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142 春を、見る


春休みの最初の朝、王都の南の門は、旅立つ人でいっぱいだった。


荷馬車。行商人。里帰りする学生たち。門の前の広場には、まだ少しだけ雪の名残が残っていて、それを踏む靴の音が、しゃりしゃりと鳴っていた。


「――じゃあ、行ってきます!」


ミモザが、大きな背負い袋を背負って、門の前で両手をぶんぶんと振っていた。


背負い袋は、ミモザの身体よりも大きかった。中には、学園の教科書と、着替えと、ハストさまが持たせたパンが三つと、アルブレヒトが持たせたパンがふたつ入っている。……アルブレヒトのパンは、まだ少しだけしょっぱいらしい。


「港町まで、馬車で三日です! 父ちゃんの燻製小屋、ぜったい、あったかくしてきます!」


ミモザは、右の手のひらを、胸の前で上に向けた。


いち、に、さん。


小さな橙色の火が、ぽっと灯った。


ろうそくの炎くらいの、小さな火。でも、消えなかった。春の手前の冷たい風に吹かれても、ゆらゆらと揺れながら、ずっと灯っていた。


「……つよい火」


わたしが言うと、ミモザはえへへと笑った。


「セルカちゃんの冷たい風にも、消えなかったもんね!」

「……あれは、てかげん、した」

「えっ」

「……うそ。してない」


ミモザは目を丸くして、それからわたしにぎゅっと抱きついた。


魚の脂の軟膏のにおいがした。それから、焚き火のにおい。……前は、しなかったにおいだった。火が出るようになってから、ミモザは、ほんの少しだけ、焚き火のにおいがするようになった。


「夏休みには、帰ってきます! 干物、いっぱい持ってきます! 鯵と、鰈と!」

「……たら、は?」

「鱈は冬です!」


ミモザは、わたしから離れて、隣に立っていたアルブレヒトの前に立った。


アルブレヒトは、背筋を伸ばして、黒い制服を着ていた。腕に、ミモザの背負い袋の予備の紐を何本も抱えていた。……荷造りを、朝からずっと手伝っていたのだ。


「アルブレヒトさん!」

「はい」

「最下位同盟、留守番、お願いします! わたしがいないあいだ、転び方の練習、さぼらないでくださいね!」

「……私は、すでに完璧に転べますが」

「詠唱のほうです! 第一節とか、以上とか、もう言わないでくださいね!」


アルブレヒトは、少しだけ黙った。


それから、ほんの少しだけ、口元を緩めた。


「……努力します」


ミモザは、満足そうに頷いて、ハストさまの前に立った。


それから、深く、頭を下げた。


「ハストさん。……ありがとうございました」

「……何もしてねぇよ」

「してくれました。魚の開き方」


ミモザは、顔を上げて、笑った。


「最下位同盟の、最初のひとりで、よかったです」


それから、くるりと背を向けて、荷馬車の荷台によじ登った。


荷馬車が、動き出した。


ミモザは、荷台の上で、手のひらの火を高く掲げて、ずっと手を振っていた。


橙色の小さな火が、南の街道を、だんだん遠ざかっていった。


見えなくなるまで、消えなかった。


ハストさまは、門の前で、荷馬車が見えなくなっても、しばらく街道の先を見ていた。半分だけ生えそろった眉毛の下で、碧い目が、ほんの少しだけ細くなっていた。


◇


門からの帰り道、アルブレヒトが、ハストさまの隣を歩きながら、ぽつりと言った。


「……叔父の名前が、戻りました」


ハストさまが、足を止めた。


「講堂の夜から、少しずつ。……最初は、父が、夢の中で呼んだそうです。朝起きたら、家系図の白いところに、字が浮かんでいたと」


アルブレヒトは、自分の手のひらを見下ろした。


「ヴィルヘルム。……父の、弟の名です。若い頃に、教会の約に背いて、家を出ようとしたそうです。そのまま、名前ごと消された」


アルブレヒトの声は、静かだった。


「父は、家系図の前で、一晩中泣いていました。……私も、少しだけ」


フィアットが、目を閉じたまま、アルブレヒトのほうに顔を向けた。


アルブレヒトは、フィアットに向かって、深く頭を下げた。


「……ありがとうございました、フィアット嬢。あなたが読み砕いた約の中に、叔父の名前も、閉じ込められていたのですね」


フィアットは、何も言わなかった。


ただ、閉じた瞼の下で、少しだけ泣きそうな色をしていた。


わたしには、においでわかった。


フィアットは、嬉しいのと同じくらい、何かを我慢していた。……アルブレヒトの叔父さんの名前は、戻った。でも、戻らない名前がある。全知の書の、最後の白。サリナさまが、二百年呼べずにいる名前。


フィアットだけが知っている、あの人の名前は、まだ戻っていない。


南の門から分館へ続く坂道の途中で、わたしは、アルブレヒトの袖を、ちょんとつまんだ。


アルブレヒトが、驚いたように足を止めて、わたしを見下ろした。


「……セルカ嬢?」

「……おじさんの、なまえ。もどって、よかった」


アルブレヒトの灰色の目が、少しだけ揺れた。


「なまえ、よばれないの、つらい。……わたし、しってる」


わたしは、アルブレヒトの袖をつまんだまま、言った。


「だから、ゆるす。……ぜんぶ」


アルブレヒトは、長いこと、何も言わなかった。


それから、坂道の途中で、深く、深く頭を下げた。


顔を上げたとき、アルブレヒトは、笑っていた。分館の台所で、パンを爆発させた日の夜に見た顔と、同じ顔だった。……ちょっとだけ、目が赤かったけれど。


◇


その日の午後、ハブられ分館に、サリナさまが来た。


縁側に、ちょこんと腰かけていた。足が床に届かないので、ぶらぶらと揺れていた。


庭の真ん中の柱のそばで、梅の木が、つぼみをいくつか膨らませていた。


ハストさまは、台所でパンを焼いていた。アベルが、その隣で、生地の見張り番をしていた。


わたしとフィアットは、サリナさまの隣に座っていた。


縁側の板は、昼間の日差しで、ほんのり温まっていた。冬のあいだは、裸足で歩くと飛び上がるほど冷たかった板だ。庭の雪は、もう、柱の根元に少し残っているだけだった。


「……のう、フィアット」


サリナさまが、梅のつぼみを見たまま言った。


「はい」

「わしはな、二百年、怒っておった」


サリナさまの声は、穏やかだった。


「あの人を裁いた者たちに。あの人の名を消した者たちに。……あの人を守れなかった、わし自身に」


風が、梅の枝をかすかに揺らした。


「講堂の夜、お主が、あの白い本を灰にしたじゃろう。……あの夜から、少しだけ、胸が軽いのじゃ。二百年ぶりに。怒りが、ほんの少しだけ、どこかへ行ってしまった」


サリナさまは、自分の小さな手のひらを、じっと見下ろした。


「妙なものじゃな。怒っておるあいだは、あの人のそばにおる気がしておった。怒りが軽くなったら、あの人が、遠くへ行ってしまう気がする」


フィアットの肩が、ぴくりと震えた。


においが、変わった。


雪の朝みたいな、硬いにおい。それから、すぐに、焼きたてのパンみたいな、やわらかいにおいに。


――何かを、決めたにおいだった。


「……サリナ様」


フィアットが、言った。


「預かっている言葉が、あります」


サリナさまの足が、ぶらぶらするのを、やめた。


「北の離宮で。……白い教室で。その人から、預かりました」


サリナさまは、ゆっくりと、フィアットのほうを向いた。


紅い目が、大きく見開かれていた。


「いつか、サリナ様が、自分の怒りを手放せる日が来たら、伝えてほしいって」


フィアットは、閉じた瞼のまま、まっすぐにサリナさまを見ていた。


「その人の名前は、言っても、サリナ様には白い音にしか聞こえないと思います。……でも、言葉は、届くと思うから」


フィアットは、息を吸った。


「――最後まで、叫んで、怒ってくれて、ありがとう」


縁側が、静かになった。


梅の枝を揺らしていた風が、止まっていた。


台所から聞こえていた、パンをこねる音も、止まっていた。


「最後に、ごめんねって、言ってしまったから。……本当は、ありがとうって、言いたかったって」


サリナさまは、動かなかった。


紅い目が、フィアットを見たまま、ひとつも瞬きをしなかった。


それから、その目から、ぽろりとひと粒、涙が落ちた。


ふた粒。


三粒。


サリナさまは、小さな両手で、自分の顔を覆った。


「……あの人は」


声が、震えていた。


二百年以上生きている人の声じゃなかった。わたしと同じくらいの、小さな女の子の声だった。


「あの人は、そういう人じゃった。……いつも、最後に、自分が謝るのじゃ。何も悪くないのに。……わしが、どれだけ怒っても、最後は、困ったように笑って、ごめんね、と」


サリナさまの肩が、小さく震えていた。


「……ありがとう、か」


サリナさまは、顔を覆ったまま、笑った。


泣きながら、笑っていた。


「名も、顔も、白いのに。……その言い方だけは、覚えておる。あの人の、言い方じゃ」


フィアットが、サリナさまの小さな背中に、そっと手を置いた。


わたしも反対側から手を置いた。


サリナさまの背中は、ちょっとだけ冷たくて、ちょっとだけ震えていた。


それから少しずつ、温かくなっていった。


台所の入口で、ハストさまが粉まみれの手のまま立っていた。


何も言わなかった。


ただ、しばらくそこに立っていて、それから、黙って台所に戻っていった。


パンをこねる音が、また聞こえ始めた。


いつもより、少しだけ、ゆっくりした音だった。


◇


夕方、焼き上がったパンを、縁側でみんなで食べた。


サリナさまは、目元を赤くしたまま、パンを両手で持って、小さな口でかじっていた。


「……焦げておる」

「うるせぇ」


アルスさまが、いつの間にか縁側の端に座って、パンをちぎっていた。


「じゃが、うまい」


サリナさまは、左の頬にえくぼを作った。


アベルが、柱の前から、とことこと戻ってきた。炭を握っていた。


「……ハストおにいちゃん。セルカおねえちゃんの、きろく」

「まだ数えてたのか」

「うん。きょうで、せんかい」


アベルは、柱の傷の横の、ずらりと並んだ数字の一番下に、大きく『1000』と書いた。


講堂の日から、わたしが、ハストさまを呼んだ回数。


……そんなに、呼んだかな。


呼んだかもしれない。呼べなかった四日間の分を、取り戻したくて。それから、呼べるのが、嬉しくて。


わたしは、ハストさまの袖をつまんだ。


「……ハストさま」

「なんだ」

「せんいっかいめ」


ハストさまは、しばらく黙っていた。


それから、ふっと笑った。


「……ああ」


◇


夜になって、わたしは縁側で梅の木を見ていた。


つぼみが、ひとつだけ開いていた。


白い花だった。


小さくて薄くて、夜の中でもぼんやりと光って見えた。


わたしは、北の冷たいところで育った。


春を、見たことがなかった。見ていたのかもしれないけれど、覚えていない。わたしの手は、いつも冷たかった。冷たい手で触れたものは、みんな凍った。だから、花には、触らないようにしていた。


わたしは、梅の花にそっと指を伸ばした。


触れた。


花は、凍らなかった。


わたしの指先は、温かかった。


北から帰ってきてから、ずっと、温かいままだった。


あの湖の上で、時を止めて、跳んで、フィアットの手を握った夜から。サリナさまの修行部屋で、指だけ十日分歳を取って、泣きそうになった夜から。……少しずつ、少しずつ、わたしの手は、温かくなっていった。


ハストさまの手みたいに。


「……セルカ」


後ろから、声がした。


ハストさまだった。その隣に、フィアットがいた。


ふたりとも、縁側に出てきて、わたしの両側に座った。


ハストさまは、梅の花を見上げた。フィアットは、目を閉じたまま、梅の花のほうを向いた。


「……咲いたな」

「……うん」

「春だ」

「……うん」


わたしは、ハストさまとフィアットのあいだで膝を抱えた。


右から、ハストさまのにおいがした。


左から、フィアットのにおいがした。


ふたりの胸の白いところのにおいは、やっぱり同じだった。


いつか、その白いところに、名前が戻る日が来る。


ハストさまが、自分の声で、呼ぶ日が来る。


その日、何が起きるのか、わたしにはわからない。わからないけれど、わたしの鼻は正しいって、サリナさまは言った。正しいことを知ってしまった者は、言うときを選ばなきゃいけない、って。


だから、今は、言わない。


今はただ、ふたりのあいだに座っていたい。


右手で、ハストさまの袖をつまんだ。


左手で、フィアットの袖をつまんだ。


「……ハストさま。フィアット」

「なんだ」

「なに? セルカ」


わたしは、白い梅の花を見上げた。


春だった。


わたしが、生まれて初めて、自分の温かい手で触れた、春だった。


「……はるって、きれい」


ふたりは、何も言わなかった。


ただ、わたしの両側で同じ花を見ていた。


それで、十分だった。


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