第十一話 点検表
宇野は毎朝、6時に起きる。
教員をしていたころと同じ時刻である。退職して十年たつが、変える理由がない。起きて、雨戸を開け、湯を沸かし、新聞を取りに出る。新聞受けから抜くとき、隣の戸の新聞がまだ入っているかどうかを見る。三日続けて入ったままなら、様子を見に行くことにしている。これまでに二度あった。二度とも、旅行だった。
朝食のあと、バインダーを開く。
自主点検表。自治会の防災担当として、宇野が十年つけてきたものである。月に一度、棟ごとの項目に丸をつけていく。消火器の設置と有効期限、避難経路の障害物、掲示物の更新、非常照明。項目は十二あり、それぞれに実施日と担当者名を書く欄がある。担当者の欄は、十年ぶん、すべて自分の名前で埋まっている。
埋まっていることが大事なのだと、宇野は思っている。
誰かがやったことになっている項目と、誰もやっていない項目は違う。前者は少なくとも、誰の責任かがはっきりしている。学校でも同じだった。行事の書類がきちんと残っている学年は、何かあったときに、どこで判断が分かれたかを追える。残っていない学年は、追えない。追えないことがいちばんよくない。
11月分の欄は、まだ空いていた。
宇野はボールペンを持ち、実施日の欄に日付を入れた。今日の日付である。項目を上から順に見て、丸をつけていく。消火器、丸。避難経路、丸。掲示物、丸。
非常照明。
ペンが少し止まった。それから、丸をつけた。
昼過ぎに、マイが来た。
ごみの分別の紙を持っている。来月から粗大ごみの出し方が変わるという通知が入って、読んだが分からなかったのだという。
「これは、何のごみですか」
マイが指したのは、こたつの天板だった。写真ではなく、文章のなかの一行を指している。
「天板だけでしたら、粗大ごみです。ただし、脚と分けて出す場合は、脚のほうは金属になりますので、別の日です」
「別の、日」
「そうです。分けて出せば、脚は資源です。分けなければ、両方とも粗大ごみで、手数料がかかります。分けたほうが安い」
マイはうなずいて、紙の余白に何か書いた。ペンを持つとき、宇野の手元をちらちら見る。宇野は自分の指がどこを指しているかを確かめながら、ゆっくり動かした。
「難しい言い方をする通知です」宇野は言った。「私も読み返しました。あれは、書いた人が分別を知っている前提で書いています。知らない人が読むと分かりません」
「そうですか」
「そうです」
教えると、たいていの人は覚えて帰る。次からは自分でできるようになる。それでいいのだと思う一方で、覚えられてしまうと来なくなるな、とも思う。思ってから、宇野はその考えを打ち消した。
「あの夜のことですが」マイが言った。
「はい」
「私は、何も見ていません」
宇野は湯呑みを置いた。
「聞かれましたか」
「管理会社の方が、順番に回っていると」
「回っています。私のところへも来ました」
「はい」
「見ていないなら、見ていないと言えばよいのです」宇野は言った。「見ていないことを言うのは、嘘ではありません」
マイはしばらく黙っていた。それから、ありがとうございます、と言って帰った。紙は持っていったが、余白に書いたことを、宇野は読めなかった。
深津が来たのは、その日の夕方だった。
玄関先で立ったまま話すつもりらしかったので、宇野は上がってもらった。話が長くなる場合、玄関では正確に話せない。
「停電のあった夜のことをうかがっています」
「9時20分です」
「……はい」
「私は台所におりまして、電気が消えたとき、時計を見ました。壁の時計です。電池式ですので、止まっておりません。9時20分でした。復旧は10時2分。これも見ました」
深津は書き取った。書き取る速さが、宇野の話す速さに追いついている。この人は、聞き慣れている。
「そのあと、外へ出られましたか」
「出ておりません。懐中電灯を持って廊下は見ました。廊下の非常灯は点いておりましたので、階段のあたりまでは見えました。人はおりませんでした」
「階段のあたり、といいますと」
「3階の階段の降り口までです。それより下は、見ておりません」
「その先の、階段室のなかは」
「見ておりません」
深津の手が止まった。止まってから、次の質問が来た。
「階段室の非常灯ですが」
来た、と思った。
「あれは、灯具が床に置かれています。防災訓練のときにも、そのままでした」
「置かれております」
「いつからでしょうか」
「三年前です」宇野は言った。「業者が交換の見積もりに参りまして、そのときに外しました。見積もりは出ましたが、金額が折り合わず、工事は行われませんでした。外した灯具はそのまま置いてあります。持ち帰らなかったのは業者の側です」
「会社のほうには」
「その時点の管理会社へ、私から書面で申し入れております。控えもございます。回答は、建て替えの計画が動いているので、それに合わせて検討する、というものでした。書面の日付も残っております」
「……そうですか」
「そうです」
深津は何か書き、それから顔を上げた。
「点検表には、どのように記入されていますか」
宇野は立ち上がり、バインダーを持ってきた。開いて、今月の欄を見せた。
「非常照明の項目です。丸がついております」
「灯具が床にある状態でも、丸ですか」
「私の担当は、自治会の自主点検です。灯具の設置状態を判定するのは、有資格者による法定点検の範囲になります。私が見ているのは、非常照明が存在しているかどうか、そこに電源が来ているかどうかです。あれは床にありますが、通電しております。夜、下から光っております。ですから、存在しており、作動しております」
「作動している」
「作動しております」
言葉を選んで言ったつもりだった。実際、選んだ。三年間、月に一度、あの項目に丸をつけるたびに選んできた言葉である。嘘は書いていない。書いていないことが、宇野にとっては重要だった。書かなかったことは、書けと言われなかったことである。
深津は少し黙っていた。この人は、間を空ける。詰めてこない。
「分かりました」
「不備があれば、記録に残ります」宇野は言った。「残っておりません」
深津は帰り際、玄関でもう一度礼を言った。宇野はドアを開けて、その背中が階段のほうへ行くのを見送った。
夜になってから、廊下へ出た。
懐中電灯は持たなかった。3階の端から階段の降り口まで、いつも歩く距離である。
階段室の入り口のところで、宇野は立ち止まった。
なかは暗い。床の隅に、灯具が置いてある。緑がかった弱い光が、下から段の縁を照らしていて、そのぶんだけ、上のほうが黒く見える。
自分の影が、壁に伸びていた。頭のところが天井まで届いて、そこで折れ曲がっている。首から上が異様に長い。宇野は一歩下がった。影も動いた。
作動している。
その言葉は正しい。正しいが、正しさの範囲がどこまでかを決めたのは自分である。決めたことを、誰かに確かめてもらったことは一度もない。確かめてもらう仕組みが、この団地にはない。
あと五か月で、この建物はなくなる。
宇野は部屋へ戻り、バインダーを開いて、今月の欄をもう一度見た。日付、担当者名、十二の丸。どこにも訂正の跡はない。
閉じて、棚へ戻した。




