第十三話 端を歩く
階段は、端を歩けば鳴らない。
真ん中を踏むと、段の裏の空洞に響いて、上まで届く。壁のほうへ体を寄せて、足の外側から下ろせば、ほとんど音がしない。篠田はそれを、去年の秋に覚えた。
覚えたのは、上の階の住人に注意されたからではない。自分の部屋にいるとき、外の階段を誰かが上がってくる音が、すぐ隣まで来たように聞こえることがあって、開けてみると誰もいない。上の階の人が上がっているだけだった。それが何度かあってから、逆のことを考えた。自分が下りる音も、どこかの部屋のすぐ外まで届いている。
だから端を歩く。
夜の11時を過ぎて出るときも、明け方に戻るときも、同じように歩く。誰にも聞かれていないつもりでいるが、聞こえていないかどうかは分からない。分からないから、端を歩く。
その日は、6限が自習になって、早く帰れた。
団地の入り口の手前で、佐久間に呼び止められた。掲示板の前で、めくれた紙を押さえている。
「樹くん、早いね」
「授業なかったから」
「そうか。うちはもう、退去の紙は出てるからね。お母さんが書いて出してくれた。だから心配しなくていいよ」
「そう」
「引っ越し先はもう決まってるのかい」
「知らない」
「そうか」
佐久間はそれ以上聞かなかった。聞かないが、覚えている顔だった。この人は、どの家が紙を出して、どの家が出していないかを、たぶん全部知っている。回っているのを何度も見た。夕方、袋を提げて、一階から順に上がっていく。
「気をつけて帰りなさい」
「うん」
団地の入り口のところで、今度は管理会社の男が立っていた。名簿のようなものを持っている。篠田を見て、こちらへ歩いてきた。
「篠田さん、でしょうか」
「そうだけど」
「管理会社の深津と申します。以前、一度お会いしています」
「知ってる」
鞄を肩にかけ直した。靴の踵は踏んだままだった。直そうとして、やめた。直すと、直したことに気づかれる。
「お時間、五分ほどいただけますか。ご自宅でなくても構いません」
「家じゃなくていいなら」
棟の裏の、自転車置き場の脇へ行った。屋根があるので、風が当たらない。深津は立ったまま、手帳を開いた。
「先月の停電の夜のことをうかがっています」
「何時の話」
「9時20分ごろから、10時ごろまでです」
篠田は自転車のサドルに手を置いた。冷たかった。
「寝てた」
「9時20分に」
「うん」
「早いですね」
「早いとだめなの」
深津は書かなかった。手帳を持ったまま、少し待っている。篠田はその待ち方が嫌ではなかった。急かす大人と、待つ大人がいる。待つほうが少ないだけだ。
「何か、音は聞こえましたか」
聞こえた。
停電のあと、しばらくして、階段のほうで足音がした。上から下りてくる音だった。速くはない。一段ずつ、間を置いて。踊り場のところで一度止まって、それからまた下りていった。篠田は、そのとき部屋にいなかった。
「聞こえない」
「そうですか」
「寝てたって言ったろ」
「はい」
深津は手帳を閉じかけて、閉じずに聞いた。
「ふだん、夜に外へ出られることはありますか」
篠田はサドルから手を離した。
「なんで」
「夜間の見回りを自治会が始めています。もし出られることがあるなら、揃いのジャンパーを受け取っておいたほうが、あとで面倒がないと思いまして」
「面倒って」
「不審者と間違えられます」深津は言った。「間違える側にも悪気はありませんので、そうなると、話が長くなります」
それは、答えになっていた。篠田が聞いたのは「なんで」だったが、返ってきたのは、なぜ聞いたかの説明だった。親に連絡するとは言われなかった。学校に言うとも、家の人はどうしているのかとも言われなかった。
「いらない」
「分かりました」
「持ってると、着ろって言われるだろ」
「そうですね」深津はうなずいた。「必要になったら、事務所にあります。平日でしたら、16時までおります」
それで終わった。深津は礼を言って、七号棟のほうへ歩いていった。篠田はしばらく自転車置き場にいて、それから鞄を持ち直した。
夕方、里村の家の前まで行った。
いつもならドアを二回叩く。今日は、廊下の手前で足が止まった。
ドアの外に、段ボールが二つ積んである。前はなかった。荷造りが始まっている。
叩こうかどうしようか考えているうちに、ドアが内側から開いた。里村が出てきて、廊下で篠田を見て、少し驚いた顔をした。
「ああ、来てたの」
「別に」
「ごめん、今日ちょっと」里村はドアを半分閉めるようにして立った。「片づけしてて、散らかってるから」
「うん」
「ごはん、あるにはあるんだけど」
「食った」
嘘だった。里村は少し黙って、それから、そう、と言った。
部屋のなかで、ひなたが何か言った。里村が振り返って、短く答えた。それから、こちらを見た。
「あのね」
「なに」
「変な言い方になるけど、しばらく、うちに来るの、控えたほうがいいかもしれない」
風が廊下を抜けた。段ボールの上の紐が、少し動いた。
「なんで」
「いろいろ、言う人がいるから」里村は目を合わせなかった。「あの人が亡くなってから、みんな、誰が何をしてたかって話をするようになって。うちにも聞きに来る人がいて。子どももいるし、変なふうに言われるのは」
「俺のせい」
「そうじゃない」里村は早口になった。「そうじゃなくて、私が。私が、面倒に、なりたくないだけ」
言いかけて、そこで止まった。止まったところが、いちばん本当のことのように聞こえた。
「分かった」
「ごめんね」
「別に」
篠田は廊下を戻った。三歩ほど行ったところで、後ろでドアが閉まる音がした。閉まってから、鍵の音がした。前は、鍵をかけるのは夜寝る前だけだった。
夜、篠田は階段室に座っていた。
4階と5階のあいだの踊り場である。ここは風が来ないし、上からも下からも見えにくい。床の隅に非常灯の箱が置いてあって、そこだけ緑がかった光が出ている。膝を抱えて座ると、自分の影が壁の上のほうまで伸びて、天井のところで折れているのが見えた。
携帯の充電は残り四割だった。
家には、11時を過ぎれば帰れる。母親の勤めが遅番の日は、それより早く帰っても構わない。今日は早番だから、いま帰ると顔を合わせる。合わせると、何か言われる。何を言われるかは、その日によって違うので、予測しても意味がない。
下のほうで、扉が開く音がした。
誰かが階段を上がってくる。真ん中を踏む音だった。段の裏に響いて、こちらまで届く。篠田は膝を抱えたまま、動かなかった。
音は3階のあたりで止まり、廊下のほうへ逸れていった。ドアが開いて、閉まる音。それきり静かになった。
あの夜も、こうやって座っていた。
停電で真っ暗になって、非常灯だけが床で光っていた。しばらくして、足音がした。上から下りてくる音だと思った。だから、上の階の誰かが下りてきたのだと思っていた。
思っていた、というだけだ。
この階段は、上の音も下の音も、同じところから聞こえる。篠田はそれを知っている。知っているのに、あのときは考えなかった。
考えたところで、誰に言うわけでもない。あの時間に自分がここにいたと言えば、なぜここにいたのかを聞かれる。聞かれれば、家のことを話さないといけなくなる。
携帯を見た。11時7分。
篠田は立ち上がり、端を歩いて階段を下りた。




