第五話 揃いの上着
段ボールは集会所の入り口に三箱積まれていた。中身は自治会が配る揃いのジャンパーで、紺色に、背中と袖に反射テープが縫いつけてある。胸のところに白い糸で自治会の名前が入っていた。
「これね、去年の予算で作ったやつだ」
尾関は箱の一つを開け、いちばん上の一枚を広げてみせた。
「解体が始まると、外の人間が出入りするようになる。夜も車が入る。そういうときに、住んでる人間とそうでない人間が、ひと目で分かるようにしておくんだよ。分かるようにしておくと、事故が起きない。私が会長のころから、そう決めてやってきた」
「はい」
「あんた、深津さんだったね」
「深津です」
「深津さん。これを全戸に配ってもらいたい。あんたところは、どうせ全部の家を回るんだろう」
深津は手帳を開いた。退去同意書の未提出は、今日の時点で七号棟が二戸、ほかの棟を合わせて十一戸ある。訪問の順は組んであった。ジャンパーを積むと、鞄には入らない。
「配布物としてお預かりする形になりますと、会社の記録に載せる必要が出てきます。自治会からの配布物ですと、名目が」
「名目」
「ええ」
「二十年やってきて、名目がどうこう言われたことはないな」
尾関は箱を閉じ、そのまま椅子に腰を下ろした。
「昔はね、この団地に千人からいたんだ。夏祭りは三日やった。屋台が十六出た。自治会がまとめて、業者と話をつけて、そういうのを全部やった。今はもう、集会所の鍵を開ける人間もいない」
その話は前にも聞いた。深津は同じところでうなずいた。
結局、未提出の家を回るついでに置いてくることになった。記録には残さない。尾関は自分で数えて、深津の腕に十枚ほど載せた。
午後は棟を回った。
同意書の回収は思ったより早く進んだ。二戸は留守で、三戸は出しそびれていただけで、その場で書いてもらえた。書いてもらうあいだ、玄関先でジャンパーを渡す。要らないと言われたのが二戸、袋ごと受け取ったのが四戸。
四号棟の3階では、若い女が出てきた。ドアは肩幅ぶんしか開かない。
「配布物です。自治会からで、無料です」
「はい」
「夜、外に出るときに着ていただくものです。要らなければ、置いていかなくても大丈夫です」
女はジャンパーを見て、それから深津の手元を見た。手にした受け渡しのメモを見ている。
「名前、書きますか」
「書きません。数だけ数えています」
「そうですか」
少し待ってから、女は両手で受け取った。受け取ってから、ありがとうございますと言った。名札が要るのかどうかを、もう一度確かめるような目をしていた。深津は数のところに正の字を一画足した。
六号棟の一階では、宇野がちょうど廊下に出ていた。もう着ていた。少し大きいらしく、袖口を二度折り返している。
「配っておられるんですね」
「はい。自治会の」
「うちの棟は、私が配りました。昨日のうちに」宇野は袖のテープを指で撫でた。「夜間の見回りは、明日から始めます。二人一組で、19時と21時。名簿はこちらで作りました」
「助かります」
「作りましたので」
その先の棟で、ジャンパーを着た人にもう一度会った。遠目には宇野かと思ったが、近づくと知らない男だった。背丈も肩の幅も似ている。紺色は、暗いところでは輪郭しか残らない。
5時を回ると、日が急に落ちた。
外灯はまだ半分しか点かない。点かない側の道は、路面と植え込みの境が分からなくなる。深津は残りのジャンパーを抱え直し、集会所へ戻ろうとした。
その途中で、尾関に呼び止められた。
自転車置き場の屋根の下に立って、こちらではなく、七号棟のほうを見ている。
「あんた、深津さんだったね」
「深津です」
「見回りは明日からだろう。もう始めてるのか」
「いえ、明日からのはずです」
「じゃあ、あれは誰だ」
尾関の見ている先に、人がいた。七号棟の入り口のあたりを、紺色のジャンパーを着た人が横切っていく。手にビニール袋を提げている。距離は三十メートルほどあった。
「佐久間さん」尾関が呼んだ。「佐久間さんよ。ちょっと」
人影が止まり、こちらを向いた。
「はい」
宇野の声だった。
尾関は口を開けたまま、二秒ほど何も言わなかった。それから、笑った。
「なんだ、宇野さんか」
「ええ」
「暗いとね。同じもの着てるとね、分からんよ」
「同じものですから」宇野はビニール袋を持ち替えた。「見回りは明日からです。今日は自分の買い物です」
「そうかそうか」
宇野が行ってしまうと、尾関はしばらく七号棟のほうを見ていた。
「歳を取るとね」尾関は言った。「夕方がいちばんいかん。医者にも言われたよ、この時間は運転するなと。目の薬を出されてる。差すと、しばらくにじむ。にじむが、見えないわけじゃない。私は見えるほうだからね。昔から、見えるほうなんだ」
「そうですか」
「昔から見えるほうだ」
深津はうなずいて、ジャンパーを抱え直した。
その場ではそれだけのことだった。老人が暗がりで人を見間違えた。それだけのことだった。
集会所の前に、千尋がいた。
街灯の下に立って、手帳を開いている。ページを繰る手が、めくるというより、探す手つきだった。
「まだいらしたんですか」
「いま帰るところです」千尋は手帳を閉じた。「深津くん、七号棟に20年前から住んでいる世帯は、いま何戸ありますか」
「……名簿の閲覧は、権限が上の者に限られています。私の口からは」
「戸数だけです。何号室かは聞いていません」
深津は頭のなかで数えた。数えられてしまった。
「十戸は、ないと思います」
「十戸もない」千尋は繰り返した。「今日で、そのうちの六軒に当たりました。四軒は玄関を開けてもらえませんでした。開けてくれた二軒は、覚えていないと言いました。片方は、その場にいたことも覚えていないそうです。事故の日ですよ。棟で子どもが落ちた日です」
声は高くならなかった。ただ、言葉のあいだが詰まっていた。
「二十年前ですから」
「二十年前だから、忘れますか」
答えなかった。
千尋は手帳を鞄にしまい、街灯の光の外へ半歩出た。
「一人だけ、玄関を開けたまま話してくれた人がいました。佐久間さんです。お茶を出すから上がりなさいと言われました。その日は断りました」
「……そうですか」
「明後日、うかがうことにしました」
深津は抱えたジャンパーの重さを、片腕から片腕へ移した。何か言おうとして、言うべきことを探し、業務の言葉の中に見つからなかった。
「気をつけて」
「何にですか」
「……足元が。外灯が、半分しか点いていないので」
千尋はうなずき、駅のほうへ歩いていった。街灯の下を抜けると、コートの色はすぐに周りと混ざって見えなくなった。
深津は集会所の鍵を開け、残った八枚のジャンパーを段ボールに戻した。数が合っているか、二度数えた。




