第一話「幸雄さんの席」
七時になる前に、幸子はいつも店にいる。
六時半には起きて、六時四十五分には白いエプロンを締めて、七時の三分前には引き戸の鍵を開ける。その三分間、幸子は何もしない。カウンターの内側に立って、店の中を見渡す。テーブルが四つ。椅子が十四脚。カウンターに六つの丸椅子。どれも昨日と同じ場所にある。どれも昨日と同じ顔をしている。
それを確認してから、幸子は豆の缶を開ける。
深く吸うわけではない。ただ、そこにある匂いを確認する。コーヒーの、少し重い、土に近い匂い。これが「今日も始まる」の合図だった。五十年以上、同じ合図で始めてきた。最初の頃は幸雄が缶を開けていた。幸子はその横で卵を茹でていた。いつから自分が缶を開けるようになったのか、正確には覚えていない。気づいたら、そうなっていた。
コーヒーを挽く音が店に満ちる。
この音も、五十年以上変わっていない。ミルは三代目だが、音は同じだと幸子は思っている。正確に同じかどうかはわからない。でも、同じだと思っている。それでいい、と思っている。
カウンターの端に、誰も座っていない席がある。
六つある丸椅子のうち、一番右端の一脚。壁に近い、少し薄暗い場所。幸子はそこを最後に拭く。毎朝、他の五つを拭いてから、最後にその椅子を拭く。布巾を丁寧に動かして、座面を、背もたれを、脚を、拭く。他の椅子より少しだけ時間をかける。
幸雄の席だった。
正確には、幸雄が「俺の席」と決めていた椅子だった。開店してすぐの頃、客が来ない時間に幸雄はよくそこに座ってコーヒーを飲んでいた。「ここが一番落ち着く」と言っていた。壁に近くて少し暗いのに、なぜそこが落ち着くのか、幸子にはわからなかった。「暗い方が考えごとができる」と幸雄は言っていた。幸子は「何を考えとるの」と聞いた。幸雄は「いろいろ」と言った。それ以上は聞かなかった。
今もその椅子には、客を座らせていない。
暗黙のことだった。常連たちはみんな知っている。初めて来た客が座ろうとすると、幸子が静かに「そちらは……」と言う。それだけで伝わる。なぜかはわからないが、伝わる。
今朝も幸子はその椅子を拭いた。布巾が座面に触れた瞬間、椅子が少しだけ温かかった。
気のせいだと思った。でも、毎朝少しだけ温かい。
七時になった。
幸子は引き戸を開けた。外の空気が入ってくる。早春の朝の空気は、まだ冷たい。冬が終わりきっていない、そういう冷たさだ。アスファルトの匂いと、どこかの店の排気と、遠くの金属的な何か。名古屋の朝の匂いだと幸子は思っている。五十年、同じ匂いがする。
商店街はまだ眠っている。シャッターが閉まったまま並んでいる。幸子の店だけが、この時間に開いている。
幸子は店の中に戻り、コーヒーを淹れ始めた。
七時十二分、バートが来た。
引き戸が開く音で幸子は顔を上げた。小柄な老人だった。肩幅だけが妙に広い。手が大きい。皮膚は厚く、関節のあたりが岩のように盛り上がっている。白髪交じりの短い髭。使い込んだ革のジャンパー。五十年前と同じ格好をしている。
バートはドワーフ族だった。
幸子の店に来る客の中で、最も古い常連だ。開店初日に来た。そのときも今も、同じ時間に、同じ格好で来る。
「おはよう」とバートは言った。
「おはようございます」と幸子は言った。
それだけだった。バートはカウンターの左端に座った。幸雄の席から一つ離れた場所。いつもそこだった。幸子はコーヒーを出した。バートは両手でカップを持った。一口飲んだ。何も言わなかった。
幸子も何も言わなかった。
これが、この二人の朝だった。
コーヒーを淹れながら、幸子は今朝のことを考えた。
五十三年前、幸雄とこの店を始めた。最初の一年は客が来なかった。来ても一日に二、三人だった。幸雄は「そのうち来る」と言いながら、毎朝同じ時間にコーヒーを挽いた。幸子は「来なかったらどうするの」と聞いた。幸雄は「来なかったら二人で飲む」と言った。それで幸子は安心した。なぜ安心したのかは今もわからない。でも、安心した。
二年目から少しずつ客が来るようになった。三年目にバートが来た。
バートが来た朝、幸雄は驚かなかった。ドワーフ族が目の前に立っていても、「お、来たか」という顔をして「いらっしゃい」と言った。幸子は少し固まった。幸雄の横顔を見て、固まったまま卵を茹で続けた。
あの顔、今でも思い出せる。
幸子には絶対できない顔だ、と今でも思う。
九時になった頃、バートが立った。
カップを静かに置いた。モーニングの皿は空だった。里芋の煮付けだけが、他より少し早くなくなっていた。
「ごちそうさん」とバートは言った。
「またね」と幸子は言った。
バートは財布を出して、いつもの金額を置いた。幸子は受け取った。
引き戸が開いて、閉まった。バートの背中が、ガラス越しに小さくなっていった。
幸子はバートが座っていた椅子を拭いた。それから、幸雄の席を見た。朝一番に拭いた椅子が、また少し温かい気がした。気のせいかもしれない。でも気のせいだとも言い切れない。
幸子は布巾をカウンターに置いて、少しの間そこに立っていた。
声に出さずに、思った。
——閉めたい、って言ったとき、なんで閉めたいか聞かんかったんやろ。
窓の外、商店街がゆっくり動き始めていた。
——まあ、聞けんかったんだけどね。
幸子はコーヒーを一杯淹れた。自分のために。カウンターの内側に立ったまま、一口飲んだ。
幸雄のコーヒーより少し薄い。薄くしたのは自分だから、これが自分のコーヒーだった。
七時から始まった朝が、まだ続いていた。




