第十七話 訂正
噂は、三日で自分のところまで届いた。
最初に言ったのは誰か分からない。夜に出歩いている高校生がいる、という話だったのが、次に聞いたときには、あの晩も外にいたらしい、になっていた。学校から帰る途中、一階の廊下で二人が話しているのが聞こえた。篠田が通ると、二人は話をやめた。やめてから、片方が会釈をした。
その会釈が、いちばんこたえた。
夜、階段室へ行くと、踊り場の隅に空き缶が置いてあった。前はなかった。誰かが、ここに人が座っていることを知っていて、わざと置いたのかもしれないし、ただ置いただけかもしれない。分からないので、篠田はその缶を持って下りて、ごみ置き場に入れた。
次の日、踊り場には何もなかった。代わりに、5階から人が下りてくる時間が変わっていた。いつもは10時半ごろに通る人が、9時前に通った。通るときに、こちらを見た。
居場所というのは、誰も見ていないから居場所なのだと篠田は思った。見られた時点で、そこはもう、座っていい場所ではなくなる。
訂正すると、何を聞かれるか。
順番に考えれば分かる。あの晩どこにいたか。階段室にいた。何時から。9時前から。なぜ。家にいたくなかったから。なぜ家にいたくなかったのか。
そこで止まる。
母親は、聞かれれば答えるだろう。答え方は分かっている。反抗期で、と言う。夜遊びをしていて、と言う。それは嘘ではない。嘘ではないから、否定できない。否定できないまま、学校に連絡がいき、担任が話をしに来て、家庭訪問の日程が決まる。決まったあとのことは、想像しなくても分かる。前に一度あった。
だから言わない。
言わない理由は正しい。正しいのに、階段を下りるたびに、あの足音のことを考える。
上から下りてきた音だと思った。だから、上の階の誰かが下りたのだと思っている。
思っているだけだ。
この階段は、上の音と下の音が同じところから聞こえる。それを知っているのは、たぶん自分だけだ。毎晩、端を歩いて出入りしている人間しか、そんなことは覚えない。
知っている人間が黙っていると、誰も知らないままになる。
その考えは、何度追い払っても戻ってきた。
木曜日の夕方、団地の入り口でひなたを見た。
里村と手をつないでいない。いつものように袖をつかんで歩いている。買い物の帰りらしく、里村は袋を二つ提げていた。
ひなたが先にこちらに気づいて、手を挙げた。挙げてから、名前を呼ぼうとして、口を開けた。
里村が振り返った。
篠田を見て、それから、ひなたの肩に手を置いた。何か短く言った。ひなたは手を下ろし、里村の袖をつかみ直して、歩き出した。二人は棟のほうへ行った。
ひなたは一度だけ振り返った。里村は振り返らなかった。
篠田はその場に立っていた。責める気にはならなかった。あの人は、子どもを守るために面倒を避けている。面倒というのは、いまのところ自分のことだ。
失うものは、もう失った。
そう考えると、話が少し簡単になった。
金曜日、篠田は集会所へ行った。
16時までいる、と言われていた。着いたのは15時40分だった。引き戸を開けると、深津は机で書類を見ていて、顔を上げた。
「篠田さん」
「まだやってる」
「やっています。どうぞ」
パイプ椅子を出された。篠田は座らずに、机の前に立った。
「前に聞かれたやつ、あれ、嘘」
深津は書類を伏せた。
「寝てたって言ったけど、寝てない。あの晩、階段にいた」
「階段室ですか」
「4階と5階のあいだ。踊り場のところ」
「何時ごろからでしょうか」
「9時前から。11時くらいまで」
深津は手帳を出した。出したが、すぐには書かなかった。
「足音、聞いた」篠田は言った。「停電してから、しばらくして。誰かが階段を下りてきた」
「下りてきた」
「そう思った。でも、違うかもしれない」
「といいますと」
「あの階段、上の音も下の音も、同じところから聞こえる。真ん中踏むと響くから。俺はいつも端歩いてる。だから、音がしたとき、どっちから来てるかは、実は分かんない」
深津のペンが止まった。
「上から下りてくる音だと思ったのは」
「上に人がいると思ってたから。それだけ」
「……そうですか」
「あと、一階で扉が開く音がした。足音のあと。外に出る扉のやつ。バネが強いから、閉まるとき二回鳴る。あれは間違えない」
「時刻は」
「携帯見た。9時47分」
深津は書いた。書いてから、顔を上げた。
「戻る音は聞かれましたか」
篠田は少し考えた。
「聞いた。同じ音。もう一回。10時20分か、そのくらい。時計は見てない」
「その間、階段室におられましたか」
「いた」
「どなたか、階段室を通られましたか」
「通ってない。俺の座ってるとこ通ったら分かる」
深津は書き終えて、ペンを置いた。
書いたものを一度読み返して、それから聞いた。
「一つ、確認させてください。9時47分に外へ出た人は、階段を使わずに出たことになりますか」
「なるよ」篠田は言った。「一階の人だったら、階段いらないだろ」
深津はしばらく黙っていた。
黙り方が、この前と同じだった。急かさない。詰めない。ただ、こちらが言い終わるのを待っている。
「篠田さん」
「なに」
「この内容は、報告書に載せます。載せるときには、どなたが話されたかも一緒に書きます。書かない形では、記録として使えませんので」
「うん」
「それでよろしいですか」
篠田はポケットに手を入れた。
「学校とか、家とか、言う」
「言いません」深津は言った。「必要になれば、そのときにご相談します。少なくとも、私から先に言うことはありません」
「なんで」
「あなたが、あの時間に階段室にいた理由は、報告書の項目にないからです」
項目にない。
その言い方は、ずるいと思った。ずるいが、そう言われると、何も言わなくて済む。
「あっそ」
「ありがとうございます」深津は言った。「時刻を訂正していただけると、こちらは助かります。分単位で答えていただけたのは、二人目です」
「誰が一人目」
「宇野さんです」
篠田は少し笑いそうになって、やめた。あの人と一緒にされるのは、なんとなく嫌ではなかった。
帰ろうとしたところで、深津が立ち上がった。
「一つだけ、お渡ししたいものがあります」
スチール棚の段ボールから、紺色のジャンパーを出してきた。
「前にお断りになったものです。持っていても着なくて構いません。ただ、夜に外にいるところを見られたときに、これを持っているのと持っていないのとでは、話の長さが違います」
「めんどくさいのが減るってこと」
「そうです」
篠田は受け取った。思ったより軽かった。
「名前、書くの」
「書きません。数だけ数えています」
「ふうん」
引き戸を開けて、外へ出た。
空はもう暗くなりかけていた。集会所の前の並木のところで一度振り返ると、深津は机に戻って、手帳に何か書き足していた。
その夜、篠田は階段室へ行かなかった。
11時まで、駅前のファストフードにいた。ジャンパーは丸めて鞄に入れた。着なかった。
帰る途中、七号棟の下を通ると、一階の廊下に明かりが点いていた。佐久間の部屋の前あたりである。誰かが立って、何かしている。近づく前に、明かりは消えた。
篠田は端を歩いて階段を上がり、部屋へ入った。
母親は起きていた。
「遅い」
「うん」
それだけだった。今日は、それだけで済んだ。




