第十話「もう終わりですか」
六時半、まだ店が開く前だった。
幸子が仕込みをしていると、引き戸のガラス越しに人影が見えた。外はまだ薄暗い。商店街のシャッターが全部閉まっている時間だった。その人影は引き戸の前に立って、中を覗くでもなく、ただそこにいた。
小柄だった。フードのついたコートを着ていた。フードを被っていた。顔が見えなかった。立ち方が、妙に静かだった。
七時になった。幸子は鍵を開けた。引き戸を引いた。人影がまだそこにいた。
「いらっしゃい」と幸子は言った。人影が動いた。フードの中から顔が見えた。二十代後半か、三十代前半か。肌が黒かった。闇エルフ族だと幸子は思った。目が鋭い。何かを測っている目だった。
「もう開いていますか」と言った。「今開けたところだわ。どうぞ」
「あと三十分したら、また来ます」と男は言った。幸子は少し驚いた。「今入ればいいじゃないの」「一番乗りは、迷惑かと思って」「迷惑じゃないよ。来た人が座れる席に座る、それだけだわ」
男がまた少し迷った。それから「では」と言って、店に入ってきた。
カウンターの端に座った。出口に近い席だった。フードを外した。短い黒髪が出てきた。耳が少し尖っていた。「コーヒーと、モーニングをお願いします」と男は言った。
コーヒーを出した。男が片手でカップを持った。一口飲んだ。目を閉じた。しばらく閉じていた。それからカウンターを見た。棚の時計を見た。幸雄の写真を見た。「古い店ですね」と言った。「五十三年だわ」と幸子は言った。「変わらないんですね」。その言い方が、安心したように聞こえた。
モーニングを並べた。男は小倉トーストから手をつけた。一口食べて、少し目が丸くなった。「甘い」と言った。「名古屋に来て、初めて食べました」と言った。
ゆで卵を剥いた。丁寧に剥いた。薄皮まで取り除いた。白い実が出てきた。それを見て、少し表情が緩んだ。
「仕事で来ているの?」と幸子は聞いた。「転職活動で。名古屋に来てから、三ヶ月になります」「仕事は見つかった?」「まだです」
「難しいの?」と幸子は聞いた。男はしばらく答えなかった。「書類は通るんですけど。面接で、会った途端に、なんか、変わって」「変わる、って」「面接官の顔が。書類で想定していた人と、違った、という顔になる。そこからが、うまくいかない」
「闇エルフ族だから、外見登録種族なので、履歴書に書いてあります。書いてあるのに、会うと驚かれる。書いてあるのに、会うと変わる」
「そうだわなあ。書いてあっても、実際に会うのは別なんだわね、その人たちにとっては」「だから、書いてある意味がわからなくて」
「何社、受けたの?」「三十社です」と男は言った。あっさり言った。三十回、書類を書いて、三十回、会って、三十回、変わった顔を見た。その積み重ねが、この男の「ただそこにいる」立ち方を作ったのかもしれない。
「疲れたね」と幸子は言った。「疲れました。でも、やめるわけにもいかないので」「そうだわね。やめるわけにはいかんわね」
「そのままのあんたを見てくれる人が、おるといいけどね。まあ、見た目で安心したい人ほど、中身を見るのが怖いのかもしれんけどね。あんたを怖がっとるのかもしれん。あんたが怖いんじゃなくて、知らないものが怖くて、知ろうとする前に終わらせてしまう。そういうことかもしれんね」
「里芋の煮付けを食べながら、男が「あんたは」と幸子に言った。「どうして、私を普通に迎えてくれるんですか」
「普通に、ってどういう意味?」「驚かない、ということです。名古屋に来てから、初対面の人に驚かれないのは、ここが初めてで」
「そうなの。驚く理由がないから、驚かんだけだわ。来た人が座れる席に座る、それだけだから」「それだけですか」「それだけだわ。五十三年、それだけでやってきたから」
男が少し笑った。小さな笑い方だった。
八時半を過ぎた頃、引き戸が開いて常連たちが来始めた。男はコーヒーのおかわりを頼んだ。常連たちが男を見た。見たが、特に何も言わなかった。それぞれの席に座った。この店の空気だった。
男はその空気を感じているのか、少しずつ肩が下がっていった。体が少しだけ内側に向いてきた。
九時近くになって、男が立った。財布を出した。引き戸に向かった。そこで止まった。振り返らずに言った。
「もう終わりですか」
幸子は少し驚いた。「何が?」と聞いた。「モーニングの時間。もう九時なので、終わりかと思って」
「一日モーニング、って言ったじゃないの。夜七時まで出すよ」
「そうでした。また来ていいですか」「滑り込みはいつでも歓迎だわ。六時半に来ても、六時五十九分に来ても、どうぞ」
男が「六時半に来ていたのを、見ていましたか」と言った。「見とったよ。なんで入らんかったの、と思っとったわ」「一番乗りは迷惑かと思って」「迷惑じゃないって言ったじゃないの。次からは、六時半でも入ってちょ」「わかりました」と男は言った。一度うなずいた。引き戸を開けた。
外に出た男が、フードを被った。商店街へ歩いていった。
「闇エルフの青年だったな」とバートが言った。「転職活動してるんだって。三十社、受けたって」バートが「そうか」と言った。「顔を見た途端に変わるのか」と言った。「そうみたいだわ」。二人はしばらく黙っていた。言葉が要らない沈黙だった。
声に出さずに思った。
——三十社、会った途端に変わられた。それでもまだ、受けとる。
——幸雄さん、あんたは初めて会う人に、どんな顔をしとったんだろうね。「お、来たか」という顔をしとったって、バートさんが言ってたわ。私はどんな顔をしとるかな。あの青年に、どんな顔をしたかな。
次の客のためのコーヒーを淹れた。早春の朝が、少しずつ明るくなっていた。
「春の終わりに」
夜、店を閉めてから、幸子は一人でカウンターに座った。
自分側ではなく、客側に。カウンターの中ほどの席。普段は立っている側から見ると、店が違って見える。棚の時計が、正面に見えた。止まったままだった。幸雄の写真も、正面に見えた。いつもと同じ顔をしていた。
声に出さずに思った。
——幸雄さん、今日はドワーフのおじいさんが来た。あなたの知り合い、というか、「前の旦那さんに世話になった」って言いかけたわ。言い直したけど。あれは誰のことだったんだろうね。聞けんかったけど。
コーヒーを一杯、自分のために淹れた。少し薄い、自分のコーヒー。
——透けて見える女の子も来た。お父さんの世話をしているらしいわ。頼める人が誰かわからない、って言ってた。その言葉が、今日一番、残っとる。
カップを両手で持った。右手に少し重さがあった。
——装具の女の子も来た。古い装具を大切にしとる子だった。闘エルフの青年も来た。三十社、受けてもまだ受けとる。大きな青年も来た。真ん中に座りたい、って言えた子だった。疲れた目の男も来た。四杯、飲んでいった。
窓の外、商店街が静かだった。
——それから、工場の獣人族の青年も来た。小鉢の中身を全部聞いてきた。明日の小鉢、何にしようかな。
幸子はコーヒーを一口飲んだ。
——みんな、何かを持ってきた。私は何を返したかな。答えは出してない。出せるものを持ってないから。でも、聞いた。聞いただけかもしれんけど。
止まった時計を見た。
——幸雄さん、「どうしたいの」って聞くのは、あんたの口癖だったね。いつの間にか私も言うようになっとった。借り物の言葉が、自分の言葉になる。そういうことが、あるんだわ。
コーヒーを飲み干した。カップを置いた。
——あんたがいなくなってから、何年経ったかな。数えるのをやめたから、わからんけど。でも、まだここにいる。なんでかは、まだわからん。わかる前に終わるかもしれんけど。
幸子は立った。カップを洗った。店の中を見渡した。テーブルが四つ。椅子が十四脚。カウンターに六つの丸椅子。明日も同じ場所にある。明日も同じ顔をしている。
電気を消した。
暗くなった店の中で、止まった時計だけが、薄い光を受けてそこにあった。




