第五話「装具が滑った朝」
雨だった。
昨夜から降り続いている雨で、商店街の石畳が朝から黒く濡れていた。水たまりが四つ、五つ。幸子は開店前に傘立てを出した。空気が重い。コーヒーの匂いが広がらずに落ちてくる感じがした。
七時に鍵を開けた。バートが来た。「雨だな」と言った。「そうだわ」と幸子が言った。それだけだった。今日もいつもの朝が始まった。
九時を過ぎた頃、引き戸が開いた。入ってきた女性を見て、幸子は一瞬だけ目を止めた。二十代後半か、三十代前半か。髪が濡れていた。傘を持っていなかった。コートの肩が濃く濡れている。
足元に装具があった。両足に、金属とプラスチックでできた装具を着けていた。膝下から足首にかけて固定するタイプのもの。人魚族が陸で生活するための装具だと幸子は知っていた。濡れていた。石畳の水を吸って、ベルトの部分が光っていた。
女性は引き戸を閉めてから、装具のベルトを確認した。右足のベルトを締め直した。左足も確認した。それから顔を上げた。何か言われると思っていたような顔をしていた。装具を見て、じろじろ見られると思っていたような。でも幸子は何も言わなかった。
「いらっしゃい」とだけ言った。
女性がカウンターに向かった。席を選ぶとき、少し時間がかかった。どの席が装具をつけたまま座りやすいか、確認していた。「コーヒーと、モーニングをお願いします」と言った。
「どうぞ」と幸子は言った。「濡れたね、今日は」と付け加えた。「雨で装具が滑って」と女性は言った。「転びそうになったので、少し時間がかかってしまいました」
コーヒーを出した。女性が両手でカップを包んだ。雨で冷えた手だった。
モーニングを並べた。女性はひじきから手をつけた。ゆっくり、丁寧に食べた。
しばらく無言で食べていた女性が、コーヒーを一口飲んでから口を開いた。「この辺は石畳が多いですね。雨の日は滑りやすくて。この装具、古いので、雨に弱くて」
「古いの?」と幸子は聞いた。「五年使っています。最新のものに変えれば防水性能が上がるって言われるんですけど」
「変えたくないの?」
「……慣れているので。この装具じゃないと、歩き方が変わる気がして」
「そうだわなあ」と幸子は言った。「慣れたもんには、理由があるわよね」
女性が幸子を見た。「そうなんです」と言った。少し強い言い方だった。誰かに否定されてきた言葉を、肯定されたときの声だった。
十時を過ぎた頃、雨が少し強くなった。「職場でも言われるんです」と女性は言った。「最新型に変えた方がいいって。会社の福祉担当の人が、毎月のように」
「勧めてくれるの?」と幸子は聞いた。「そうなんですけど、私が変えたいって言ったわけじゃないので」
「そうだわなあ。変えてほしいのは、その人なのかもしれんね」
女性が少し黙った。「そういうことなのかもしれないです。最新型を使っている方が、会社側が安心するのかもしれなくて」
「あんたの装具なのにね」と幸子は言った。「そうなんです」と女性は言った。今度は強さより、疲れが混じった声だった。
「外してみせて、って言われたことありますか」と女性は聞いた。
「誰かに言われたの?」と幸子は聞いた。「職場の人に。悪気はなかったと思うんですけど、『どんな仕組みなのか見せてほしい』って。好奇心で」
「そうだわなあ。興味を持つことと、見せてって言うことの間には、何かあるわよね」
「断ったら、気まずくなってしまって」
「断って気まずくなるのは、断った方のせいじゃないんだけどね」と幸子は言った。「その場にいるのはあんただから、気まずさを受け取るのもあんたになる。それはおかしいんだけど、おかしいことが現実に起きてるのも本当だわね」
女性は黙った。コーヒーを見た。
「外してみせてって言われたとき、どうしたかったの?」
女性はしばらく答えなかった。かぼちゃの煮付けを一口食べた。ゆっくり噛んだ。それから答えた。「断りたかった。ちゃんと、理由を言って。これは私の体の一部で、見せ物じゃないって」
「言えんかったの?」「言えなかったです。言ったら、角が立つと思って」
「そうだわなあ」と幸子は言った。「次に言われたときのことを、少し考えてみてもいいかもしれんね。どう言うか、じゃなくて、あんたはその人にどうしてほしいか。それだけ考えとけば、言葉は後からついてくることもあるから」
「あんたは、その人にどうしてほしかったの?」
女性は長い間、答えなかった。コーヒーを一口飲んだ。窓の外の雨を少し見た。それから幸子を見た。「聞かないでほしかった。見せてって言う前に、聞いてほしかった。私が話したいかどうかを」
「そうだわね」と幸子は言った。それだけ言った。続けなかった。
「それだけなんですけど」と女性は言った。「それだけのことなんですけど」
「そうだわ。それだけのことだわ。でも、そのそれだけが、なかなかないんだわね」
女性が少し笑った。苦い笑い方だった。でも笑っていた。
十時半を過ぎた頃、女性が立った。コートを着た。装具のベルトを確認した。右足、左足。迷わない手の動きだった。
「ごちそうさまでした」と言った。「気をつけてね、滑るから。傘、ある?」
「持ってきていなくて」と女性は言った。幸子はカウンターの下から折り畳み傘を出した。「これ使っていきな。返さんでもええよ」
「でも」と言いかけた。「石畳で転んだら、装具も傷むからね。それだけだわ」
女性が受け取った。「ありがとうございます」と言った。「また来てちょ」と幸子は言った。女性が振り返った。「また来ます」と言った。さっきより声が大きかった。
声に出さずに思った。
——あの子、また来るかな。今度は晴れた日に来てくれたら、石畳も滑らんのに。
——「それだけのことなんですけど」って言ってたわ。そのそれだけが、ないんだわね、なかなか。幸雄さん、あんたは私に「それだけ」ができてたかな。
雨が続く朝が、静かに流れていた。




