第十八話 窓から見えるもの
団地は、上から見ていると変わっていくのが分かる。
この二週間で、立ち話の場所が変わった。前は棟の入り口の掲示板の前だったのが、いまは駐輪場の陰か、各戸の玄関の内側になった。人数も減った。三人以上で立っていることがなくなり、たいてい二人になった。二人だと、話している内容が周りに聞こえない。
挨拶の距離も変わった。以前は五、六歩手前から会釈をしていた人たちが、すれ違う直前に短くうなずくだけになっている。
犬を連れた老婦人は、往きの経路を変えた。前は七号棟の下を通っていたのが、いまは駐車場のほうを回っていく。往きが11分だったのが、15分になった。
堀内は、それらを毎日見ている。
見ているが、何も起きていない。誰かが誰かに怒鳴ったわけでもないし、警察がまた来たわけでもない。ただ、人の歩き方が変わった。それだけである。
管理会社の男は、七号棟を何度も回っている。
一階から順に上がってきて、玄関先で話し、書き取り、次の戸へ行く。所要時間は一戸あたり平均して7分ほど。長い家で20分。ドアが開かない家では、名刺を入れて次へ行く。
3階へは、四度上がってきた。
いずれも、うちの前は通り過ぎた。二軒隣までは来る。そこで折り返して、階段へ戻っていく。
堀内はそれを、カーテンの隙間から見ていた。
名簿の順に回っているのだろうと思った。うちは同意書をとっくに出しているし、期日も守っているし、困りごとを申し出たこともない。訪ねる用のない戸である。用がなければ来ない。それが正しい。
正しいのに、四度目に折り返していく背中を見たとき、指がカーテンを強く握っていた。
握ってから、その力を抜いた。
金曜日の夕方、堀内は上着を出した。
クローゼットの奥に、三年前まで着ていたものが掛かっている。袖を通すと、肩のところが余っていた。それだけ落ちたということである。
鍵を持ち、玄関を出た。
階段を下りるのは、四日ぶりだった。買い物は週に二度、まとめて行く。それ以外で外へ出る用はない。
一階へ下りると、佐久間が掲示板のところにいた。目が合ったので、会釈をした。
「おや、堀内さん。お出かけかい」
「はい」
「寒いから、気をつけて」
それだけで、行き違った。堀内は歩きながら、いま自分が名前を呼ばれたことを考えた。この団地で、名前を呼ぶのはあの人だけである。
桜の並木を抜けて、集会所まで、四百十歩ほどあった。実際に数えたのは初めてだった。
引き戸の前で、三十秒ほど立っていた。
開けると、なかは暖かかった。石油ストーブが点いていて、灯油の匂いがした。管理会社の男が机から顔を上げた。
「いらっしゃいませ。どうされましたか」
「……七号棟の、3階の、堀内と申します」
「堀内さん」
男は立ち上がって、パイプ椅子を引いた。
「お寒いなか、わざわざありがとうございます。どうぞ、こちらへ」
堀内は座った。ストーブに近い側だった。
「先月の停電の夜のことです」堀内は言った。「お聞きになりたいことがあるのではないかと思いまして」
「うかがえるのでしたら、ぜひ」
「ただ、その前に、一つ申し上げておかなければなりません。私がなぜ知っているかを申し上げないと、話が信用されないと思いますので」
深津は手帳を開いて、待った。
「私は、三年前から働いておりません」
言葉が、思ったより普通に出た。
「前の勤め先を辞めまして、それきりです。求職の手続きは一度しましたが、続きませんでした。いまは、貯金を取り崩して暮らしております。日中は家にいます。ほとんど、窓のところにおります」
「……はい」
「一日中です。朝は7時20分に一号棟から原付が出ます。7時45分に集団登校があります。子どもは六人で、多い日は八人です。9時に犬を連れた方が出られます。往きが11分、帰りが14分でしたが、今週から往きが15分になりました。経路を変えられたからです」
深津の手が動いた。書いている。
「郵便は14時。御社の方は、月に何度か、決まった曜日ではなく来られます。今月は九度でした。私はそういうものを、覚えるつもりもなく覚えております。ほかにすることがないからです」
言い終わって、堀内は湯呑みのない机の上を見た。
自分の生活を人に話したのは、三年間で初めてだった。話しているあいだ、相手が顔をしかめるか、目を逸らすかすると思っていた。深津は、どちらもしなかった。書いているだけだった。
「ありがとうございます」深津は言った。「では、あの夜のことを、覚えておられる範囲でお願いできますか」
「9時20分に停電しました」
「はい」
「私は窓のところにおりました。カーテンは半分開けております。停電しますと、部屋の明かりが消えますので、ガラスに部屋のなかが映らなくなります。ふだんより、外がよく見えます」
深津のペンが、一瞬止まった。止まって、また動いた。
「9時47分ごろ、下で扉の音がしました。棟の入り口の扉です。バネの音がしますので、それと分かります。そのあと、明かりが動きました。懐中電灯ではありません。もっと小さい光です。携帯の明かりくらいの」
「どちらへ動きましたか」
「棟の下を、東から西へ。それから見えなくなりました。植え込みの陰に入ったのだと思います」
「その方は」
「顔は見えません」堀内は言った。「暗いですし、距離もあります。背丈も分かりません。ただ、光の高さが、腰のあたりでした。手に持っていたのだと思います」
「戻られましたか」
「10時20分ごろに、また扉の音がしました。二度鳴りますので、開いて閉まったのだと分かります。そのときは光を見ておりません」
「復旧の時刻は」
「10時2分です。時計を見ました。壁の時計ではなく、携帯です」
深津は書き取り、それから一度読み返した。
「9時47分の扉の音と、10時20分の扉の音のあいだ、七号棟のなかで明かりの点いた部屋はありましたか」
「四つです」堀内は答えた。「2階の東から二番目。3階の西の端。4階の東から三番目。5階の中ほど。順番に申し上げますと、最初が3階の西で、9時25分ごろ。次が2階、9時半ごろ。4階と5階は、10時に近かったと思います」
「……そこまで覚えておられますか」
「ほかにすることがないと申し上げました」
話が終わると、深津は書いたものを最初から読み返した。
読み返しているあいだ、堀内はストーブの音を聞いていた。三年ぶりに、これだけ長く喋った。喉の奥が少し痛い。
「一つだけ、うかがってもよろしいでしょうか」深津が言った。「なぜ、今日、来てくださったのですか」
堀内は答えを用意していなかった。
用意していないまま、口が動いた。
「四度、通り過ぎられましたので」
深津が顔を上げた。
「うちの前を、です。3階を回っておられるとき、二軒隣で折り返しておられました。四度ともです」
「……申し訳ありません」
「いえ。用がなければ来られないのは、当然です」
「順番の組み直しを、何度かしました。訪問の要る戸から先に回りましたので」
「そうでしょうね」
深津は手帳を閉じ、それから開き直した。
「三年前に、転入の手続きをしていただいていますね」
堀内の背筋が伸びた。
「はい」
「記録を確認しておきます。当時の担当が誰だったか、控えが残っているはずですので」
「……はい」
残っているだろう。控えには担当者の判が押してある。あの日、窓口にいたのはこの人である。保証人の欄で手が止まって、書き直し用の用紙をもう一枚出してくれた。32分かかった。
堀内は何も言わなかった。
言えば、この人は自分が忘れていたことを知る。知れば、たぶん謝る。謝られると、あの32分が、謝られるようなものになってしまう。
「では、失礼します」
「またうかがってもよろしいでしょうか」深津が立ち上がった。「今日の話は、こちらで整理させていただきます。整理するとまた分からないところが出てきますので、そのときに」
「いつでも」堀内は言った。「私は、おりますから」
外は暗くなっていた。
並木を抜けて、四百十歩を戻った。数えなかった。
部屋に入り、明かりを点けずに窓辺へ行った。カーテンを半分だけ開けて、外を見た。
ガラスに、自分が映っている。部屋が暗いので薄い。その向こうに、向かいの棟の窓がいくつか光っている。
停電の夜は、これが映らなかった。
映らなかったから、よく見えた。
堀内は、いま話してきたことをもう一度順番に並べ直した。9時20分。9時25分。9時半。9時47分。10時2分。10時20分。
並べているうちに、数字と数字のあいだに、まだ何かあるような気がした。
何かは分からなかった。
椅子に座り、そのまま長いこと外を見ていた。




