第三話「引き戸の重さ」
六時五十分、窓の外に人影があった。
豆を挽いていた幸子は、音の隙間でそれに気づいた。商店街がまだ眠っている時間に、引き戸の前で動かない人影。通り過ぎる人間はいる。でも立ち止まる人間はいない。この時間に立ち止まる理由がない。なのにその影は、そこから動かなかった。
小柄だった。子どもくらいの背丈。でも子どもの立ち方じゃなかった。背中に何か重たいものを乗せたような、疲れた立ち方をしていた。季節より厚いコートを着ていて、その厚さが余計に体を小さく見せていた。
幸子はミルのハンドルを回し続けた。見ているとも、見ていないとも言えない目で、その人影を視界の端に置いておいた。急かすつもりはなかった。入るかどうかは、その子が決めることだ。
七時になった。鍵を開けて引き戸を引くと、外の空気が入ってきた。人影は引き戸のすぐ前にいた。間近で見ると、少女だった。十代後半か、二十代の前半か。
細い。髪が透けていた。文字通り、透けていた。光の加減ではなく、髪の一本一本が向こう側の見える質感をしていた。肌も同じだった。薄い。存在が薄い、という言い方が一番近いかもしれない。
精霊族だ、と幸子は思った。
「いらっしゃい」と言った。
少女が顔を上げた。自分に向けられた言葉だと、すぐには信じられないような顔をした。幸子を見て、自分の後ろを見て、また幸子を見た。
幸子は店の中に戻った。少女はまだ外にいた。一分ほどして、引き戸が開く音がした。少女が入ってきた。引き戸を閉めた。その音がひどく小さかった。体重がないような閉め方だった。
カウンターに近づいてきて、席を選ぶ前に幸子の顔をうかがった。「どこでもええよ」と幸子は言った。少女はカウンターの中ほどに座った。
「コーヒー、飲める?」と幸子は聞いた。
「……はい」と少女は言った。声が小さかった。店の空気に吸い込まれるような声だった。
七時十五分頃、バートが来た。いつもの席に座った。幸子がコーヒーを出した。バートが一口飲んだ。少女の方を、見なかった。
精霊族は、見える人間と見えない人間がいる。この老人には、今この少女が見えていないのかもしれない。
幸子は少女の前にコーヒーを置いた。少女が両手でカップを包んだ。温めるように、しばらくそのままでいた。冷えた手だった。
モーニングを並べると、少女はしばらく皿を見ていた。食べていいものかどうかを確かめるような目だった。幸子はカウンターを拭いた。急かさなかった。
少女が最初に手をつけたのは、小倉トーストだった。一口食べた。「甘い」と小声で言った。誰かに向けた言葉じゃなかった。自分の中に落とした言葉だった。幸子は聞こえたが、何も言わなかった。
八時を過ぎると、他の客が来始めた。誰も少女に気づかなかった。一人、少女の横を通りかかった客がいた。ぶつかりそうになって、体が自然によけた。でも「すみません」とは言わなかった。少女の存在を感知していない体の動き方だった。少女は身を縮めた。慣れているような縮め方だった。
幸子はそれを見た。胸のあたりに、名前のつけにくい何かが引っかかった。
九時近くになって、少女がゆで卵に手をつけた。剥こうとして、少し苦労していた。幸子は「貸してちょ」と言って、カウンター越しに手を伸ばした。少女が渡した。幸子が殻を剥いた。白い実が出てきた。少女に返した。
「ありがとうございます」と少女は言った。さっきより声が少し大きかった。
「疲れた顔しとるね」と幸子は言った。断定だった。問いかけではなかった。
少女は少し黙った。「そうかもしれないです」と言った。
「眠れとる?」
「……あまり」
「そうだわなあ」と幸子は言った。「眠れん夜は、長いよねえ」
少女がカップを見た。コーヒーはもう半分以下になっていた。
「お父さんが」と少女は言いかけた。止まった。幸子は続きを待った。
「お父さんが、最近あまり眠れていないみたいで」と少女は言った。「だから私も、なんか眠れなくて」
「一緒に起きてしまうんだわね」と幸子は言った。少女がうなずいた。
「お父さん、病気なの?」
「病気、というか」と少女は言った。「最近、薄くなってきて。私たちの種族は、調子が悪くなると、存在が薄くなるんです。だんだん、見えにくくなって」
「お父さん、私のことが最近見えにくそうで。呼んでも、振り向かない日が増えて」
「そうだわなあ」と幸子は言った。「見えてもらえんのは、辛いわねえ」
少女がうなずいた。「お父さんが、ちゃんと見える日が続くといいけどね」と幸子は続けた。「まあ、見えにくくなるのを、一人で支えようとしとるのかもしれんけどね、あんたが」
少女の指が、カップの縁を少し強く握った。
「誰かに、頼んだことある?」
少女は長い間、黙っていた。ゆっくり顔を上げた。「……頼める人が、誰なのかわからなくて」と言った。
「そうだわね」と幸子はうなずいた。それだけ言った。続けなかった。答えを出さなかった。今この子に必要なのは答えではないと感じた。答えより先に、聞いてもらえることが必要な朝だった。
九時半を過ぎて、少女が立った。小倉トーストが半分残っていた。ゆで卵は食べた。小鉢は白和えだけが、きれいになっていた。
「ごちそうさまでした」と少女は言った。「また来てちょ」と幸子は言った。
少女が少し驚いた顔をした。「いつでもええよ」と幸子は言った。「朝七時から夜七時まで開けとるから」
少女が財布を出した。幸子は受け取った。引き戸を開けた。外の光が入ってきた。少女が出ていった。引き戸が閉まった。小さな音がした。
幸子は引き戸を見ていた。ガラス越しに、商店街が見えた。少女の姿を探したが、見えなかった。
バートが「今日、若い子来てたか?」と聞いた。「来とったよ」と幸子は答えた。「気配はしたんだが、姿が見えなかった」とバートが言った。二人はしばらく黙っていた。
声に出さずに思った。
——また来るかな、あの子。来るといいわ。来たら、また「いらっしゃい」って言える。それだけでいいわ、今は。
幸子は次の客のコーヒーを淹れた。薄曇りの朝が、静かに続いていた。




