第十五話 新しいところ
規制の黄色いテープが外れたのは、月曜の朝だった。
現場検証は先週のうちに終わっている。自転車置き場の脇の植え込みは、踏み荒らされたところがそのままになっていて、土が黒く出ていた。深津は工程表を持って立ち、写真を三枚撮った。原状の記録である。解体まで直すことはないが、記録は残す。
植え込みを撮ってから、上を見た。
3階の外廊下へ上がった。
階段は北向きで、この時間はまだ冷たい。踊り場の落書きの前を通り、3階へ出て、階段寄りの手すりのところへ行った。
支柱の根元が、直っていた。
欠けていたコンクリートの周りに、モルタルが詰めてある。色が違うので、そこだけ白く浮いている。表面を指で押すと、もう固まっていた。乾き方から見て、数日は経っている。
手すりに手をかけ、軽く押した。
動かなかった。あの日、桑名千尋が押したときは、支柱の根元で軋んだ。いまは音もしない。
深津はしゃがんで、モルタルの縁を見た。均し方が丁寧ではない。プロの仕事ではなく、金鏝ではなく、木の板か何かで撫でたような跡がある。周りに養生をした形跡もなく、床に少しはみ出て、そこも一緒に乾いていた。
立ち上がって、写真を撮った。
撮りながら、頭のなかでは別のことを考えていた。手配の記録が要る。会社が発注したのなら伝票があるはずで、なければ自治会か、あるいは住民が自分で直したことになる。工事として扱うかどうかで、書類の書き方が変わる。
事務所に戻って、本社へ問い合わせた。
補修の発注はしていない、という返事だった。担当者は工事課へ回してくれたが、そちらでも同じ答えだった。解体予定の建物に対する補修は、原則として計上しない。緊急を要する場合は事前の申請が必要で、申請は上がっていない。
深津は茅野に連絡した。
「うちは出していない」茅野は言った。「自治会だろう」
「自治会には、そういう予算が」
「予算の話じゃない。人が落ちた場所だ。ぐらついていたら、直す人間はいる」
「……はい」
「誰が直したかを調べる必要があるか」
深津は少し考えた。
考えたことは、順番に並べられる。第一に、勝手な補修は本来なら報告が要る。第二に、報告がなくても、危険箇所が是正されたのであれば、会社としての不利益はない。第三に、直した人を探し出して、なぜ勝手にやったのかと問えば、その人は責められたと受け取る。第四に、この団地はあと四か月で空になる。
「ないと思います」
「じゃあ、そうしろ。写真は残しておけ」
「残します」
電話を切った。
手帳を開いて、今日の欄に書いた。3階外廊下、手すり支柱、補修済みを確認。発注記録なし、写真三枚。
その下の、原因の欄に当たるところは空けた。書く欄ではなかったからである。
夕方、念のため、宇野にも聞いた。廊下で会ったときに、立ち話の形で聞いた。
「3階の手すりですが、補修されていました。自治会でご手配いただいたものでしょうか」
「いいえ」
「そうですか」
「自治会の予算からは出しておりません。出していれば、支出の記録が残ります。残っておりませんので、自治会ではありません」宇野は袖のあたりを直した。「どなたかが個人でされたのだと思います。そういうことは、ときどきあります。去年は一階の網戸を直した方がいました。名乗り出ませんでした」
「そうですか」
「あれは、直っているのなら結構なことです」
深津は礼を言った。
直っているのなら結構なこと。そのとおりだった。危険な箇所が是正され、誰も損をしていない。
午後に、千尋の従姉という人が来た。
六十近い女性で、遠方から来たという。ホテルの部屋の荷物はすでに引き取り、あとは団地に関わるものだけが残っている、と言った。
「あの子、ここに何度も来ていたそうで」
「はい。何度かお会いしました」
「私は、あの子の母親の妹の娘なんです。血はつながっていますけど、もう長いこと会っていなくて。葬儀も、私が出さないと誰も出す人がいないから」
女性は紙袋を膝に置いた。中身は書類のようだった。
「これ、ホテルの机にありました。全部この団地のことです。二十年前の新聞のコピーとか、一覧表みたいなものとか。あと、これは」
紙袋から、古い家計簿が出てきた。表紙が布張りで、角がすり切れている。
「叔母のものです。あの子の母親の。家計簿なんですけど、余白にいろいろ書いてあって」
深津は手を出さなかった。
「私が持っていても、仕方がないんです」女性は言った。「読んでも、私には何のことか分かりませんし。捨てるのも、なんだか」
「……お預かりします」
言ってから、預かる根拠を探した。会社として遺失物を保管する規定はある。ただしこれは遺失物ではない。遺族が処分に困って置いていくものを、担当者が受け取る規定はない。
「保管の期限がありますので、それを過ぎましたら」
「捨ててくださって構いません」
女性は紙袋ごと置いて、帰った。玄関の外で一度振り返って、七号棟のほうを見て、それから並木のほうへ歩いていった。
深津は紙袋を机に置いた。
封は開いていた。中身は見ようと思えば見える。いちばん上に、A4の一覧表があって、日付と、場所と、確認済みかどうかの欄が並んでいた。未確認の欄に、細かい字が入っている。
視線を落とせば読めた。読まなかった。
これは調査資料である。会社の報告書に使うものではない。使えば、原因を調べていることになる。原因を決めるのは警察で、うちは調査機関ではない。
そう思ったのは本当だった。本当だったが、それだけではなかった。
あの人が半年かけて作ったものを、いま自分が読むと、何かが確定してしまう気がした。何が確定するのかは分からない。分からないものを、業務時間中に開くことはできなかった。
深津はスチール棚の下の段を開けた。引き継ぎ目録のファイルの隣に、紙袋を立てて入れた。上に「桑名様 遺品 保管」と書いた紙を貼り、日付を入れた。
棚を閉めた。
夕方、七号棟の下を通った。
佐久間が掲示板の前にいた。防災訓練の古い紙を剥がして、丸めている。
「悠一くん」
「お疲れさまです」
「上、直ってたろう」
深津は足を止めた。
「手すりですね。ご存じでしたか」
「見たよ。誰かが直したんだね。あんなところ、ぐらついてたら危ないからね。子どもが乗ったら大変だ」
「そうですね」
「誰がやったんだろうね」
佐久間は丸めた紙を袋に入れた。
「まあ、この団地はそういうところだよ。誰かが気づいて、誰かが直す。昔からそうだった。名乗り出るような人はいない」
深津はうなずいた。
その言い方は、この団地に長くいる人の言い方だった。実際、そういうことは何度もある。切れた電球が翌日には替わっている。植え込みの空き缶が拾われている。誰がやったかは分からない。分からないままで、誰も困らない。
「では、失礼します」
「風が冷たいから、早く帰りなさい」
深津は集会所へ戻った。
戻る途中、もう一度3階のあたりを見上げた。この角度からでは、補修したところは見えない。給水管の陰になっている。
白いモルタルの色を、頭のなかでもう一度見た。
あれが乾くまでには、何時間かかかる。均したときは柔らかかったはずで、その時間、誰かがあそこにしゃがんでいたことになる。
深津は集会所の鍵を出した。
出しながら、その考えを、書かない欄のほうへ入れた。




