第十二話 三つの時刻
尾関の部屋は、玄関を入ってすぐの三畳が物置になっていた。
自治会の書類が段ボールで六箱、壁沿いに積んである。いちばん上の箱に、油性ペンで年度が書いてあった。二十年近く前のものだった。
「あんた、深津さんだったね」
「はい、深津です」
「深津さん。座りなさい」
通されたのは奥の六畳で、窓が南に向いている。座布団を出され、深津は正面ではなく、少し斜めの位置に座った。窓のほうを向く形になる。
「停電の夜のことをうかがっています」
「私は見たよ」
尾関は座る前にそう言った。座ってから、もう一度言った。
「見た。あの晩、外に人がいた」
「何時ごろでしょうか」
「電気が消えて、しばらくしてからだ。時計は見ていない。見なくても分かる。私はこの団地に四十年住んでるんだ。夜の音でだいたいの時間が分かる。ごみの収集車が来る朝は別だが、あれは早すぎるからな。とにかく、しばらくしてからだ」
「どちらの方角でしょうか」
「そこの窓から見えた」
尾関は窓を指した。深津は膝でにじり寄って、外を見た。
七号棟の東側の側面と、その手前の駐輪場の屋根が見える。街灯が一本。この位置なら、棟の入り口のあたりまでは視野に入る。
ガラスに、部屋のなかが薄く映っていた。座布団と、尾関の背中と、その向こうの段ボールの角。外の景色と重なって、二つの像がずれて見える。深津は顔の位置を少し変えた。像も動いた。
「男だ」尾関が言った。「ジャンパーを着ていた。うちで配ったやつだよ。あれは反射のテープが付いてるから、暗くても分かる」
「どなたか、お分かりになりましたか」
「最初は佐久間さんかと思った」
深津はペンを止めた。
「ですが」
「あの人は家にいたと言ってる。私も聞いた。だから違う。佐久間さんじゃないなら、宇野さんかと思ったが、宇野さんも家にいたそうだ。ほかに、あの時間に外を歩く人間はいない」
「では」
「知らない男だ」尾関は言い切った。「うちの団地の人間じゃない。解体の下見か何かで、外から入ってきたんだろう。あるいは、そういうのに紛れて入ってくる連中がいる。だから私は前から言ってるんだ、夜間の出入りを管理しろと。自治会が強かったころは、そういうことはなかった。門のところに当番を置いてね」
話が三分ほど続いた。深津は、書き取る手を動かさずに待った。
「あの、失礼ですが」区切りのところで聞いた。「暗がりでしたので、見え方が」
「見えたよ」
「はい」
「私は昔から見えるほうだ。目の薬は差しているが、あれは乾くからだ。乾くのと見えないのは違う。夕方は少しにじむがね、夜は逆に見える。暗いところのほうが、はっきりする」
深津はそれを書いた。書きながら、書いたことがそのまま報告書に載る形を考えて、載せられないと判断した。
「この話は、もうしたんだ」尾関が言った。
「どなたにでしょうか」
「佐久間さんだよ。あの人が回ってたから」
「……そうですか」
佐久間が回っている。世話焼きの人だから、住民の話を集めて、こちらへ渡すつもりでいるのだろう。ありがたいことだった。深津は、あとで礼を言おうと思った。
マイの部屋は四号棟の3階だった。
ドアは肩幅ぶん開いた。ジャンパーを配ったときと同じ開き方である。
「お仕事のあとに、すみません」
「はい」
「停電の夜のことを、少しだけうかがえますか」
「停電の、夜」マイは言葉を確かめるように繰り返した。「はい」
「何時ごろ、電気が消えたか覚えていらっしゃいますか」
「9時20分です」
「よく覚えていらっしゃいますね」
「時計を見ました」
マイはドアをもう少し開け、部屋の奥を示した。台所の壁に、丸い掛け時計がかかっている。深津の位置から文字盤が見えた。
9時20分を指していた。
「……止まっていますね」
「はい。停電のときに止まりました。それから、動いていません」
時計の下から、細いコードが壁のコンセントへ伸びている。電池ではなく、電源で動く型だった。停電で止まり、復旧しても、押し直さなければ動き出さない。
「新しいのを買いますが、まだ買っていません」マイは言った。「引っ越しますから」
「そうですね」
深津は手帳に、9時20分停電、と書いた。宇野の証言と一致する。二人の証言が同じ時刻を指しているのは、この三日で初めてだった。
「そのあと、何か音を聞かれましたか」
マイは深津の手元を見た。ペンの先を見ている。
「音は、しました」
「どんな」
「下のほうで、何か。人の声ではありません。物の音です」
「何時ごろでしょうか」
「9時20分です」
深津は顔を上げた。
「停電と同じ時刻ですか」
「時計を見ました」
「……そうですか」
同時だったのだろうか。停電の瞬間に、どこかで何かが倒れたか、落ちたか。あり得る話ではあった。深津は、9時20分に物音、と書いた。書いてから、線を引いて、その横に括弧をつけ、要確認、と書き足した。
「音のあとは、どうされましたか」
マイはドアの縁に手をかけた。かけて、そのまま少し押さえていた。
「寝ました」
「窓の外をご覧になりましたか」
「見ていません」
「そうですか」
「見ていません」マイはもう一度言った。「暗かったので」
深津は礼を言った。ドアが閉まる直前に、マイが何か言いかけたように見えた。見えただけかもしれなかった。閉まったあと、内側で鍵の音が二度した。
事務所に戻って、三つを並べた。
宇野。9時20分に停電。廊下は3階の降り口まで見た。人はいない。階段室のなかは見ていない。復旧は10時2分。
尾関。時刻は不明。しばらくしてから。窓から男を見た。ジャンパー。佐久間ではない、宇野でもない、知らない男。
マイ。9時20分に停電。同じ時刻に下で物音。窓は見ていない。
自分。9時20分に停電。窓から見たが、何も見えなかった。復旧は40分ほどあと。
復旧の時刻が、宇野と自分で合わない。宇野は10時2分、自分は10時ごろ。しかし、これは誤差で片づく。
尾関の見た男は、宇野が廊下から見た範囲にはいない。ただし宇野は階段室のなかを見ていないし、尾関の見たのは棟の外である。矛盾はしない。しないが、確定もしない。
マイの物音が停電と同時だとすると、尾関が見た男は物音より前か後か。判断する材料がない。
深津はペンを置いた。
誰も嘘をついていない。全員が、自分の見た範囲のことを、正直に言っている。それを並べても、あの夜のことは一つに決まらない。決まらないまま、四人ぶんの正直な話だけが手元にある。
もう一つ、確かめておくことがあった。
深津はスチール棚から退去同意書の束を出し、七号棟の分を抜いた。日付順に並べてある。上から見ていくと、同じ日に固まって出ている部分がいくつかあった。
4階の東側が三戸続けて同じ日。その次の週に、5階が四戸。その前の週は、3階の西側から順に。
話の早い棟だ、と最初に思ったときと、同じことを思った。まとまりのいい棟なのだろう。誰かが声をかければ、隣も出す。そういうものだ。
束を戻し、深津は明日の訪問先を書き出した。
いちばん上に、篠田の家を置いた。表札は親の名前だが、前に一度、高校生の本人が出てきたことがある。あの夜、外にいた人がいるとすれば、いちばん外にいそうな年頃だった。




