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モーニングルーティーン  作者: 鍵しっぽハンター
第一章「開店前」 〔早春〕

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第八話「何杯でもおかわりしていいですか」



九時を過ぎると、店が少し静かになる。


朝の混雑が引いて、仕事へ向かう客たちが出ていった後の時間。空席が増えて、コーヒーの匂いだけが残る。幸子はこの時間が嫌いじゃなかった。波が引いた後の、水が澄んでいくような静けさ。


今日もそういう時間が来た。バートはもう帰っていた。カウンターに二人、テーブルに一組。静かな朝だった。


九時十五分、引き戸が開いた。入ってきた男を見て、幸子は少し目を止めた。四十代か、五十代か。年齢がわかりにくい顔だった。時間の中で止まったような、そういう顔をしていた。スーツでも作業着でもない、くたびれたジャケットを着ていた。


不死族だと幸子は思った。疲れた目をしていた。疲れているのに終わらない、という種類の疲れだった。


男は店の中を見渡した。カウンターの真ん中あたりに座った。「コーヒーを。モーニングは、いいです」「どうぞ」と幸子は言った。コーヒーを淹れた。男が片手でカップを持った。一口飲んだ。何も言わなかった。窓の外を眺めていた。焦点が合っていないような目だった。


十分ほど経って、「おかわり、もらえますか」と言った。「どうぞ」と幸子は言って、注いだ。


「何時まで、いていいですか」と男は聞いた。「夜の七時まで開けとるよ」「七時まで。ここにいていいんですか、七時まで」「席が空いとる間はね」と幸子は言った。「そうですか」と男が言った。ほっとしたような声だった。


三杯目のおかわりを頼んだのは、十時を過ぎた頃だった。「モーニング、食べる?」と幸子は聞いた。「いいんですか。もうモーニングの時間じゃないですよね」「一日モーニング、って書いてあるでしょ。夜七時まで出すよ」


男がメニュー表を見た。「……じゃあ、お願いします」と言った。


モーニングを男の前に置いた。男はしばらく皿を見ていた。それからゆで卵を手に取った。剥き始めた。ゆっくり、丁寧に剥いた。白い実が出てきた。それを見て、少しだけ息をついた。


「あの」と男は言った。「ここ、いつからあるんですか」「五十三年だわ」と幸子は言った。「ずっと、同じメニューですか」「そうだわ。変えとらんから」「変えない理由が、あるんですか」「変える理由がないだけかもしれんね。でも、変えたくない理由もあるかもしれん。どっちかは、よくわからんわ」


男が「変えたくないものが、あるのはわかります」と言った。独り言のような言い方だった。


小倉トーストを一口食べた。「甘い」と男は言った。驚いた声だった。「名古屋のモーニングだから」と幸子は言った。カウンターを拭きながら、疲れた目がトーストを見ているときだけ少し緩んでいた。


しばらくして、男が口を開いた。「会社に、評価シートがあって。毎期、提出させられるんですけど。そこに生産性の欄があって。自分の生産性を、数字で書かされる。貢献度を数値化して、コスト対効果を出して、自分がこの会社にどれだけの価値があるかを、自分で計算して書く」


「私の場合、長く生きるので、長期的なコストが高くなる。それを上回る貢献をし続けないといけない。そういう計算になる」


「そうだわなあ。それは、しんどいわね」「しんどいです。ずっとしんどい。終わらないから」「終わらんのは、しんどいわ」「終わりたいとか、そういうことじゃなくて。ただ、区切りがほしいんです。いつか終わる日が来るかもしれないという可能性が、ほしい」


「生産性ゼロ、って書かれたことがあります」と男は言った。幸子は手を止めた。「評価シートに。直属の上司が、私の欄に『長期的生産性:要検討』と書いて、その下に小さく『現状ではコストが貢献を上回る可能性あり』と書いた。コピーミスで、私のところに届いたので」


「見てしまった、か」と幸子は言った。「どう思ったの?」「怒るより先に、そうか、と思いました。そういう計算をされているのか、と。怒りは、その後でした」


「そうだわなあ。そういう計算をされとるって、辛いわね」「辛いです。でも、間違っているとも言えなくて。実際、コストはかかる。それは事実で」


「コストがかかっても、ここにいていいと思う人と、そう思わない人がいる。あんたの上司は、後者だっただけだわ」「でも、その計算が、正しい計算なのかもしれないとも思って」


「生きとるだけじゃいかんの、って思っとるの?」と幸子は聞いた。


男が黙った。コーヒーを見た。四杯目のコーヒーが、まだ半分残っていた。「……時々、そう思います」と言った。


「生きとるだけでええ、って言える人が増えるといいけどね。まあ、そう言う人に限って、自分は生きとるだけじゃ満足できんことも多いけどね」


男が少し笑った。苦い笑い方だった。「そうかもしれないです。私自身も、生きているだけでいいとは、なかなか思えない」「それが一番難しいところかもしれんね」


「あんた、何かしたいことある?できるかどうかは別にして」


男は長い間、答えなかった。サラダを食べた。小鉢を食べた。コーヒーを一口飲んだ。窓の外を見た。「眠りたいです」と言った。「眠れんの?」「眠れます。でも、目が覚める。必ず目が覚める。それが、ずっと続く」


「眠って、目が覚めなかったら、って思ったことはある?」と幸子は聞いた。静かに、でもはっきりと聞いた。


男が少し止まった。「あります。でも、目が覚めてしまう。それが、私の種族だから」


幸子はしばらく何も言わなかった。カウンターを拭いた。ゆっくりと、丁寧に拭いた。


「それを誰かに話したのは、今日が初めて?」「そうです。なんで話したのかは、わからないですけど」


「話せたんだわ。それだけでいいわ、今日は」


「また来てちょ。七時まで開けとるから。何杯でもおかわりできるから」「また来ていいんですか」「何のために開けとると思っとるの」


十一時を過ぎた頃、男が立った。白和えだけが少し残っていた。コーヒーは四杯、飲み干した。財布を出した。「コーヒー四杯分、いくらですか」「モーニングの値段だけでええよ。おかわりは込みだわ」「最初に言わんかったけどね。最初に言うと、遠慮する人もおるから」


男が少し笑った。さっきより少し、軽い笑い方だった。引き戸に向かった。そこで止まった。振り返らずに言った。「また来ます」「待っとるよ」と幸子は言った。


声に出さずに思った。


——眠って、目が覚めなかったら、って思ったことがある、って言えた人だった。


——幸雄さん、あんたはそういうことを思ったことがあったかな。言いにくいことは、知らん人の方が言いやすいこともあるから。


午前中の光が、窓から静かに入ってきた。


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