第十一話「小倉トーストの始まり」
春になっていた。
朝の空気が変わった。冬の硬さが抜けて、少し丸くなった空気。商店街のシャッターに当たる光が、早春より角度を持つようになった。幸子は開店前に窓を少し開けた。この時期の朝の空気を一度だけ吸いたかった。一息吸って、窓を閉めた。
七時十分、バートが来た。革のジャンパーは同じだが、今日は少し薄手のものだった。季節に合わせて変えている。それだけのことが、五十年以上続いているということだ。この老人の生活が、ちゃんと続いているということだ。幸子はそれを、毎年春に確認する。
「おはよう」とバートが言った。「おはようございます」と幸子が言った。バートはいつもの席に座った。コーヒーを受け取った。一口飲んだ。窓の外の春の商店街を見た。
モーニングを並べながら、幸子は小倉トーストを出した。小倉あんが乗った厚切りトーストを見て、バートが「これができたのは、いつだったか」と言った。
「覚えとる?」と幸子は聞いた。「焦がしたんだろう」とバートは言った。「最初」
幸子は少し笑った。「そうだわ。開店初日に焦がしたんよ」
開店初日のことは、今でも鮮明に覚えている。七時に鍵を開けて、最初の客が来たのは七時四十分だった。商店街の魚屋のおじさんだった。「コーヒーと、トーストを」と言われて、幸子は緊張してトーストを焦がした。真っ黒になった。どうしようと思っていたら、幸雄が「小倉あんを乗せれば誤魔化せる」と言った。在庫の小倉あんを出してきた。乗せた。魚屋のおじさんに出した。おじさんが一口食べて「旨いな」と言った。
それが始まりだった。
「誤魔化しから始まったんだわ。五十三年続いてる定番が」
バートが「幸雄さんらしい」と言った。「そうだわね。あの人、失敗を面白がる人だったから」
バートが小倉トーストを一口食べた。ゆっくり噛んだ。飲み込んでから「今日も旨い」と言った。毎朝食べているのに、毎朝そう言う。幸子はその言い方が好きだった。
「バートさん、仕事はどう?」と幸子は聞いた。バートが少し止まった。「どうとは」と言った。「最近どうかな、と思って。聞いたことなかったから」
バートがコーヒーを一口飲んだ。窓の外を見た。「変わらん。毎日、同じものを作っている」「何を作っとるの?」「金物だ。刃物の類だ。包丁、鉋、鑿。そういうもの」「職人さんなんだわね」
「今は、職人と呼んでいいのかどうか、わからんが」とバートは言った。静かな言い方だった。
「どういうこと?」「工場が変わった。機械が入った。うちの工場だけじゃない。どこもそうだ。機械が入って、人間がやることが減った」
「そうだわなあ」と幸子は言った。「俺がやってきたことは、機械にはできない、という話だった。最初は。でも今は機械の方が精度が高い。速い。疲れない。文句も言わない」
幸子はカウンターを拭きながら、バートの横顔を見た。里芋の煮付けに手をつけていなかった。コーヒーだけを持って、話していた。
「弟子を取ることも、禁じられた」と言った。「会社の方針で。技術の継承よりも、機械への移行を優先する。だから、人に教えることに時間を使うな、と言われた。俺がやってきた五十年が、もう次の人間には必要ない、ということだ」
「そうだわなあ。それは、辛いわね」「辛い」とバートは繰り返した。確認するような言い方だった。「辛いのかどうか、自分ではよくわからんのだが」と続けた。
「手で作ったもんには、魂があるわよ。機械が同じものを作れたとしても」
「魂があっても、売れんものは売れん」「そうだわね。売れんかったら、続けられんしね」「だから、機械になった。それが正しいことなのかどうかはわからんが、そうなった」
「正しいかどうかは、わからんわね。でも、バートさんの手は、五十年かけて作ってきたわけだから」
バートが自分の手を見た。大きな手。関節が盛り上がった手。五十年、毎日使い続けた手。
「誰かに見せたことある?」と幸子は聞いた。「何を」「その手で作ったもの。会社の方針とか、売れるかどうかとか、そういうことじゃなくて。ただ、見てほしいと思う誰かに、見せたことある?」
バートは長い間、答えなかった。里芋の煮付けをようやく一口食べた。「ない。見せようと思ったことが、なかった」「そうなの」「見せて、何になる。買ってもらえるわけでも、続けられるわけでもない」
「そうだわね。買ってもらえるわけでも、続けられるわけでもないかもしれん。でも、見た人が、ここにいるかもしれんわ、ということだわ。五十年かけた手を、見たい人間がいないとは限らんから。見せてみんと、わからんわよ」
バートはしばらく黙っていた。コーヒーを飲み干した。「おかわり」と言った。幸子は注いだ。
二杯目のコーヒーを持ちながら、バートが「幸雄さんは」と言った。「俺の仕事を、見たいと言っていた。一度だけ、工場に来た。何も言わなかったが、帰るときに『いいものを見た』と言った」
幸子は手を止めた。「幸雄が来たの? 工場に」「一度だけ。いつだったか、もう正確には覚えていない。ただ、来た」
幸子は少し考えた。幸雄が工場に行ったことを、知らなかった。あの人はそういう人だった。したことをいちいち言わない人だった。でも、した。「そうだったの」と幸子は言った。それだけ言った。
九時を過ぎて、バートが立った。「小倉トースト、明日も出るか」「毎日出るよ。五十三年、毎日出しとるから」「では明日も来る」「待っとるよ」。引き戸が閉まった。
声に出さずに思った。
——幸雄さん、バートさんの工場に行ったんだって。知らんかったわ。「いいものを見た」って言ったんだって。あんたらしい言い方だわ。余分なことは言わない。でも、見に行った。
——私は、バートさんの手で作ったものを、見たことがない。五十年以上、毎朝来てくれとるのに。今日、まず私が見に行けばよかったかもしれんね。
春の朝が、明るく続いていた。




