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モーニングルーティーン  作者: 鍵しっぽハンター
第一章「開店前」 〔早春〕

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第六話「右手とコーヒーカップ」



豆を挽きながら、右手の感覚がいつもと違うことに気づいた。


痛い、というほどではない。指の付け根のあたりに、何か詰まったような重さがある。グリップを握ると、その重さが主張してくる。昨夜から冷えていたせいかもしれない。早春の朝はまだ気温が低い。


幸子は手を握ったり開いたりした。三回。重さは消えなかった。まあいい、と思った。動くから、いい。動く限りは、いい。そう思うことにした。


七時に鍵を開けた。今日は晴れていた。昨日の雨が嘘のように、空が薄い青をしている。豆の缶を開けた。右手で蓋を押さえながら、左手で缶を持った。いつもと逆だった。気づかなかったふりをした。


七時十分、バートが来た。幸子はコーヒーを淹れた。カップを持った。右手でカップの縁を持って、カウンター越しにバートの前に置こうとした。そのとき、右手が少しだけ震えた。ほんの一瞬のことだった。カップはこぼれなかった。バートの前に、静かに置かれた。誰も気づかなかった。


幸子だけが気づいた。


モーニングを並べた。右手は動いた。少し重かったが、動いた。バートの前にモーニングを並べると、バートは里芋の煮付けから手をつけた。ゆっくり、急がない。


晴れた朝の店は静かだった。右手の重さだけが、幸子の内側にこもっていた。


八時を過ぎた頃、バートがコーヒーを飲み干した。「おかわり」と言った。「どうぞ」と幸子は言って、ポットを手に取った。右手でポットの取っ手を持った。今日はその重さがいつもより主張してくる気がした。バートのカップに注いだ。こぼれなかった。


ポットを置くとき、バートが幸子の手を見た。幸子はそれに気づいた。でも何も言わなかった。ポットを置いて、布巾を取った。バートも何も言わなかった。その沈黙が、少しだけ重かった。


九時近くになって、常連たちが少しずつ席を立ち始めた。バートだけが残った。「幸子さん」とバートが言った。「手、痛いのか」


幸子は布巾の動きを止めなかった。「痛くはないよ」と言った。「少し、重たい感じがするだけだわ」「いつからだ」「今朝から。冷えたんかもしれんね」


バートは黙った。それから「病院には行ったか」と言った。なぜ病院に行かないのか、と聞かれると、うまく答えられない。今はまだいい、という感覚がある。今はまだ、右手はコーヒーカップを持てる。


「行く理由がまだないかな、と思っとるだけだわ」と幸子は言った。


バートが「そうか」と言った。それから「幸雄さんは、手が痛かったとき、どうしていた」と聞いた。


幸雄の手を思い出した。大きな手だった。長い指だった。晩年、その手が少し震えるようになった。震えながらもコーヒーを淹れていた。「私が淹れる」と言うと、「まだ淹れられる」と言った。


「あの人も、病院に行かんかったわ。最後まで」と幸子は言った。「頑固だったから。私も似たんかもしれんね」


バートが口元だけで笑った。小さな笑い方だった。


「幸子さん、誰かに頼んだことはあるか」


「頼む、って。何を」「手伝いでも、なんでも。仕込みでも、皿洗いでも」


幸子は少し考えた。「頼んだことはないわ。一人でやってきたから」


「一人でやる必要があるのか」


「必要があるかどうかは、わからんけど」と幸子は言った。「一人でやれる間は、一人でやりたいんだわ、たぶん」「たぶん」とバートが繰り返した。


「うん、たぶん。どうしたいか、正確にはわからんのよ。バートさんに聞かれて、初めてそれがわかったわ」


幸子はカウンターを拭きながら、自分でも少し驚いていた。「どうしたいかわからない」と声に出したのは、初めてだった。いつも「あんたはどうしたいの」と聞く側だった。幸雄が生きていた頃は、よく聞かれた。今は誰も聞いてこない。そのことに、今日初めて気がついた。


九時半を過ぎた頃、バートが立った。引き戸に向かって、振り返らずに言った。


「病院、行った方がいい」


「考えとくわ」と幸子は言った。「考えるんじゃなくて、行け」とバートは言った。振り返らないまま言った。


「バートさんも、人のこと言えるの。自分だって、腰が痛いって言ってたじゃないの、去年」


バートが少し止まった。「それとこれとは違う」と言った。「どう違うの」


「……俺は幸雄さんがいなくなってからも、ここに来られる。幸子さんがいなくなったら、ここはなくなる」


幸子は何も言えなかった。バートが引き戸を開けた。「また来る」と言った。「待っとるよ」と幸子は言った。声が少し、いつもと違った気がした。


右手を見た。指を曲げた。関節のあたりに、まだ重さがある。でも今朝より少し軽い気がした。


幸雄の手を、また思い出した。「まだ淹れられる」は、「まだここにいていい」という意味だったのかもしれない。そしてバートが「幸子さんがいなくなったら、ここはなくなる」と言ったのも、同じことを別の向きから言ったのかもしれない。


声に出さずに思った。


——バートさんに「どうしたいか」って聞かれてしまったわ。あんたの口癖、こんな形で返ってくるとは思わんかったわね。どうしたいか、か。今の私には、難しい問いだわ。でも、難しいってわかっただけ、今日は少しよかったかもしれんね。


幸子は右手を一度だけ握った。重さがある。でも、握れた。晴れた朝が、静かに続いていた。


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