第九話 朝
電話が鳴ったのは7時40分だった。
深津は靴を履きかけていた。かけ直そうとして名前を見ると、会社ではなく団地の番号だった。集会所の固定電話は、朝のこの時間に鳴ることがない。
出ると、宇野の声だった。
「深津さんですか。宇野です。七号棟の裏に人が倒れています。救急車は呼びました。警察も呼びました。それから、御社にも連絡すべきかと思いまして、順番に」
「……いま、行きます」
「まだ来ないでください、と言うべきなのかもしれませんが、来ていただいたほうがよいと思います」
部屋を出て、階段を下りた。廊下の窓から七号棟の裏側が見える位置で、一度足が止まった。
人が集まっていた。十人ほどが、自転車置き場のあたりを遠巻きにしている。全員が同じ方向を見て、誰も動いていない。その形で、もう分かった。
現場に着いたとき、救急隊はもう到着していた。
自転車置き場のトタン屋根の手前、植え込みとの境のところに、青いシートが広げられている。隊員が二人しゃがんでいて、一人が立ち上がって首を横に振るのが見えた。振ったというより、動かしただけに近かった。
佐久間がいた。
シートから五、六歩離れたところに立って、両手を広げるようにして住民を下がらせている。
「入っちゃいけない。ここから先は入っちゃいけないよ。子どもは連れてこないで。ねえ、そっちの人、下がって」
誰も逆らわなかった。佐久間が言うと、みんなが半歩ずつ下がった。
深津は名乗り、管理会社の者だと言って、隊員のそばへ寄った。
「発見は何時ですか」
「7時半すぎに、通りかかった住人の方が」隊員は上のほうを一度見た。「上から落ちたと思われます。警察が来ますので、それまでこのままで」
「……身元は」
「所持品から、桑名千尋さんとお見受けしています。ご存じですか」
鞄が、シートの端に置かれていた。昨日と同じ、薄い鞄だった。
深津は自分がうなずいたのを、あとになって思い出した。そのときは、何を言ったのか覚えていない。
シートのほうは見なかった。見てはいけない決まりはなかったが、見なかった。
目を上げると、七号棟の外廊下が見えた。3階と4階のあいだ。給水管の陰になって、この角度からだと手すりの根元だけが見える。あの人が写真を撮った場所だった。
警察が来ると、住民は棟の入り口のほうへ移された。
深津は名刺を出し、会社の担当であること、退去手続きでこの団地に常駐していること、亡くなった方は住人ではないことを説明した。若い警察官は書き取りながら、何度か同じ質問をした。深津は同じ答えを繰り返した。答えているあいだ、頭のなかで別の作業が動いていた。
本社への一報。工程への影響。警察対応の窓口はどこになるか。住民への周知の文面。
いつまでに、誰が、何をするか。
その並びが自然に立ち上がってきて、立ち上がったことに、少し遅れて気づいた。
「昨日、この方と最後に話したのは」警察官が聞いた。
「……私かもしれません」
「何時ごろですか」
「午前9時40分ごろです」
「そのとき、様子はいかがでしたか」
深津は口を開いた。
昨日、彼女は明日もう一度行くと言った。10時にうちへ寄ると言った。手帳にそう書いてある。書いたあと、様を消してさんに直した。
あの人は佐久間に、母の記録の話をした。そして自分に、あの日この棟にいましたねと聞いた。自分は、何も見ていませんと答えた。
「……普通でした」
「普通、といいますと」
「落ち着いておられました。予定を決めて帰られました」
警察官は書き取った。深津はそれ以上言わなかった。
言えることは他になかった。何も見ていない、というのは昨日の話であって、今朝の話ではない。今朝の話としては、自分は何も知らない。知らないことを、知らないと言うのは、正しいはずだった。
尾関が来たのは、そのあとだった。
人垣の外から声を張って、自治会としてどうするのかと言い、それから、こういうときは町内で当番を決めて、と言いかけて、警察官に下がるよう言われた。尾関は下がってから、近くの住民に何か長く話していた。
宇野は名簿を持っていた。誰が現場にいたか、何時に何をしたかを、バインダーに書きつけている。深津のところへ来て、こう言った。
「発見された方は、7時32分に大声を出されました。私はそのとき一階の廊下におりましたので、時刻は確かです。救急への通報は7時34分。警察は7時36分。順番に、間を空けずに行いました」
「……ありがとうございます」
「順番に行いました」
3階の窓に、人が立っていた。
カーテンを半分だけ開けて、こちらを見ている。逆光で顔は影になっている。深津はその窓を見上げ、それから目を戻した。
名前は、やはり出てこなかった。
マイは、少し離れた棟の陰にいた。ジャンパーを着て、両手を体の前で合わせるようにして立っている。誰とも話していない。深津が見ていると、目が合う前に顔を伏せて、そのまま行ってしまった。
里村の姿はなかった。あの部屋は、この位置から窓が見えない。
人が散りはじめたころ、佐久間が寄ってきた。手にポットと紙コップを提げている。どこから持ってきたのか、いつのまにか用意していた。
「悠一くん、顔が白いよ」
「……いえ」
「飲みなさい。立ってるだけでも体は冷えるんだから」
紙コップを渡された。中身は白湯だった。深津は両手で持った。持ってみて、指がうまく曲がっていないことに気づいた。
「昨日、私が送っていきました」深津は言った。「棟の下まで」
「そうだったね」
佐久間は七号棟の上のほうを一度見て、それから目を戻した。
「気の毒なことだ。あんな若い人が。お母さんを亡くしたばかりでね、ここへ来て、誰にも相手にされなくて。私はもっと引き止めればよかった。昼を食べていきなさいと言ったんだよ、あの日。断られたけどね」
「……そうですか」
「何もしてやれなかったな」
佐久間はポットを持ち直し、警察官のほうへ歩いていった。若い警察官に何か言って、紙コップを渡している。渡してから、住民のほうへ戻り、寒いから家に入りなさいと声をかけて回りはじめた。
深津は白湯を飲んだ。冷めかけていた。
昼前に、いったん事務所へ戻った。
鍵を開け、電気を点け、机の前に座った。
机の上は昨日のままだった。付箋を貼りかけた同意書の束。ペン。読みかけの工程表。
電話機の横に、名刺が立ててある。
深津はそれを見た。しばらく見てから、手を伸ばして、倒れないように少し角度を直した。片づけはしなかった。
手帳を開いた。今日の欄に、10時、桑名さん、と書いてある。消したところが破れて、紙が毛羽立っている。
時計を見ると、11時を過ぎていた。
深津はペンを取り、その行に線を引こうとして、線を引かなかった。手帳を閉じ、机の端へ置いた。
湯を沸かした。沸いたところで、湯呑みを二つ出しそうになって、一つだけ出した。
外で、車の扉が閉まる音がした。窓から見ると、警察の車がもう一台入ってきていた。人が二人降りて、七号棟のほうへ歩いていく。歩きながら、片方が上を見上げた。
深津は湯呑みに湯を注いだ。注いでから、茶葉を入れていないことに気づいた。




