第二話「最初の一杯」
雨の朝は、匂いが落ちてくる。
広がらずに、沈む。コーヒーを挽いていると、豆の匂いが上に上がらずに床の方へ降りていく気がした。気のせいかもしれない。でも雨の日は決まってそう感じる。空気が重いから、匂いも重くなる。そういうことだろうと幸子は思っている。誰かに確かめたことはない。
昨夜から降り続いている雨で、開店前に傘立てを出した。
こんな天気でも客は来る。来るから出しておく。それだけのことだが、傘立てを出す動作には幸雄の言葉がくっついている。「備えることと、期待することは違う」。開店して間もない頃に言っていた言葉だ。どういう文脈で出てきた言葉だったか、もう覚えていない。ただ言葉だけが残って、傘立てを出すたびに浮かんでくる。
今もその意味が完全にわかっているとは言えない。
七時に鍵を開けた。外の空気が湿っていた。石畳が黒く光っている。水たまりが四つ、五つ、商店街の凹みに溜まっている。雨粒がその表面を叩くたびに、小さな波紋が広がっては消えた。幸子はそれを一瞬だけ見てから、店の中に戻った。
七時十分、バートが来た。
濡れた革のジャンパーの匂いが、引き戸と一緒に入ってきた。雨の匂いと金属の匂いが混ざった、この老人特有の朝の匂いだ。バートは傘立てに細い傘を立てた。体格に似合わない、ひょろりとした傘だった。
「雨だな」とバートが言った。
「そうだわ」と幸子が言った。
それだけ言葉を交わして、バートはいつもの席に座った。幸子はコーヒーを出した。バートは両手でカップを持って、窓の外の雨を見た。
モーニングの準備をしながら、幸子はバートの横顔を見た。七十代の後半だろうと思う。正確な年齢は一度も聞いたことがない。最初に来たときから老人だった。あれから五十年以上経っているのに、見た目がほとんど変わっていない。ドワーフ族は老いるのが遅いと幸雄が言っていた。「でも老いないわけじゃない」とも言っていた。その言葉の続きは、なかった。
なぜか今朝、バートが最初に来た日のことを思い出した。雨だったような気がする。正確かどうかはわからない。ただ、雨だった気がする。
開店から三年目の春だった。
まだ客が少なかった頃。その朝、引き戸が開いた。顔を上げた瞬間、幸子は固まった。入ってきたのは、人間ではなかった。今のバートと、ほとんど同じ姿だった。
横を見た。幸雄がいた。驚いていなかった。「お、来たか」という顔をして、カウンターの内側から「いらっしゃい」と言った。幸子はその横顔を、固まったまま見た。どこか知っていたのだと、そのとき感じた。
あの顔は、今でも思い出せる。自分には絶対できない顔だと、今でも思う。
バートはその日、今と同じ席に最初から迷わず座った。幸雄がコーヒーを出した。バートが一口飲んで「旨い」と言った。幸雄が少し笑った。「そうだろう」というような笑い方だった。
その後、バートは何も話さなかった。モーニングを食べて、お金を置いて、出ていった。
幸雄が「また来る」と言った。幸子が「知り合い?」と聞くと、「縁がある人だよ」とだけ言った。それ以上は言わなかった。聞いても無駄だと思った。幸雄がそれ以上言わないときは、それ以上言えない何かがある。長い時間をかけて覚えたことだった。
現在に戻る。
バートがコーヒーを飲み干した。「おかわり、もらえるか」と言った。幸子はカップに注いだ。今日は長く座る気だと思った。
しばらく二人とも黙っていた。雨が窓を叩く音だけが店にある。二杯目のコーヒーを半分ほど飲んだところで、バートが口を開いた。
「幸雄さんは、いい人だった」
「そうだわね」と幸子は言った。
「ここに来ると、幸雄さんのコーヒーの味がする」とバートは続けた。「同じじゃないのに、同じ気がする」
幸子は少し考えてから答えた。「私が変えんようにしとるだけだわ。でも、幸雄のより少し薄いんよ」
「気づかなかった」とバートが言った。
「気づかんでいい」と幸子は言った。「私が気づいとるから」
バートは何も言わなかった。コーヒーを一口飲んだ。
しばらく経ってから、バートがまた話し始めた。
「幸雄さんが最初にここを開けたとき、俺はもう来ることを決めていた。ここは、来ていい場所だと知っていた」
「幸雄が、呼んだの?」
バートは里芋の煮付けをもう一口食べた。すぐには答えなかった。「……呼んだというより」とバートはゆっくり言った。「前の旦那さんに、世話になっとったから」
そこで、止まった。
幸子はバートを見た。バートは里芋の皿を見ていた。何かを言いかけて、引っ込めた顔だった。
「前の旦那さん、って」と幸子は聞いた。「幸雄のことじゃないの?」
バートが少しだけ顔を上げた。幸子を見た。それからまた里芋を見た。「……いや。そうだな。そうだ。幸雄さんのことだ」
言い直した。でも最初は「前の旦那さん」と言った。この老人は五十年以上「幸雄さん」と呼んできた。それが「前の旦那さん」になった。言い直したということは、違う誰かのことを言いかけた、ということだ。
幸子はその言い方を、聞き流さなかった。でも、問い返さなかった。今日は聞く日じゃないと感じた。止まったものを引き出そうとすると、余計に遠くへ行く。だから待つ。
九時半を過ぎて、バートが立った。いつもより少し多い金額を置いた。おかわりの分だった。
「また来る」と言った。
「待っとるよ」と幸子は言った。
引き戸が開いた。バートが細い傘を取り出した。開いた。雨の中へ出ていった。
幸子は「前の旦那さん」という言葉が、まだそこに残っているような気がした。
幸雄以前に、誰かがいたのだろうか。この店の前に、あるいはこの土地に。
声に出さずに思った。
——幸雄さん、バートさんが「前の旦那さん」って言いかけたよ。あんたのことじゃない誰かのことを。
雨が続いていた。傘立ての傘が、また一本増えていた。
——あんたは知っとったんかな。この店がどういう場所か。バートさんがなんで来るのか。
次の客のコーヒーを淹れた。右手でポットを持った。注いだ。こぼれなかった。
——聞けばよかったこととそうじゃないことが、あんたにはたくさんあったわ。これはどっちだったんだろうね。
雨は昼過ぎまで続いた。傘立ての傘は、最終的に八本になった。




