第四話 防災訓練
朝から風がなかった。
集会所前の広場に、パイプ椅子が二十脚ほど並べてある。並べたのは深津だが、埋まったのは半分に満たなかった。9時半の開始で、9時40分になっても人が増える気配はない。
「今年は少ないですね」深津は言った。
「例年に比べれば、そうです。ただ、今年は例年ではありませんので」
宇野はバインダーを胸の前で水平に構えたまま答えた。名簿の紙が三枚、クリップで留めてある。参加予定と、参加、不参加。不参加の欄にだけ鉛筆で細かく書き込みがしてあった。
「昨年度は48名、一昨年度は55名です。今年度は、いま21名。退去が進んでおりますから、母数が違います。比率で見れば、むしろ上がっています」
「そうですか」
「上がっています」宇野はもう一度言った。訂正するときの言い方だった。
名簿の読み上げが始まった。宇野は一人ずつ名前を呼び、返事があると鉛筆で線を引く。返事のない名前のところでは、少しだけ間を置いてから次へ行った。七号棟の三十番台がほとんど飛んだ。
「堀内さん」
返事はなかった。
「堀内さん。ご不在でしょうか」
「いないんじゃないの、あの人はいつも」と、前列の誰かが言った。宇野は聞こえなかったことにして、鉛筆を動かした。
最後のほうで、子どもを連れた女が広場の端に着いた。手をつないでいるのではなく、子どものほうが女の袖をつかんでいる。女は列に入らず、いちばん後ろの椅子の脇に立った。名前を呼ばれると、小さく手を挙げて、すぐ下ろした。
消防署からは今年も人が来なかった。書類は去年と同じ様式で、去年と同じ順に進む。消火器の取り扱い、通報の要領、避難経路の確認。宇野が読み上げ、住民がうなずく。水の入った訓練用の消火器は一本しかなく、噴射の実演は最前列の三人だけがやって終わった。
深津の役割は立ち会いである。会社として棟ごとの避難経路図を配り、解体工事が始まってからの動線の変更を説明する。紙は前の晩に刷ってきた。数え間違えて多かったので、余りを鞄に入れた。
佐久間はいちばん後ろにいた。
パイプ椅子には座らず、給湯のポットの横に立って、紙コップに茶を注いでは配っている。誰にも頼まれていない。腰の悪い老婦人が来ると椅子を引き、途中で子どもが騒ぎ出すと、そちらへ行って何か言った。子どもは静かになった。
「悠一くん、あんたも飲みなさい」
深津は紙コップを受け取った。
「ありがとうございます」
「その紙、余ってるだろう。あとで出てない家に入れておくよ。どこが出てないかは、だいたい分かるから」
「助かります」
佐久間は笑って、次の人のところへ行った。
訓練の後半は、棟ごとに避難経路をたどる。七号棟の組には十人ほどが集まった。宇野が先頭に立ち、深津は最後尾についた。
階段室に入ると、外の明るさで目が慣れず、一段目で誰かがつまずいた。
「足元にご注意ください」宇野が言った。「ここは暗いので」
暗い理由は、そこにあった。
踊り場の壁の高い位置に、非常灯の取り付け金具だけが残っている。灯具そのものは外され、床の隅に置かれていた。電線は壁から下りたまま、テープで束ねてある。誰かが工事の途中でそうしたのか、外したまま戻していないのか、外側からは分からない。ただ、床に置かれたそれは、上から人が下りてくると、その足を下から照らすことになる。
深津は立ち止まった。
「宇野さん」
「はい」
「あの非常灯は」
宇野はバインダーを持ち替え、床の隅を見た。見て、それから深津を見た。
「点検は済んでおります。今年度の分も、昨年度の分も、記録は残しております。期日どおりに」
「……そうですか」
「不備があれば記録に残ります。残っておりません」
住民が階段の途中で待っていた。前の組が下りてくる時間も決まっている。ここで一つ止めれば、そのぶん全部が遅れる。深津は工程表の頭のなかの欄を見た。11時に終わらせて、午後は不動産屋との立ち会いが入っている。
「分かりました」
言って、先へ進んだ。
メモは取らなかった。取ればあとで宇野に確認しなければならず、確認すれば記録に残る。記録に残せば、それは会社と自治会の間の話になる。あと五か月で空になる建物のことだった。
3階の外廊下へ出ると、風が通った。
「ここの手すり、まだ直らないの」
声を出したのは、前を歩いていた中年の女だった。手すりに手をかけ、軽く揺すってみせる。軋む音がした。
「危ないよ、子どもが乗ったら」
「乗らないように言い聞かせてくださいね」宇野が言った。
「言ってるけどさ」
「あと少しですから」佐久間の声が、後ろから来た。いつのまにか一緒に上がってきていた。「もう建て替えが決まってるからね。直す予算はつかないんだよ。私が管理してたころなら、ちょっとやそっとは自分で直したんだけどね」
「そうよねえ」
女は手を離した。列が動き出した。
深津は最後尾で手すりを見た。支柱の根元の欠けは、昨日千尋がしゃがんで見ていた場所と同じだった。写真を撮る人がいて、揺すってみせる人がいて、それで話が終わった。
二十年前、同じ廊下を毎日通っていた。当時この手すりがどうだったか、思い出せなかった。
解散したのは11時5分だった。
深津がパイプ椅子をたたんでいると、老婦人が話しかけてきた。訓練の途中で椅子を引いてもらっていた人だった。
「あなた、深津さんとこの子でしょう」
手が止まった。
「ええ、まあ」
「やっぱりね。顔が似てるもの。お母さんお元気」
「……元気にしています」
「そう。ずいぶん前に出ていったのにねえ。よく戻ってきたね、こんなところに」
近くにいた住民が二人、こちらを見た。一人が小さくうなずいて、もう一人に何か言った。声は聞こえなかったが、その二人はこちらを見たまま少し話していた。
深津は椅子をたたむ手を動かし続けた。
「今日はありがとうございました。避難経路の紙、なくされたら言ってください。予備がありますので」
「もらったよ、ちゃんと」
老婦人は経路図をたたんで、買い物袋に入れた。
広場の端に、千尋がいた。
パイプ椅子の列からは離れて、掲示板の前に立っている。近くにいた住民の男に何か話しかけていた。男は首を横に振り、手を胸の前で振って、そのまま歩き去った。千尋は追わなかった。手帳に何か書き、次の人のところへ行った。同じことがもう一度起きた。
三人目のとき、彼女は深津のほうを見た。目が合った。
どちらも近づかなかった。
千尋は掲示板の前に戻り、防災訓練の日程の紙を、もう一度写真に撮った。今日の日付が入っている紙だった。
事務所に戻ってから、深津はメモ帳を開いた。
いちばん上の行に、七号棟階段室、非常灯、と書いた。
その下の期日の欄で、ペンが止まった。
いつまでに、誰が、何をするのか。宇野に言えば、点検は済んでいると返ってくる。会社に上げれば、費用の話になり、解体までの残りの月数を出され、そこで終わる。自分で灯具を壁に戻すことはできるが、それは会社の担当者がやることではない。
深津は期日の欄を空けたまま、メモ帳を閉じた。
午後の立ち会いまで、まだ40分あった。




