第三話 窓辺
堀内は時計を見ない。
見なくても、だいたい分かるようになった。7時20分に一号棟のほうから原付が出ていく。7時45分、集団登校の子どもが六人、多い日で八人。8時を過ぎると自転車が続けて三台。9時ちょうどに、いちばん奥の棟の一階から、犬を連れた老婦人が出てくる。犬は左のうしろ足を少し引きずるので、往きと帰りで時間が違う。往きが11分、帰りが14分。
窓は南に向いている。カーテンは半分だけ開けてある。全部開けると、向かいから部屋の奥まで見えてしまう。閉め切ると、外が見えない。半分がちょうどいい。
椅子は窓に対して斜めに置いてある。座面の右側だけが沈んでいて、もう戻らない。3年座ればそうなる。
朝のうちに、洗ったカップの水を切る。冷蔵庫を開けて、卵の数を確かめる。四つある。一日一つとして、四日は買い物に出なくていい。米は先週買った。通帳は引き出しの二段目に入っている。数字は覚えているので、開けなくても分かる。
昨日は外廊下に人がいた。
14時7分ごろ、七号棟の3階に、男と女が上がってきた。男のほうは管理会社の人で、月に何度か棟を回っている。女は初めて見る顔だった。コートを腕にかけて、傘は持っていなかった。
女は手すりを押した。
軽く一度。それから体重をかけて二度。しゃがんで、立って、離れて、もう一度押した。全部で四回になる。写真を撮ったのは三枚、いや、角度を変えてもう一枚撮っていたから四枚だ。メジャーを使ったのは一度きりで、上から下へ、床までを測っていた。
男のほうは何もしなかった。二歩下がったところに立って、女の手元を見ていた。見ていたが、聞かなかった。あれは聞かないと決めている人の立ち方だ、と堀内は思った。
二人は14分ほどで下りていった。並木の手前で振り返ったので、堀内はカーテンから手を離した。
それだけのことだった。誰にも何も起きていない。見ていただけである。
インターホンが鳴ったのは、その翌日の15時過ぎだった。
堀内は椅子から立ち上がり、玄関へ行くまでに二度、シャツの襟を直した。ドアを開ける前に、たたきに出しっぱなしのサンダルを靴箱の陰へ寄せた。
「お忙しいところ失礼します。管理会社の深津と申します」
3年前より、少し痩せている。名刺を出そうとして、堀内が受け取る素振りを見せないので、そのまま手を戻した。
「退去同意書の件で、ご案内に上がりました。まだお手元に控えがあるかどうかだけ、確認させていただければ」
「あります。二枚とも、あります」
「では、書き方でご不明な点があれば」
「不明ではありません。転居先の欄が、まだ書けないだけです」
言ってから、余計なことを言ったと思った。書けない理由を聞かれる。堀内はドアノブに手をかけたまま、次の質問を待った。
「転居先が未定でしたら、空欄のままで結構です」深津は手帳を開いた。「決まった時点で追って教えていただければ。期限は3月末ですが、こちらの様式はそれより前に締め切りますので、2月の頭までにいただければ間に合います」
「2月の頭ですね」
「はい」
それで話は終わるはずだった。堀内はうなずき、ドアを閉めようとした。深津が手帳をめくった。
「もう一点だけ。昨日、こちらの棟に女性が来ていたと思うのですが、ご覧になっていませんか」
堀内の口は、考えるより先に開いた。
「14時7分ごろです。正確な時刻は時計を見ていませんので、多少の前後はあると思いますが、いつも郵便の車が来るのが14時ちょうどで、あれが出ていってから少しあとでしたから、5分か10分の誤差の範囲かと」
「……はい」
「3階の外廊下を、階段側から端まで歩いて、また戻ってきました。手すりを押していました。四回です。最初に軽く一度、そのあと二度、離れてからもう一度ですから、四回になります。写真は四枚。ただしこれは窓越しに見ておりましたので、撮る動作をしていたというだけで、実際に撮れていたかどうかは、私には分かりません」
喋りながら、堀内は自分の声を聞いていた。かすれてもいないし、詰まってもいない。だが、こんなに長く続けて喋ったのは久しぶりだった。
深津は書き取っていた手を止め、顔を上げた。
「よく、見ておられるんですね」
その一言が、思ったより深いところへ入った。
堀内はドアノブを握り直した。喉のあたりで言葉をいくつか選んで、そのどれも出さないまま、少し間が空いた。
「……南向きですから。明るいので、日中は窓のそばにいることが多いんです。それだけです」
「助かります。ほかの方は、時間まで覚えていらっしゃらないので」
助かります、と言われた。
堀内は視線を廊下の床へ落とした。3階の外廊下は、雨のあとの染みがまだ乾ききっていない。深津は手帳に何か書き足していた。ペンを持つとき、左手を書類の下に添える癖がある。それも変わっていなかった。
3年前、転入の手続きをしたのは集会所ではなく、まだ団地の一階にあった管理室の窓口だった。堀内は書類の書き方が分からず、保証人の欄で手が止まった。この人は、書き直し用の用紙をもう一枚出して、上から順に一つずつ埋め方を教えてくれた。32分かかった。窓口のうしろの壁に、湿気で反った掲示物が貼ってあって、その角がずっと揺れていたのを覚えている。
あのとき彼は、名前を二度確認した。
いま、彼は名刺を出そうとした。
堀内はそのことについて、何も言わなかった。言えば、覚えていないことを相手に知らせることになる。それは、この人に一つ荷物を渡すのと同じだった。
「あの女性は」堀内は言った。「また来ますか」
「……分かりません。来るかもしれません」
「そうですか」
「何かお困りのことがあれば、集会所のほうに」深津は手帳を閉じた。「平日でしたら、たいてい16時までおります」
「16時までですね」
「はい。失礼しました」
ドアが閉まった。
堀内は鍵をかけ、たたきのサンダルを元の位置へ戻し、それから窓辺へ戻った。カーテンに手をかけたところで、下を見た。
深津が並木のほうへ歩いていく。歩幅は変わらない。3階を見上げることもない。集会所の角を曲がるまで、47歩だった。
堀内は数え終えてから、椅子に座った。
膝の上で、両手を組んだ。組んでから、何のために組んだのか分からなくなって、ほどいた。
窓の外はまだ明るかった。16時までに、犬を連れた老婦人がもう一度通る。往きが11分、帰りが14分。今日もそうなるはずだった。




