第十四話 ごみ置き場
カラスは、ネットの端が浮いているところから入る。
佐久間は毎朝6時半にごみ置き場へ行って、前の晩に出された袋の上からネットをかけ直す。四隅にブロックを置き、風で浮きやすい南側だけ、もう一つ余分に置く。それだけのことで、荒らされる回数が半分になる。十年以上やっている。
管理人をしていたころは仕事のうちだった。辞めてからも続けているのは、辞めた翌週にネットが二日続けて荒らされて、生ごみが道まで散らばったからである。誰も直さなかった。直す係が誰なのか、誰も知らなかった。
「おはようございます」
通りがかりの女が声をかけていく。四号棟の、下の子がまだ小さい家だ。
「おはよう。今日は寒いね」
「ほんとに。あ、それ、いつもすみません」
「いいんだよ。こんなの、五分だから」
女は行った。佐久間はブロックの位置を少し直し、袋の口が開いているものを一つ縛り直した。
棟へ戻る途中、掲示板の前で足を止めた。解体のお知らせの紙が、右下だけめくれている。画鋲を押し込んで直した。誰かが一度直したらしく、穴が二つ開いていた。
あの人が亡くなってから、二週間になる。
佐久間のところには、いろいろな人が来た。来て、話していく。
あんな若い人が気の毒だ、という話。この団地も長いこといろいろあった、という話。そういえば二十年前にも子どもが落ちたね、あれもこの棟だったね、という話。話しているうちに、たいていの人は自分の身内の病気の話になって、それから帰っていく。
佐久間は聞いていた。聞くのは苦にならない。相手が喋っているあいだ、こちらは湯呑みに湯を足していればいい。
「思い詰めてたんだろうねえ」
尾関はそう言った。
「お母さんを亡くしたばかりでね、弟さんのことを調べに来て、誰にも相手にされなかったんだから。私はね、あのとき自治会として話を聞いてやればよかったと思ってるんだ。窓口を作るべきだったんだよ。昔なら、そういうのは自治会がやった」
「そうだね」
「あんたのところへは来たんだろう」
「来たよ。お茶を出した」
「なんて言ってた」
「昔のことをいろいろ聞かれてね。私も歳だから、覚えてないことが多くて、あまり役に立てなかった」
尾関はうなずいて、それから自治会の話を三十分した。佐久間は最後まで聞いて、帰るときに玄関まで送った。
午後は、棟を回った。
退去同意書の出ていない家に、様子を聞きに行く。会社の若いのが回っているが、あれは書類を渡して受け取るだけだ。書けない事情のある家には、書けない事情がある。それを聞き出すには、玄関先で十分立ち話をするのがいちばん早い。
三階の東側の家では、息子が単身赴任で相談できないという話を三十分聞いた。五階では、犬を連れて行ける部屋がないと言われた。それは調べておくと答えた。実際、不動産屋に知り合いがいる。
どの家でも、最後に同じことを聞かれる。
あの人、どうして落ちたんだろうね。
佐久間は同じように答える。気の毒なことだ、と。それから、あんたのところは戸締まりをしっかりしなさい、と付け足す。付け足すと、たいていの人は安心した顔になる。
帰り道に、出ている紙の枚数を数えた。この棟は早い。私が回っているからだ、と思ったことは一度もない。回るのは当たり前のことだった。
夜は、寝つけない。
布団に入って一時間ほどして、いったん眠る。それから2時ごろに目が覚める。目が覚めると、そのあとは天井を見ている。
この部屋の天井には、電気の傘の陰でできる輪が一つある。何年も同じ位置にある。輪を見ながら、佐久間はいつも同じことを考える。
あのとき、言っておけばよかった。
それだけのことだった。言っておけば、誰も困らなかった。手間でもなかったし、恥をかくことでもなかった。ただ、言わなかった。言わないうちに時間がたって、時間がたつと、言い出す形が見つからなくなった。
いつのことを言っているのか、自分でも曖昧になっている。
二十年前のような気もするし、先月のような気もする。どちらでも同じことのように思える。同じ形をしているからだ。言えば済んだのに、言わなかった。それだけが、二度あった。
三日前に、警察の人が来た。若い人と、年配の人。近所の様子を聞かれ、あの晩どうしていたかを聞かれた。家にいましたと答えた。それで終わった。帰り際に、何か思い出したらここへ、と紙を置いていった。番号が印刷してある紙である。
佐久間はそれを台所の引き出しに入れてある。
起き上がって、引き出しを開けた。
紙を出して、電話の前へ持っていった。受話器を取って、耳に当てた。発信音がしている。
押す順番は分かっている。夜中でも誰かが出るのだろう。出たら、何と言うか。
私は、あのとき、と言いかけて、その先を考えた。
考えると、話が長くなる。二十年前のことから話さないと、順番が合わない。順番が合わないと、聞いているほうが分からない。分からないと、聞き返される。聞き返されたら、また最初から話すことになる。
佐久間は受話器を戻した。
紙は、引き出しに戻さず、電話機の下に敷いた。
翌日の夕方、廊下で里村と会った。
彼女は洗濯物を取り込んでいるところだった。子どものものが多い。取り込みながら、こちらを見て、それから手を止めた。
「佐久間さん」
「ああ」
「大丈夫ですか」
佐久間は自分の顔に手をやった。
「顔色が、よくないみたいで」
「歳だからね。夜、寝られないんだよ」
「私もです。子どもが夜中に起きるので」里村は洗濯物を胸に抱えた。「でも、佐久間さん、この二週間ずっとです。前に見たときも、そうでした」
見ていたのか、と思った。
この人は、あまり人と話さない。棟の集まりにも来ないし、廊下で会っても会釈だけで通る。転居先がまだ決まっていないことは知っている。同意書の欄が空いたままなのを、少し前に聞いた。
「心配してくれるのかい」
「あの、すみません、余計なことを」
「いや」
佐久間は首を振った。
「ありがたいよ」
「無理しないでください。佐久間さんに何かあったら、みんな困りますから」
みんな困る。
その言葉が、思っていたより深いところへ入った。
里村は洗濯物を抱え直して、それじゃあ、と言って部屋へ入っていった。ドアが閉まった。
佐久間は廊下に立っていた。
下の階から、子どもの声がした。誰かが自転車を出していく音。5階のほうで、洗濯機が回っている。夕方の音が、いつもと同じ順番でしている。
自分がいなくなったら、ごみ置き場のネットは誰が直すのか。掲示板の画鋲は。転居先の決まらない家は、誰が話を聞くのか。会社の若いのが回っているが、あれは書類の係だ。書類でどうにかなる家と、ならない家がある。
佐久間はそれを、責任だと思っている。
思ってから、部屋へ戻った。
電話機の下から、紙を引き抜いた。
番号を見た。見て、引き出しを開け、いちばん下の、輪ゴムや古い保証書が入っているところへ、その紙を入れた。上から何枚か紙をかぶせた。
捨てはしなかった。捨てると、また要るようになったときに困る。
それから茶を淹れて、退去同意書の出ていない家を頭のなかで数えた。七号棟で二軒。四号棟と六号棟にも何軒かある。里村の家は出ているが、転居先の欄が空いている。あれは、出ていないのと同じだ。
明日、様子を見に行こう。
行って、いきなり転居の話をすると身構えるから、まず子どものことを聞く。そのほうがいい。
佐久間は湯呑みを片づけ、雨戸を閉め、床に就いた。
その夜は、2時に目が覚めなかった。




