんでいなかった。


「……ベネディクト殿」


侯爵は、静かに言った。


「あの少年は、どなたかな。……当家の紋を着ているようだが」


アルブレヒトの顔から、すべての血の気が引いた。


「……父上」


声が、震えていた。


「父上、私です。アルブレヒトです。……父上」


侯爵は、眉ひとつ動かさなかった。


ただ、ほんのわずかに首を傾げて、知らない少年を見るように、自分の息子を見ていた。


――家系図の、白く抜けたところ。父が一度だけ泣いていた、白いところ。


分館の台所で、アルブレヒトは、そう言っていた。


アルブレヒトは、床に両手をついた。


膝の上から転がり落ちたパンの包みに、指先が触れた。


それを、握りしめた。


二百九十九番目の席から、麦わら色のふたつ結びが身を乗り出していた。


ミモザだった。


食堂で、盗品にすらなれないと言われた子だ。ミモザは、床に転がったパンの包みの端を、そっと持ち上げて、膝をついた白い外套の手の中に押し込んだ。


「……あ、あの。落としましたよ。……ええと」


ミモザは、言いかけて、困ったように眉を寄せた。


「……ごめんなさい。お名前、なんでしたっけ。さっきまで、覚えてたはずなのに……」


白い外套の肩が、小さく震えた。


怒っても、笑ってもいなかった。ただ、パンの包みと、それを押し込んでくれた荒れた小さな手を、長いこと見下ろしていた。


◇


俺は、立ち上がっていた。


いつ立ち上がったのか、わからなかった。


足元の床板に、白い霜が走っていた。


「――おや」


ベネディクトが、ようやく俺のほうを振り向いた。


にこにこと、笑っていた。


「主殿。お怒りですかな」

「……原本を、閉じろ」

「閉じませぬ」

「閉じろ」


俺の声が、講堂の天井にぶつかって、反響した。


霜が、ベネディクトの足元まで走った。泥で汚れた金糸の法衣の裾が、白く凍りついた。


ベネディクトは、それを見下ろして、それでも、笑みを崩さなかった。


「詠唱もなく、指一本動かさず。……なるほど、これは見事な盗品ですな。ですが、主殿」


太い指が、原本の頁を、とん、と叩いた。


「あなたもまた、約に名を差し出した者なのですよ」


――あ。


三日前の、中庭。


約を受ける者として、名を。……ハスト。


俺は、自分で名乗ったのだ。


ベネディクトの筆が、動いた。


「付則。汝の勝ちは、約に背く。ゆえに、汝もまた、約に仕えよ」


胸の真ん中に、何かが突き刺さった。


糸だった。


三日前に、俺の胸に吸い込まれていった、あの白い糸。その糸の先が、鉤のように曲がって、俺の胸の奥の、白い場所の縁に引っかかっていた。


引っかかって、引いた。


――雪が、見えた。


四年前の、雪の夜。紋章をつけた兵たちの顔。吹雪の向こうの、銀の光ひとつ。焦げた匂い。誰かの、小さな、冷たい手。


俺が、叫んでいた名前。


白い穴が、雪の中に開いていった。ひとつ。ふたつ。


糸が、その白い穴に、指を突っ込んで、こじ開けようとしていた。


膝が、床についた。


力で押さえつけられたのではなかった。そこに触れられたら、立っていられないところを、まっすぐに抉られていた。


「――ハスト!」


壇上から、陛下の声がした。


陛下が、王の席から立ち上がっていた。その指先に、光の蝶が一匹、生まれかけていた。


「陛下」


ベネディクトが、原本を胸に抱えたまま、振り返った。


「陛下が、約に手を出されるのは、およしになったほうがよろしい。……この原本には、ここにいる子らの名が、すべて書き込まれておりますでな。わたくしの筆が乱れれば、子らの名は、ことごとく白に還りましょう」


光の蝶が、陛下の指先で、止まった。


陛下の顔から、穏やかな色が、すうっと消えていった。


それでも、陛下は、動けなかった。


エトワールも。梁の上のバルトロの爺さんも。


講堂の誰も、動けなかった。


◇


俺は、床に膝をついたまま、息をしていた。


胸の奥の白い穴を、糸がこじ開けようとしている。そこから、何かが溢れそうだった。蓋の中にしまってきた、全部が。


覇権を使えば、この糸ごと、講堂ごと、全部吹き飛ばせる。


でも、そうしたら。


原本に書かれた名前が。ラインハルトの、レオンの、会長の、クルトの、セルカの名前が。


一番後ろの壁際で、セルカが、膝をついたまま、こちらを見ていた。


唇が、動いていた。


何度も、何度も。


――ハ、


声にならなかった。


呼べない名前を、呼ぼうとして。唇の端が、また切れて、赤い雫が顎を伝っていた。それでも、セルカは、唇を動かすのをやめなかった。


声にならない名前が、講堂の床の上に、ぽたぽたと落ちていった。


そのときだった。


俺の隣の、一位の席で、椅子が鳴った。


フィアットが、立ち上がっていた。


膝の上で揃えていた両手が、体の脇で、強く握りしめられていた。


「……フィアット」


止めようとした。


声が、出なかった。


フィアットは、ベネディクトのほうを向いていた。


目は、閉じていた。


けれど、その瞼の隙間から、銀色の光が、もう漏れていた。止めようとしても止まらない水のように、あふれ出していた。


「……あなたは」


フィアットの声は、静かだった。


静かで、硬くて、熱かった。


「名前を、なんだと思ってるんですか」


ベネディクトが、細い目をさらに細めた。


「おや。目を閉じた一位殿。……名など、約の帳簿の、一行にすぎませぬよ」


フィアットの肩が、震えた。


それから、震えが、ぴたりと止まった。


フィアットは、ゆっくりと、瞼を持ち上げた。


講堂の天窓から差し込む冬の光が、一瞬、色を失った。


銀色だった。


全校生徒の前で。陛下の前で。学園中の目が、そこに集まっている場所で。


フィアットは、両の目を、まっすぐに開けていた。


「――うるさい」


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