第八話 その夜
千尋は9時前に来た。
昨日までと違って、鞄が薄かった。手帳も封筒も入っていない。中身を置いてきたか、もう要らなくなったかのどちらかだった。
「これから佐久間さんのところへ行きます」
深津は書きかけの欄でペンを止めた。
「お約束ですか」
「していません」
「でしたら、日を改められたほうが」
「改めません」
千尋は椅子を引かなかった。立ったままだった。
「昨日、二軒に断られました。その前は六軒に当たって、四軒は玄関も開けてもらえませんでした。20年前からいる世帯は十戸もない。そのうち話す人はいません。記録は残っていない。物は残っていますが、物は喋りません」
「……はい」
「私が持っているのは、母の書いたものだけです。それを持っている人間に、できることは一つしかありません」
深津はペンを置いた。
「証拠のないまま当たれば、相手は身構えます。身構えられたら、そのあと何も出てきません」
「身構えてくれたほうがいい」千尋は言った。「身構えれば、動きます。動けば、こちらから見えます」
それは、彼女の仕事の言葉だった。深津には返す言葉がなかった。手続きの側から言えることは、日を改めてください、正式な窓口を通してください、それだけで、どれも彼女の残り時間を延ばすだけだった。
「同行します」
「なぜ」
「会社の担当ですので。住民の方に何かあった場合、立ち会っていないと報告が書けません」
千尋は少しのあいだ深津を見て、それから、どうぞ、と言った。
佐久間はドアを開けたとき、まず千尋の顔を見て、それから深津を見た。
「二人でどうしたの」
「うかがいたいことがあります」
「上がりなさい。寒いから」
「ここで結構です」
千尋は上がらなかった。たたきにも入らず、外廊下に立ったままだった。佐久間はサンダルを履き、ドアを半分開けたところで手をかけて立った。
「母の記録があります」千尋は言った。「事故のあと、あなたが家に来た日が全部書いてあります。7回です。3日後、5日後、8日後、10日後、2週間後、3週間後、四十九日の前後。理由が書いてあるのは一度だけです」
「そんなに行ったかね」
「行っています」
「よく覚えていないな。行ったのは確かだよ。あのころ、お母さんが一人でね。誰も来なかっただろう、あの家には」
「誰も来ませんでした」千尋はうなずいた。「あなた以外は」
佐久間はドアの縁を軽く叩いた。二度、間を置いて一度。
「気の毒だと思ったからだよ」
「3階の手すりを見ました。支柱の根元が欠けています。欠け方から見て、あれは去年今年のものではありません。10年でも足りない」
「古い建物だからね」
「20年前も、同じ状態でしたか」
「どうだったかね」
「あなたは管理人でした」
「管理人だったよ」佐久間は穏やかに言った。「だから、あちこち見て回った。見て回って、直せるところは直した。直せないところは、そのままだ。予算のないものは、私が言っても付かないんだよ。それは今も同じだろう。悠一くん」
名を呼ばれて、深津は一歩だけ前に出た形になった。
「……はい」
「今だって、あんたが上に言ったって、直らないだろう」
「……直らないと思います」
千尋がこちらを向いた。
「深津くん」
声の高さは変わらなかった。
「あなたは、あの日この棟にいましたね」
外廊下を風が抜けた。下の自転車置き場で、トタンが鳴った。
深津は口を開いた。
あのとき、と言いかけた。二十年前、向かいの窓に何かが映っていて、それが人の形をしていて、自分はそれを誰にも言わなかった。言おうとして、目の前にいる人の顔を見て、やめた。あのときと同じ角度から、同じ人がこちらを見ている。責めてはいない。怒ってもいない。ただ、待っている。子どものころ、宿題をして待っていろと言われた部屋の鍵を開けてくれた人の顔で、待っている。
「……いえ」
喉から出たのは、それだけだった。
「何も、見ていません」
千尋は何も言わなかった。
佐久間がドアの縁から手を離した。
「送っていってあげなさい」
棟の下まで、二人とも黙って歩いた。
自転車置き場の手前で、千尋が立ち止まった。
「怒っていません」
「……はい」
「見ていないなら、見ていないんです。それだけのことです」千尋は鞄を掛け直した。「私は明日もう一度行きます。今日で、あの人は私が何を持っているか知りました。持っている物が少ないことも知ったはずです。そこからどう動くかを見ます」
「危ないことは」
「昼間に、玄関の外で話すだけです」
深津は手帳を開いた。開いてから、何を書くつもりだったのか分からなくなった。
「明日、こちらへ寄っていただけますか。10時に事務所におります。行かれる前に、一度だけ」
「止めるためですか」
「……順番を、確認するためです」
千尋は笑わなかったが、少し息を吐いた。
「分かりました。10時に寄ります」
歩き出して、三歩ほど行ったところで、彼女は振り返った。
「深津くん。名前、覚えていてくれてありがとうございます」
「え」
「初めてうかがった日、私が名乗る前に、あなたは手を止めました。名字を聞いただけで止まった。この団地で、名字だけで分かった人は、あなたと佐久間さんだけです」
答える前に、彼女は前を向いてしまった。
桜の並木のところで、コートの色が街灯の外へ出て、それきり見えなくなった。
その夜、9時20分に電気が落ちた。
深津は書類を広げていた。急に部屋が黒くなって、冷蔵庫の音が消え、耳のなかが静かになった。携帯を探して、画面の明かりで玄関まで行き、ブレーカーを見た。落ちていない。
ドアを開けると、外も暗かった。
廊下の非常灯だけが点いている。下の階から声がした。誰かが誰かに、団地全部だ、と言っている。別の声が、また停まったのか、と言った。反対側の棟の窓にも明かりはない。外灯も消えていた。
深津は部屋に戻り、窓辺に立った。
向かいの七号棟は、輪郭しか見えなかった。空のほうがまだ明るいので、棟の形だけが黒く抜けている。窓の一つ一つは、どれも同じ黒さで、どこに人がいるのか分からない。ガラスに何も映らない。こちらの部屋にも明かりがないからだった。
昨日まで毎晩そこに立っていた自分の影も、今夜はない。
しばらく見ていた。目が慣れてくると、棟の下の植え込みの形と、自転車置き場のトタンの位置が分かるようになった。それだけだった。動くものはなかった。少なくとも、深津には見えなかった。
窓を開けようとして、やめた。開けても寒いだけだし、開けたところで何があるわけでもない。
携帯の明かりで書類の続きをするのは無理だったので、深津は手帳だけ開いた。
明日の欄に、10時、桑名様、と書いた。
書いてから、様を消して、さんにした。消したところが少し破れた。
電気が戻ったのは、それから40分ほどあとだった。冷蔵庫が鳴り出し、天井の蛍光灯が一度またたいてから点いた。廊下でどこかの部屋のドアが閉まる音がした。
深津は書類を片づけ、湯呑みを流しに置き、歯を磨いて寝た。
寝る前に、もう一度だけ窓のほうを見た。ガラスにはまた自分が映っていた。手を上げると、向こうも同じ高さに手を上げた。深津はカーテンを引いた。




