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第七号棟の夜  作者: 卓哉
第一章 退去

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第七話 夕飯

 米は3合炊いた。


 二人なら2合でいい。里村明日香(さとむらあすか)はそれを承知で3合にして、炊き上がりの半分を先に別の器へ移した。移してから、まだ来るとは限らないと思い直したが、器はそのままにしておいた。


 ひなたはこたつの上で折り紙をしている。折り終わったものを縦に積み上げていて、もう十いくつになっていた。


 「ママ、これなに」


 「なにって、ひなたが折ったんでしょう」


 「かえる」


 「じゃあ、かえるだよ」


 「かえるじゃないかもしれないよ」


 里村は答えずに、味噌汁の鍋の火を止めた。


 こたつの端に、不動産屋の紙が三枚重ねてある。ひなたが折り紙を広げるたびに端が押されて、少しずつ畳の上へずれていく。里村は紙を拾い、もう一度端へ置いた。


 家賃はどれも今より高い。それは仕方がない。問題は初期費用の欄で、三枚のうちいちばん安いものでも、いま口座にある額を超えている。保証人の欄は空のままにしてある。書ける名前が思いつかない。


 勤め先には来月からシフトを増やしてほしいと頼んである。返事はまだない。


 この話を、深津には言っていない。会社の人に生活の中身を話すと、そこから何かが決まってしまう気がする。決まってしまうと、こちらの都合はもう聞いてもらえない。


 だから、聞かれた範囲でだけ答えることにしている。転居先は探しています。期限は分かっています。それ以上は言わない。


   


 7時前に、ドアが二回鳴った。


 ノックの数と間隔で分かる。里村は玄関へ行き、鍵を開けた。


 篠田樹(しのだいつき)は制服のままだった。鞄を肩から下げ、靴の踵を踏んでいる。


 「上がって」


 「うん」


 それだけで、彼は入ってくる。名前を呼ばない。里村も呼ばない。最初の夜からそうなった。呼ぶと、これが何かの形になってしまう。


 篠田はこたつの、いつもの位置に座った。ひなたが折り紙を一つ差し出した。


 「かえる」


 「かえるじゃないだろ、これ」


 「かえるじゃないかもしれない」


 「どっちだよ」


 ひなたが笑った。篠田は折り紙を受け取り、こたつの隅へ置いた。捨てなかった。


 里村は器を出し、汁をよそった。おかずは煮物と、卵焼きの残りと、買ってきた春雨のサラダ。篠田は箸を持つと、ほとんど喋らずに食べる。食べる速さがひなたの三倍あるので、いつも彼が先に終わって、そのあとを待つことになる。


 「学校は」里村は聞いた。


 「行ってる」


 「そう」


 「聞いてどうすんの」


 「別に。聞いただけ」


 篠田は湯呑みを両手で持った。それ以上は聞かない。彼の家のことは、この部屋では話題にしない。里村がそう決めたわけではなく、二度ほど聞こうとして、二度とも短く切られたので、そのままになった。


 ひなたが茶碗を落としかけて、篠田が受け止めた。米粒が三つ、畳に落ちた。


 「拾って」


 「ひなたが落としたんだから、ひなたが拾えよ」


 「ひなたじゃないもん」


 「じゃあ誰だよ」


 誰でもない、という顔でひなたが里村を見た。里村は布巾を渡した。


   


 呼び鈴が鳴ったのは、8時を回ったころだった。


 里村は箸を置いた。この時間に鳴ることは、めったにない。


 ドアスコープを覗くと、廊下の明かりの下に女が立っていた。昼間、棟の下で何度か見かけた人だった。コートを腕にかけて、手には何も持っていない。


 里村はチェーンをかけたまま、ドアを細く開けた。


 「夜分に失礼します。桑名と申します」


 「はい」


 「20年前、この棟で弟が亡くなっています。当時のことをうかがっています」


 「私は、そのころ住んでいませんので」


 「では、最近のことでも構いません」千尋は一歩下がった。押しては来ない。「先週、管理会社の深津さんと3階の外廊下におりました。手すりを見ていたんです。あのとき、廊下を通られたのは里村さんですか」


 通っていない。里村は部屋にいた。


 だが、その質問の形が嫌だった。答えれば、次の質問が来る。次に答えれば、その次が来る。そうやって話は続いていって、最後には、自分が何かを知っている人になっている。


 「分かりません」


 「通られていないということですか」


 「覚えていません」


 千尋は少しのあいだ黙った。急かさない黙り方ではなかった。待っている黙り方だった。


 里村は背後を気にした。こたつのほうから物音がしない。篠田が箸を止めているのが分かる。ひなたが「だれ」と言いかけて、篠田が何か短く言った。


 「お食事中でしたね」千尋が言った。「失礼しました」


 「はい」


 「これだけ置かせてください。何か思い出されたら」


 差し出されたのは名刺だった。里村は受け取らなかった。受け取ると、持っていることになる。


 千尋は数秒待ち、それから名刺を郵便受けの投入口へ入れた。落ちる音がした。


 「夜分に失礼しました」


 足音が階段のほうへ遠ざかっていく。里村はドアを閉め、鍵をかけ、チェーンをかけ直した。


 たたきに、名刺が落ちていた。拾わずに、しばらく見ていた。


   


 部屋に戻ると、ひなたが折り紙を積み直していた。


 「だれだったの」


 「知らない人」


 「知らない人にドア開けちゃだめだよ」


 「開けてないよ。ちょっとだけ」


 篠田は箸を持ったまま、こちらを見なかった。


 「あの人、うちにも来た」


 「え」


 「三日前。学校から帰ってきたとき、下で。二十年前のこと聞かれた」


 「なんて言ったの」


 「知らないって」篠田は煮物を口に入れた。「本当に知らないし」


 里村は座った。座ってから、聞かなければよかったと思った。聞けば、この子も何かを持っていることになる。


 「関わらないほうがいいよ」


 言ってから、自分の声が思ったより固いことに気づいた。篠田は顔を上げなかった。


 「そうだね」


 「うん」


 それで話は終わった。


   


 篠田が帰ったのは9時過ぎだった。ひなたはその前に寝てしまい、里村が布団まで運んだ。運ぶとき、ひなたは寝たまま里村の袖をつかんだ。手ではなく、いつも袖のほうをつかむ。


 流しで器を洗っていると、上から足音がした。


 階段を下りてくる音だった。かつ、かつ、と規則正しく、だんだん近くなる。里村は蛇口を止めた。


 音は、ドアのすぐ外まで来たように聞こえた。


 止まった。


 里村は動かなかった。濡れた手のまま、玄関のほうを見ていた。たたきの名刺の白いところが、暗がりで浮いて見える。


 しばらくして、また音がした。今度は明らかに遠い。下のほうで、棟の入り口の扉が開いて閉まる音がした。


 この棟の階段室は、上の階の音が近く聞こえる。引っ越してきた年の冬に一度、同じことがあって、廊下を確かめに出たことがある。誰もいなかった。それ以来、確かめには出ないことにしている。


 里村は蛇口を開け、洗い物を続けた。


 最後の器を伏せてから、玄関へ行った。


 名刺を拾い、裏返して、名前のほうを下にして、下駄箱の上の隅へ置いた。捨てはしなかった。


 電気を消すと、部屋は台所の常夜灯だけになった。ひなたの寝息が、こたつのほうから聞こえる。里村は不動産屋の紙を三枚とも重ね、保証人の欄が見えないように裏返して、明日また見ることにした。


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