第十六話 一覧表
一覧表は、横が七列になった。
左から、氏名、戸番、停電の時刻、復旧の時刻、その間にいた場所、見聞きしたもの、確認の可否。行は十九ある。七号棟の在宅世帯のうち、これまでに話を聞けた数である。
深津は、埋まっていない欄に斜線を引いていった。引き終えて、上から読み直した。
停電の時刻は、9時20分が七件、9時ごろが四件、9時半ごろが三件、覚えていないが五件。復旧は、10時ちょうどから10時半までのあいだに散っている。宇野の10時2分がいちばん細かく、それ以外は分単位で答えた人がいない。
その間にいた場所は、ほとんどが自室である。廊下へ出たと答えたのが三件。外へ出たと答えたのは、一件もない。
問題は、六列目だった。
四階の東側の家。窓の外に人が立っていたように見えた。ただし窓は閉めていたし、暗かった。
二階の西側の家。階段のほうで足音がした。上から下りてくる音だと思った。確かめには出ていない。
五階の家。廊下に出たら、階段室の入り口に背の高い人影が立っていた。声をかけようとしたら、いなくなっていた。この人は「背が高かった。二メートル近かったと思う」と言った。
三階の別の家。窓ガラスに人が映ったので、後ろを振り返った。誰もいなかった。
尾関。ジャンパーを着た知らない男。
マイ。9時20分に下で物音。
六列目が空欄の家もある。
里村の行が、そうだった。停電の時刻は9時ごろ、場所は自室、見聞きしたものは、なし。聞きに行ったとき、彼女はドアを半分開けて、子どもが起きるので、と小声で答えた。
「音とか、何か気づかれたことは」
「ありません」
「廊下に出られたことは」
「ないです」
答えは早かった。早いのに、そのあとで一度、深津の背後の廊下のほうを見た。目だけが動いた。深津も振り返ったが、誰もいなかった。
子どもの声が奥からして、話はそこで終わった。母親が子どもを寝かせている時間に長居はできない。深津は礼を言って引き上げた。
一覧表には、なし、と書いた。書きながら、この家は聞き直さなくてよいと判断した。
深津は六列目を上から順に指でたどった。
誰も同じものを見ていない。場所も違う。背丈も違う。ジャンパーを着ていたという人と、そんなものは見えなかったという人がいる。全員が別々のものを見ていて、そのどれも、他の誰かの証言と重ならない。
重ならないものを並べると、どうなるか。
その晩、この棟には、たくさんの人がいたことになる。
最初にその言い方をしたのは、五階の人だった。
深津が二度目の確認に行ったときである。背の高い人影の件で、時刻をもう一度うかがえますか、と聞いた。
「あれね。それでね、深津さん、私、気になってることがあるの」
「はい」
「うちの棟、あの晩、みんな家にいたって言ってるんでしょう」
「多くの方は、そうおっしゃっています」
「じゃあ、私が見たのは誰なの」
深津は答えなかった。
「尾関さんも見てるって聞いたわよ。四階の奥さんも、窓の外に立ってたって。みんな違う人を見てるの。私が見たのは背が高かった。尾関さんが見たのはジャンパーの人でしょう。四階の人が見たのは、窓の外だから、廊下側よね」
「……そう聞いています」
「みんな家にいて、みんな別の人を見てるなら、外にいたのは誰なのよ。うちの棟の人じゃないってことでしょう。七人いて、七人とも別のものを見てるなら、八人目がいたってことじゃないの」
その言葉は、そこで出た。
深津は手帳を持ったまま、しばらく何も書かなかった。書くと、記録に載る。載せる欄がない。
「まだ、確認できていないことが多いので」
「確認できてないから、こわいのよ」
女性は玄関の内側から、廊下のほうを見た。
「あなた、みんなに同じこと聞いて回ってるでしょう。だから、みんな考え始めたのよ」
三日後には、話が回っていた。
深津が誰に何を聞いたか、誰がどう答えたか。それが順番を変えて、少しずつ形を変えて、棟のなかを行き来していた。
二階の家では、こう言われた。
「うちのこと、何か聞かれたって、上の人が言ってましたけど」
「いえ、そういうことは」
「じゃあ、なんで上の人が知ってるんですか。うちが何時に寝たかなんて、私は深津さんにしか言ってません」
深津は説明した。個別の回答を他の方にお伝えすることはありません、と。それは本当だった。ただし、裏を取るために、同じ時間帯のことを別の家で確かめたことはある。その日の9時半ごろ、廊下に出られた方はいらっしゃいますか、と聞いた。聞かれたほうは、誰かがその時間に廊下にいたと言っているのだと受け取る。
受け取ってから、隣に話す。
「あんたが聞いて回るから、こうなったんだよ」
尾関ははっきりそう言った。集会所に来て、パイプ椅子に座らずに立ったまま言った。
「私は前から言ってるんだ。こういうことは自治会がまとめるべきなんだ。あんたところは書類の会社だろう。書類のために人の家を回って、そこらじゅうで同じことを聞いて、それで住民が疑い合うようになった。責任を取れるのか」
「ご迷惑をおかけしています」
「迷惑じゃない。順番の問題だ」
尾関は帰り際に、もう一度振り返った。
「あんた、深津さんだったね」
「はい」
「深津さん。あの外国の子な」
「マイさんでしょうか」
「あの子の部屋の時計が、止まってるそうじゃないか」
深津は椅子から立ち上がった。
「どちらでお聞きになりましたか」
「聞いたんだよ。9時20分で止まってるんだろう。何でそのままにしてるんだ。普通、直すだろう。直さないのは、その時刻を残しておきたいからだと言う人がいる」
「停電で止まったままにしてあるだけです。もうすぐ引っ越されるので」
「そういうことにしておくならいいがね」
尾関は行った。
深津は椅子に座り直した。マイの時計のことを話したのは、自分ではない。あの部屋のドアは肩幅ぶんしか開かない。文字盤が見えるのは、あの角度に立った人間だけである。
立ったのは、自分だった。
誰にも話していない。話していないが、手帳には書いた。手帳は事務所の机に置いてある。机の前には、住民が座る。座って、待っているあいだ、こちらは湯を沸かしに立つ。
その週の終わりに、四号棟のほうで小さな諍いがあった。
ごみの出し方をめぐる話だったと聞いた。もともとあった揉め事らしいが、そこに、あの晩あなたはどこにいたのか、という言葉が混じった。混じってしまうと、ごみの話には戻らない。
深津のところへは、両方の家から電話が来た。どちらも、相手が自分を疑っていると言った。
週明け、七号棟の掲示板に紙が貼られた。自治会の名前で、根拠のない噂を広めないように、という文面だった。宇野の字だった。丁寧で、正確で、誰のことも指していない文面である。
その紙は、二日後には剥がされていた。
誰が剥がしたかは分からない。この団地では、誰かが気づいて、誰かがやる。名乗り出る人はいない。
深津は一覧表を机に広げ、十九行を上から見た。
いちばん下に、まだ話を聞けていない家の欄がある。留守が続いている家が二軒と、断られた家が一軒。それから、3階の南側の端。
堀内の行だけが、すべて空欄のままだった。




