128 従者アルブレヒト
ハブられ分館の台所に、白い外套がいた。
正確に言うと、白い外套を脱いで、ハスト様の古い前掛けをつけた、アルブレヒトさんがいた。前掛けの胸には、ハスト様が子供の頃に縫ったという、少し歪んだ小鬼の刺繍がついていた。
「――ちがう。こねるのは、てのひらの、ここ」
アベルが、長卓の上に背伸びをして、アルブレヒトさんの手首をつかんでいた。
「ゆびで、つかんじゃ、だめ。……パンが、いたいって」
「パンが……痛い」
「うん。いたいって、いってる」
アルブレヒトさんは、白い粉まみれの手を生地の上で止めた。
侯爵家の嫡男の手は細くて白くて、指が長かった。剣だこもペンだこもない、きれいな手だった。その手が、生地の上で、どうしていいかわからないというように固まっていた。
「……このように、ですか」
「もっと、やさしく」
「このように」
「もっと」
「……このように」
「うん。じょうず」
アベルが、にこっと笑った。
アルブレヒトさんの耳が、ほんの少しだけ赤くなった。
竈の前で、ハスト様が背中を向けたまま、肩を小さく震わせていた。長卓の反対側では、アルスさんが頬杖をついて、面白くてたまらないという顔でにやにやしていた。
「……おい、坊ちゃん。そのパン、窯に入れたら爆発するぞ」
「爆発、ですか」
「水が多すぎんだよ。あと、塩を砂糖と間違えてる」
アルブレヒトさんは、自分の手元の壺を見下ろした。
それから、隣の壺を見下ろした。
長いこと、黙っていた。
「……白くて、同じに見えました」
「そりゃ、そうだろうよ」
アルスさんが、声を上げて笑った。
セルカは、長卓の端で、膝を抱えて座っていた。氷の小鳥は作っていなかった。ただ、淡い水色の目で、粉まみれの白い外套の人を、じっと見ていた。
怒っている色ではなかった。
不思議そうな色だった。……自分の口から、ハスト様の名前を奪った人が、アベルに手首をつかまれて、パンが痛いと教えられている。それが、どうしても腑に落ちないという色。
私も、たぶん、同じ色をしていた。
◇
アルブレヒトさんの最初のパンは、窯の中で、本当に爆発した。
正確に言うと、膨らみすぎて、窯の天井にくっついて、焦げた。
ハスト様が、黙って二度目の生地をこね始めた。アルブレヒトさんは、その手元を、食い入るように見ていた。
焦げたパンの匂いが、台所に広がっていた。
そのときだった。
アベルが、アルブレヒトさんの前掛けの裾を、くいっと引っぱった。
「……このひとの、なかにも、ある」
アルブレヒトさんが、アベルを見下ろした。
アベルは、硝子玉みたいな目で、アルブレヒトさんの胸の真ん中を、じっと見つめていた。
「しろい、いと。……ずっと、むこうまで、のびてる」
台所が、しんとした。
アベルの胸の中には、神様の欠片が埋まっている。だから、アベルには、ほかの人に見えないものが見える。ハスト様の隠形も、陛下の幻術も。……そして、たぶん、約の糸も。
私は、瞼をほんの少しだけ持ち上げた。
銀色が漏れない、ぎりぎりのところまで。
アルブレヒトさんの色が見えた。
淡い、冷たい灰色。雪の降る前の空みたいな色。その胸の真ん中から、白い糸が一本、伸びていた。
ハスト様につながっている糸ではなかった。
それとは別の、もっと太くて、もっと古い糸だった。何重にも撚り合わされて、ところどころが黄ばんで、まるで、何年も、何十年も、そこにあり続けたみたいな糸。
その糸は、台所の窓を抜けて、雪の夜の向こうへ、まっすぐに伸びていた。
王都の、貴族街のほうへ。
「……アルブレヒトさん」
私は、瞼を下ろした。
「あなたの胸の糸。……ハスト様のと、もう一本、あります」
アルブレヒトさんの手が、粉の上で止まった。
◇
「本当のことを、話せ」
ハスト様が、竈の前から振り向いた。
「命令だ」
アルブレヒトさんの肩が、びくりと震えた。
約が、アルブレヒトさんの口を開かせようとしているのが、私にも見えた。けれど、アルブレヒトさんは、それに抗わなかった。抗う前に、自分から、ゆっくりと口を開いた。
「……七つのときです」
長卓の上の、焦げたパンを見つめていた。
「ヴァイスハイトの屋敷の礼拝堂で、洗礼を受けました。ジセリアから来た、大きな司教様に。……金糸の法衣が、はちきれそうな方でした」
「ベネディクトか」
「当時は、まだ司教でした。……その方が、私の額に聖印を押して、言ったのです。ヴァイスハイトの血は、約の器である。汝は、その器として生まれた、と」
アルブレヒトさんの指が、長卓の木目をなぞっていた。
「それから、毎年、あの方が屋敷に来るたびに、約の作法を教わりました。条文の読み上げ方。紋章の浮かべ方。付則の書き方。……ジセリアの教会学院に入ったのも、あの方のお導きです」
「聖約は、お前の家の魔法じゃないのか」
「家の魔法です。……そう、教わってきました」
アルブレヒトさんは、目を伏せた。
「教会が崩れたあの冬、あの方が、屋敷に逃げてこられました。教会の金庫から、金貨の袋と、一冊の本を抱えて。……白い表紙に、銀の留め金のついた、古い本です。あの方は、それを原本と呼んでいました」
「原本」
アルスさんが、頬杖をやめて、身を乗り出した。
「私が浮かべる紋章は、その原本の写しだそうです。写しは、本文と付則を書ける。ですが、原本には、それ以上のことが書ける。……あの方は、原本に筆を入れるだけで、王都のどこにいても、すべての写しに付則を書き足せるのです」
「指で、触れなくても、か」
「はい」
ハスト様の顔が、わずかに強張った。
「……仲立ちの名が書いてあるのは、どっちだ」
アルスさんが、低く訊いた。
「原本です。……私は、一度も、見せていただいたことがありません。あの頁だけは、あの方の目にしか触れさせない、と」
アルブレヒトさんは、自分の胸の真ん中に、そっと手を当てた。
「この糸のことは、知りませんでした」
声が、かすれていた。
「私は、約の結び手だと思っていました。正しい血の、正しい器だと。……ですが、あなたの眼に、そう見えるのなら」
灰色の目が、私を見た。
「私は、生まれたときから、ずっと、約の従者だったのですね」
◇
台所の竈の火が、ぱちりとはぜた。
誰も、何も言わなかった。
アベルが、アルブレヒトさんの前掛けの裾を、また、きゅっと握った。
アルブレヒトさんは、その小さな手を見下ろして、それから、ぽつりと言った。
「……叔父がいました」
「叔父?」
「いた、はずなのです」
アルブレヒトさんは、自分の言葉に、自分で戸惑っているような顔をした。
「屋敷の家系図に、父の名の隣に、一か所だけ、白く抜けているところがあります。そこに誰がいたのか、父も母も、使用人の誰も覚えていない。……ただ、私が五つのとき、その白いところの前で、父が一度だけ泣いていたのを、覚えています」
「……」
「後で、あの方に訊きました。あの白は何ですか、と。あの方は、笑って答えました。約を汚せし者は、その名を失う。……それが、ヴァイスハイトの血の、いちばん古い付則だ、と」
アルブレヒトさんの指先が、震えていた。
「私は、昨日、約を汚しました」
それきり、アルブレヒトさんは何も言わなかった。
アルスさんが、長い息を吐いた。
「……名を消す付則、か。全知の書にも載ってる。血統魔法の一番古い書式だ」
アルスさんは、こめかみを指で叩いた。
「普通の結び手には、書けねぇ。名を消すってことは、世界の帳簿から一行抜くってことだ。抜いた分の釣り合いを取れるのは、自分の名をもう差し出して、白くなってる奴だけだ。……つまり、その原本の白い名が、書かせてる」
「原本を燃やせば」
ハスト様が、低く言った。
「燃やしたら、写しに名を差し出した連中の名前ごと、白い中に持っていかれるかもしれねぇ。……下手に壊せねぇんだよ、ああいうのは。読んで、ほどくしかねぇ」
アルスさんの目が、私のほうを向いた。
言わなくても、わかった。
明後日、講堂に、あの方が来る。原本を抱えて。
◇
ハスト様が、二度目のパンを窯から出した。
今度は、膨らみすぎていなかった。きれいな焼き色の、丸いパンだった。
ハスト様は、それを半分に割って、片方をアルブレヒトさんの前に置いた。
「……食え」
アルブレヒトさんは、パンを見下ろした。
「主に、パンを割っていただく従者など」
「うるせぇ。食え」
アルブレヒトさんは、両手でパンを持った。
それから、ゆっくりとかじった。
噛んで、飲み込んで、しばらく黙っていた。
「……温かい」
小さな声だった。
「屋敷では、パンは、いつも冷めてから出てきました。毒見が済むまで、待たなければならなかったので」
アベルが、アルブレヒトさんの隣に椅子を引っぱってきて、ちょこんと座った。
「おいしい?」
「……はい」
「つぎは、ばくはつ、させないでね」
「……努力します」
アルスさんが、また噴き出した。
セルカは、まだ膝を抱えていた。
それから、長卓の上の紙束から、一枚を抜き取った。ハスト様が買い物の覚え書きに使っている、端の切れた藁半紙。
セルカは、インク壺にペンを浸して、何かを書いた。
小さな、少し震えた字で。
書き終えると、セルカは、その紙を、竈の前のハスト様のほうへ、すっと滑らせた。
ハスト様は、紙を拾い上げた。
紙には、四つの文字が書いてあった。
『ハストさま』
付則は、呼ぶことを禁じた。書くことは、禁じていなかった。
ハスト様は、紙を見下ろしたまま、動かなかった。
長いこと、動かなかった。
それから、紙を丁寧に四つにたたんで、胸のポケットにしまった。
「……ああ」
それだけ言った。
セルカは、少しだけ目を細めた。
アルブレヒトさんが、その紙を、じっと見ていた。
パンを持つ手が、止まっていた。
「……私の、書いた付則です」
アルブレヒトさんは、震える指で、宙に紋章を浮かべた。写しの紋章。その縁の、セルカの付則の行に、指先を伸ばした。
消そうとしていた。
指先が、行に触れた瞬間、白い光が弾けた。
指が、弾かれた。
署名の白い一行が、アルブレヒトさんの指を、はね返していた。
「……消せない」
アルブレヒトさんは、弾かれた指先を、もう片方の手で握りしめた。
「自分で、書いたのに。……消せない」
◇
その夜、私は、分館の縁側に座っていた。
雪が、止んでいた。台所の灯りはもう消えていて、物置のほうから、アルブレヒトさんの寝返りの音が一度だけ聞こえた。
空には、薄い雲の向こうに、ぼんやりと月が浮かんでいた。吐く息が白かった。
私は、瞼を開けた。
今度は、ほんの少しではなかった。誰も見ていない夜だから。銀色が、月の光の中に、静かに溶け出していった。
王都が見えた。
雪に埋もれた屋根の連なり。その上に、色が見えた。人の色。家の色。灯りの色。
そして、白い糸。
一本ではなかった。
学園のほうから、何本も。ラインハルト君の糸。レオン君の糸。アイシャ先輩の糸。クルト君の糸。二年の先輩の糸。それから、この分館の中から、セルカの糸と、アルブレヒトさんの古い糸。
全部が、夜空の上で、一点に向かって伸びていた。
王都の北の、貴族街の、大きな屋敷のほうへ。
その屋敷の真ん中に、白い点がひとつ、灯っていた。
――白かった。
雪の白でも、月の白でもなかった。紙の白さの上に、さらに白いものを塗り重ねた、あの白。アルフさんの名前を消した白。三冊目の最後の頁の白。全知の書の、削り取られた白。
その白い点が、たくさんの糸の端を、手のひらに握りしめるみたいに束ねていた。
胸の奥が、熱くなった。
痛みではなかった。
私の胸の、縁の罅割れた白い場所が、熱を持っていた。あの白い点を見ていると、罅の一本一本が、内側から焼けるように熱かった。
――名前を、消す。
叔父さんの名前を。アルフさんの名前を。セルカの口から、ハスト様の名前を。
自分の名前ごと差し出して、白く塗りつぶして、それを、二百年。
指先が、冷たいのに、胸だけが熱かった。
私は、こういう気持ちに、名前をつけたことがなかった。
悲しいのとも、怖いのとも、違った。
もっと、ずっと、静かで、硬くて、熱いもの。
「……許さない」
自分の口から出た言葉に、自分で驚いた。
私は、瞼を下ろした。
銀色が、夜の中に消えた。
縁側の床板に、ぽたりと、何かが落ちた。
鼻血だった。
手の甲で拭いながら、私は、明後日のことを考えていた。
講堂。原本。白い点。
ハスト様は、きっとまた、自分ひとりで何とかしようとする。
――今度は、させない。




