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第七号棟の夜  作者: 卓哉
第一章 退去

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第六話 お茶

 駅前のビジネスホテルは、素泊まりで週単位の割引がある。千尋は二週間で取った。足りなければ延ばす。有給は十二日分残っていて、足りない分は欠勤で処理すると決めてある。会社には親族の整理と伝えてあった。嘘ではない。


 机は狭い。ノートパソコンを置くと、あとは書類を一列しか広げられなかった。


 千尋は毎朝、その一列を同じ順に並べる。左から、20年前の新聞の縮刷版の複写。事故の記事は八行しかない。次に、母が残した記録。次に、自分が半年かけて作った一覧表。日付、場所、関係者、確認済みか未確認か。未確認の欄が、埋まるより先に増えていく。


 この件は勤め先の管轄ではない。契約もなければ委任もない。名刺は出せるが、名刺の会社は千尋に何の権限も与えていなかった。持っているのは、事故と建物の関係を毎日見ている目と、書類の読み方だけである。


 それだけでどこまで行けるかを、この四日間で測っていた。


   


 集会所に寄ると、深津は書類を繰っていた。


 声をかける前に、手元が見えた。同じ様式の紙を、右手で一枚ずつ持ち上げ、日付のところを見て、左の山へ重ねている。日付の順に並べているらしかった。ときどき順番を入れ替え、付箋を貼る。


 「几帳面ですね」


 深津が顔を上げた。


 「……並べておかないと、抜けが分からないので」


 「私も同じことをします」千尋は椅子を引いた。「並べないと分からないものは、並べれば分かります」


 深津は返事をしなかった。束を伏せ、湯呑みを二つ出そうとして、片方を戻した。


 「今日は佐久間さんのところへ行きます。10時に来なさいと言われました」


 「そうですか」


 「深津くんは、あの人をよく知っていますか」


 「子どものころに、世話になりました」


 「どんなふうに」


 深津の目が、一瞬だけ机の上の束へ落ちた。


 「……鍵を、よく開けてもらいました。親が帰ってこない日に、集会所のストーブのある部屋を開けてくれて。宿題をして待っていろと」


 「あなたが」


 「私だけではありません。何人もいました」


 千尋は手帳に書かなかった。書くほどのことではないと判断したのではなく、書けば相手が話すのをやめると分かっていたからだった。


   


 佐久間の部屋は七号棟の一階の、階段にいちばん近い戸だった。


 呼び鈴を押す前にドアが開いた。


 「寒かったろう。上がりなさい」


 たたきは片づいていた。傘が二本、長靴が一足。廊下の壁に、団地の全体図が貼ってある。棟の番号が手書きで書き足され、上から何度も線が引き直されていた。


 六畳の茶の間にはこたつが出ていて、天板の上にはもう湯呑みが二つ置かれている。座布団も出してあった。10時の五分前だった。


 「佐久間です」


 「桑名千尋です。昨日は突然うかがって失礼しました」


 「いいんだよ、そんなことは」


 佐久間はポットの湯を急須に注いだ。注ぎながら、こちらを見ずに言った。


 「あんた、朝は食べてきたかね」


 「済ませてきました」


 「痩せたね」


 千尋は座布団の上で背を伸ばした。


 「お会いするのは初めてです」


 「ああ、そうか。そうだったね」佐久間は笑った。「昔の顔を思い出して言ってしまった。悪かった。お母さんによく似ているよ」


 湯呑みが前に置かれた。茶は熱すぎず、ちょうど飲める温度だった。


 千尋は鞄から手帳を出し、こたつの端に置いた。開かなかった。


 「20年前のことをうかがいます。あの日、いちばん最初に現場に行ったのはどなたですか」


 「あの日ね」


 佐久間は自分の湯呑みを両手で包んだ。


 「私は管理室にいたんだよ。10時ごろだったかな、いや、もう少し前か。子どもが走ってきてね、人が落ちたって言うんだ。私は棟の裏へ回った。行ったときにはもう、三人ばかり集まっていた。誰が最初かは、私は知らない。救急車を呼んだのは私だ。それは覚えている。番号を押す手が震えてね、二度かけ直した」


 「その三人の方は、どなたですか」


 「もう出ていった家だよ。二軒はね。もう一軒は……名前が出てこないな。歳だ」


 「思い出せたら、教えてください」


 「そうしよう」


 千尋は次を出した。事故の翌週、管理会社の人間が家に来たかどうか。母がそのとき何を聞かれたか。当時の点検の記録が残っているかどうか。


 佐久間はどの質問にも答えた。ただし、答えの前に必ず一言、別のことを挟んだ。


 寒くないか。お母さんは最後は苦しまなかったか。仕事は休んで来ているのか。挟んでから答え、答え終わると、こちらが次を出すまで黙って待った。急かさない黙り方だった。千尋は自分が少し早口になっているのに気づいて、一度、湯呑みに口をつけた。


 「あの子はね」佐久間が言った。「よく私のところへ来たよ」


 千尋の手が止まった。


 「管理室の前の階段のところで、友達と遊んでいてね。私が用具を出していると、手伝うって言うんだ。手伝いにならないんだけどね。バケツを持たせると、水をこぼしながら運ぶ。それでも本人は運んだつもりでいる」


 「……そうですか」


 「あの子が落ちたと聞いたときは、しばらく、何を言われているか分からなかった」


 千尋は湯呑みを持ったまま、天板の木目を見ていた。


 弟の話をされたのは、久しぶりだった。母は最後までしなかった。会社の人間は誰も知らない。自分の中にしかなかった話が、他人の口から出てくると、輪郭が違って聞こえる。バケツの話は知らなかった。


 目の奥が熱くなって、千尋は息を長く吐いた。


 佐久間は何も言わずに、急須に湯を足した。


 「あんたは、ずっと一人で調べてるのかね」


 「はい」


 「大変だ」


 「慣れています」


 「慣れちゃいかんよ、そういうことは」


 急須の蓋を戻す音がした。千尋は鞄に手を入れ、携帯を出した。


 「これを見ていただけますか」


 画面に、外廊下の手すりの写真を出した。支柱の根元。欠けたコンクリートと、錆の筋。


 「3階のものです。埋め込みの金具のまわりが」


 「湯呑み、冷めたね」


 佐久間は立ち上がった。


 台所で湯を捨てる音がして、水を足す音がして、それからしばらく何も聞こえなかった。戻ってきたとき、彼はポットを持っていた。ポットには湯が入っていたはずだった。


 「古い建物だからね」座りながら、佐久間は言った。「どこもかしこも傷んでる。私が管理してたころは、目についたところは自分で直したよ。ペンキも自分で塗った。今はもう、そんなことをする者はいない。もうすぐ壊すんだから、直したって仕方がないと言われる」


 「20年前は、どうでしたか」


 「20年前も、同じようなものだったね」


 「同じ、というのは」


 「古かったということだよ」佐久間はうなずいた。「あんた、昼はどうするの。うちで食べていきなさい。年寄りの飯だけど」


 千尋は携帯を伏せた。


 「いえ。午後に、別のお宅へうかがう約束があります」


 「そうか。無理はしなさんな」


 玄関まで送りに出て、佐久間は靴べらを出してくれた。ドアを開けると、外の光が急に入って、廊下の全体図の色が飛んだ。


 「また来なさい。何度でも」


 「ありがとうございます」


 階段を上がっていく足音が上のほうでして、それから静かになった。


   


 その日の午後、二軒に断られた。


 一軒はドアを開けずに、もう帰ってくれと言った。もう一軒は開けたが、当時のことは覚えていないと三度繰り返した。三度目のとき、その人は千尋の背後を見ていた。廊下に誰かいたわけではなかった。


 ホテルに戻ったのは19時過ぎだった。


 千尋は靴を脱ぎ、コートを椅子にかけ、机の一列を並べ直した。今日の分を一覧表に書き足す。断られた二軒。佐久間の証言。救急車は佐久間が呼んだ。最初の発見者は不明。


 書き終えて、母の記録を開いた。


 家計簿の余白に、細い字が並んでいる。母は毎日つけたわけではない。何もない日は空白のままで、何か書いた日だけ、日付の横に一行か二行がある。


 事故の日は、一行もない。


 翌日から書いてある。


 通夜のこと。弔問客のこと。役所の手続き。生協の解約。それらの合間に、同じ言葉が何度も出てくる。


 管理人さんが来た。


 お茶を出した。


 千尋は指で日付を追った。事故の3日後。5日後。8日後。10日後。2週間後。3週間後。四十九日の前後。


 数えた。7回だった。


 葬儀を手伝ってくれたお礼、と書いてある日が一度ある。あとは理由が書いていない。誰か他の人が来た記述は、親族を除けば一つもなかった。会社の人が来たという記述も、一度もない。


 千尋はもう一度、最初から数え直した。


 7回だった。


 ペンを持った。何を書くか決める前に持っていた。一覧表の未確認の欄ではなく、余白のところに、佐久間、と書いた。


 書いてから、今日のことを順に思い返した。


 挨拶。茶。20年前。救急車。バケツ。母に似ている。無理はしなさんな。写真。湯呑み、冷めたね。台所。ポット。古い建物だからね。


 手すりの写真について、彼は一度も何も言っていない。危ないとも、直したとも、知らなかったとも言っていない。見たのかどうかさえ、確かめていない。


 千尋はペンを置き、湯呑みではなく、ホテルの紙コップに水を汲んだ。


 冷たかった。


 母は、あの人を疑わなかった。二十年、一度も。親切な管理人さんが、7回も来てくれたと書いてある。


 千尋は椅子に座り直し、一覧表の日付の欄を、上から順に指で追いはじめた。


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