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第七号棟の夜  作者: 卓哉
第二章 聞き取り

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第十話 報告書

 様式は前の日のうちに届いていた。


 事故報告書。表に日時と場所、下に経緯の欄がある。経緯の欄は罫線が十行あって、深津は三行目で止まっていた。


 夜9時20分、団地全体が停電。復旧は10時ごろ。ここまでは自分で見ている。書ける。


 次の行が書けない。


 停電の時刻を、住民は誰も同じように言わない。夕飯の途中だったという人、もう寝ていたという人、テレビの野球がちょうど終わったところだったという人。復旧の時刻に至っては、一時間近く幅がある。深津は三日のあいだに七軒を回り、七つの時刻を持ち帰った。どれも嘘ではない。どれも確かでもない。


 管理会社の把握した限りでは、と前置きを付ければ、この欄は埋まる。埋めて出せば、たぶん誰も何も言わない。


 ペンを置いて、深津は罫線を見ていた。




 茅野(かやの)が来たのは、三日後の午後だった。


 集会所の引き戸を開けると、まず外の泥を落とし、それから中を見回した。パイプ椅子、スチール棚、床の沈むあたり。見終わってから、いちばん手前の椅子に座った。


「工程は」


「変更はありません」深津は言った。「退去の面談が二件、今週にずれ込んでいます。ほかは予定どおりです」


「そうか」


 茅野は鞄から書類を出し、机に置いて、角を揃えた。三枚重なっていた紙の端が、一度で揃った。


「警察の話をする。うちとしては、事件性は低いという見方で聞いている」


「……はい」


「本人は半年前に母親を亡くしている。20年前に弟を亡くした場所へ、解体前に戻ってきた。住民を訪ね歩いて、ほとんど断られている。停電の夜に、その場所から落ちた。目撃者はいない。争った跡もない。うちが聞いている限りでは、そういう並びだ」


 並びとしては、通っていた。深津は湯呑みを二つ出し、片方に湯を注いだ。茅野は手をつけなかった。


「一点、申し上げておくことがあります」


「言え」


「前日の夜、私は本人と話しています。翌朝10時に事務所へ寄ると約束していました。手帳に書いてあります」


 茅野は書類から目を上げた。


「警察には」


「伝えました」


「では、うちからは何も足さない」


「……はい」


「深津」茅野は湯呑みのほうへ少しだけ手を動かし、結局取らなかった。「予定を立てていた人間が死ぬのは、珍しいことではない。前の日に旅行の予約をしていた人もいる。それは、どちらの証拠にもならない」


 言い方は、責める調子ではなかった。工程表の数字を読むときと同じ調子だった。


「分かっています」


「分かっているなら、いい」




 報告書の話になった。


 会社としても、退去期間中に敷地内で人が亡くなった以上、経緯をまとめた書類が要る。原因の認定は警察と検視の仕事であり、会社が書くのは、いつ、誰が、何をしたか、住民に何を周知したか、工程にどう影響したかである。


「様式は本社から来る。書けるか」


「書けます。ただ、聞き取りが要ります」


「どのくらい」


「七号棟の、あの夜に在宅していた世帯です。停電の時間帯に外にいた方がいるかどうかも含めて」


 茅野は少し黙った。


「なぜ、そこまでやる」


 深津は答えるまでに一拍置いた。


「揃わないんです」


「何が」


「あの夜のことを、住民の方に何人か聞きました。全部、違うことを言われます。9時前に停電したという人と、10時過ぎだったという人がいます。外にいた誰かを見たという人が三人いて、三人とも別の人を見ています。誰かが誰かから聞いた話を、自分が見たように話している方もいます」


「よくあることだ」


「よくあることです。ですが、このままでは、報告書の経緯の欄が書けません。時刻が一つに決まらないので」


 言いながら、深津は自分の言葉が半分だけ本当だと分かっていた。


 報告書は、書こうと思えば書ける。管理会社の把握した限りでは、と前置きをして、確認できた事実だけを並べればいい。書けないのではない。決まらないまま提出することが、できないだけだった。


 茅野は書類の角をもう一度揃えた。


「工程を遅らせない範囲でやれ。退去の面談と一緒に回れば、余分な訪問にはならない」


「そうします」


「深津。お前、この団地に住んでいるんだったな」


「はい」


「近くていいな。通勤時間がゼロだ」


 茅野はそれ以上聞かなかった。なぜここを選んだのか、いつから住んでいるのか、どういう縁があるのか。聞かれれば答えるつもりでいたが、聞かれなかった。この人は、必要のないことを聞かない。それは配慮なのか、単に関心がないのか、三年一緒に働いていても、深津にはまだ分からなかった。


「一つだけ言っておく。うちは調査機関ではない。原因を突き止めるのは警察だ。住民に、原因を聞いて回っていると受け取られる形にはするな」


「はい」


「言い方を間違えると、住民同士の話になる。この団地は、あと四か月あの人たちが暮らす場所だ」


 茅野は立ち上がった。引き戸のところで振り返って、外を指した。


「あちらは警察の方だ。今朝から来ている」


 窓の外、桜の並木の手前で、コートの男が住民と話していた。一号棟のほうから来た年配の女性で、男は手帳も出さずに、うなずきながら聞いている。話が終わると、女性は歩き去り、男はその場に立ったまま、七号棟のほうを見た。


「うちの窓口は私だ。あの方が何か聞きに来たら、私に回せ」


「分かりました」




 茅野が帰ってから、深津は名簿を作った。


 七号棟は40戸。すでに退去した世帯を除くと、あの夜に人が住んでいたのは28戸である。そのうち、日中の訪問で在宅を確認できているのが19戸。


 様式の左端に戸番を書き、右に世帯主の名前を書いていく。書きながら、顔を思い出す。訪問したときにドアを開けた人、開けなかった人、玄関先に置いてある物、名前の書き方の癖。たいていは出てくる。


 尾関。玄関に長靴が二足、いつも同じ位置に揃っている。


 宇野。表札の下に、点検済みの小さなシールを自分で貼っている。


 里村。子どもの傘が下駄箱の横に立てかけてある。同意書は出ているが、転居先の欄が空欄のままだ。


 篠田。表札は親の名前で、本人が出てきたことが一度ある。


 佐久間。一階、階段のいちばん近く。


 3階の、南側の端。


 深津の手が止まった。


 戸番は分かる。同意書は早いうちに戻ってきている。書き方はきちんとしていて、日付の欄も埋まっていた。


 名前を書いた。堀内。


 書いてから、顔を思い出そうとした。


 出てこなかった。


 訪ねてはいる。先月、桑名千尋が3階の外廊下で手すりを見た翌日に、女性を見かけなかったかと聞きに行った。ドア越しではなく、開けて応対してもらった。時刻をずいぶん詳しく答えてくれた。分単位で覚えている人だと思ったことは、覚えている。


 顔が出てこない。玄関のなかがどうなっていたか、背が高かったか低かったか、何も残っていない。


 窓に立っていた人の輪郭のほうは覚えている。カーテンを半分だけ開けて、こちらを見ていた。逆光で、顔は影になっていた。あれが同じ人なのだろうと思ったが、思っただけで、確かめてはいない。


 三年この団地にいて、この棟を何度も回って、話した相手の顔が出てこない。


 深津は名簿の欄外に印をつけた。


 外はもう暗くなりはじめていた。並木の手前に人影はない。警察の男はいつのまにか帰っていた。


 深津は名簿を伏せ、明かりを消して、鍵をかけた。


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