第二話 手すり
千尋は2時の5分前に来た。
昨日と同じコートを腕にかけ、今日は傘を持っていない。空は薄く曇っているだけで、雨の匂いはもうしなかった。
「歩いていきましょう」千尋が言った。「そのほうが早いでしょう」
集会所から七号棟までは、桜の並木を挟んで二百歩ほどある。この時期の桜はもう葉を落としはじめていて、路面の継ぎ目に沿って茶色い葉がたまっていた。掃く人が減っている。去年までは自治会の当番が回っていたが、退去が始まってから当番表そのものが張り替えられていない。
途中、集会所寄りの棟の一階を通った。ベランダの手前に置かれた発泡スチロールの箱で、青物が育てられている。その隣の部屋はカーテンが外され、畳の上に段ボールが積んであった。出た部屋と、まだ出ない部屋が、一つおきに並んでいる。
「棟ごとに進みが違うんですね」
「進み方は棟によります。七号棟は早いほうです」
「早い理由は」
「古株の多い棟ですから、話が回るのが早いんだと思います」
千尋は返事をしなかった。歩きながら手帳を開き、何か短く書いた。
七号棟の下に着くと、彼女は上を向いた。首を大きく反らせて、階段のある側から順に目で追っていく。深津も一緒に見上げた。給水管が外壁を這い、その塗装が階ごとにまだらに剥げている。5階のいちばん端の窓に、洗濯挟みだけが十いくつぶら下がっていた。
「上がって構いませんか」
「外廊下でしたら」
階段は北向きで、上るにつれて空気が冷たくなる。踊り場の壁には、消えかけたスプレーの落書きがあった。文字だったものが、塗り重ねと剥がれで模様に近くなっている。深津が子どもだったころにはもうそこにあった。
2階の外廊下には、まだ人が住んでいる気配が並んでいた。玄関脇の傘立て、鉢の割れた朝顔の支柱、新聞受けに挟まったままの折込み。三つ目の戸の前には、たたんだ段ボールが紐で縛って置いてある。その先の戸には、退去の案内が扉に直接貼りつけてあった。深津が配ったものだった。糊のつきが悪くて、下の角がめくれている。
3階で千尋は足を止めた。廊下側の手すりに近づき、両手をかけ、体重をかけずに押した。
軋む音がした。
彼女はもう一度押した。今度は少し強く。手すりは支柱の根元でわずかに動き、動いた分だけ音を返した。千尋は手を離し、しゃがんで支柱の根元を見た。コンクリートに埋め込まれた金具のまわりが、丸く欠けている。錆が茶色い筋になって下に流れていた。
鞄からメジャーを出す。手すりの上端から床までを測り、数字を手帳に書いた。それから携帯を構え、支柱を三方向から撮った。撮ったあとで一度画面を確かめ、角度を変えてもう一枚撮る。
深津は二歩離れたところに立っていた。
何をしているんですか、と聞けば、彼女は答えるだろう。手すりの高さがどうだとか、埋め込みの深さがどうだとか、この人の仕事の言葉で説明されるはずだった。聞かなかった。聞けば、それは説明を受けたことになる。
「古い建物ですから」
言ってから、余計だったと思った。
千尋は顔を上げなかった。
「そうですね。古いです」
立ち上がり、手すりに沿って歩く。3階のいちばん端まで行き、そこから引き返して、階段の手前でもう一度止まった。同じ場所で二度押す。音は、さっきと同じだった。
「ここですか」
深津は答えるまでに一拍置いた。
「そこの、少し先です。階段を上がったあたりだと聞いています」
千尋は上を見て、下を見た。手すりの向こうは植え込みで、その先が自転車置き場になっている。屋根のトタンが、この位置からだと真下に見えた。
「見ていた人はいなかったんですか」
「……当時のことは、記録が残っていません」
「記録ではなく、人です」
風が下から吹き上げて、廊下にたまっていた葉が動いた。深津は手すりに手をかけなかった。かけずに、階段のほうを見ていた。
「多くはなかったと思います」
千尋はそれ以上聞かなかった。手帳を閉じ、鞄に入れる。
階段を下りながら、千尋が聞いた。
「当時の管理人さんは、ご存命ですか」
「佐久間さんでしたら、今もこの団地に住んでおられます。退職されたあとも」
「お会いできますか」
「ご本人に連絡しておきます」
「私から行きます」千尋は言った。「そのほうが早い」
一階まで下りると、彼女は棟の入り口の掲示板を見た。自治会からの回覧、防災訓練の日程、粗大ごみの分別。どれも紙が日に焼けている。千尋は防災訓練の日程だけを写真に撮った。
「明後日ですね、これ」
「はい」
「見ていても構いませんか」
「住民の方以外の立ち入りを止める決まりはありませんので」
千尋はうなずいて、桜の並木のほうへ歩き出した。並木の入り口で足を止め、振り返る。深津もつられて振り返った。
七号棟の3階、南側の端の窓に人が立っていた。ガラスの内側で、カーテンを半分だけ開けている。こちらを見ているようだったが、顔は影になって見えなかった。手も動かない。
「あの方は」千尋が言った。
「……どなたでしょうか」
深津は名簿を頭のなかで繰った。あの位置なら単身の男性が一人いたはずだが、名前が出てこない。同意書は早くに戻ってきていた。訪ねる必要のなかった戸のことは、覚えていない。
「顔なじみではないんですね」
「担当は退去手続きですので、全戸の方と話しているわけでは」
言い訳のように聞こえたので、そこで止めた。窓の人は、まだ立っていた。
深津は集会所へ戻る道を半分まで一緒に歩き、そこで別れた。千尋は駅のほうへは行かず、七号棟のまわりをもう一周するように歩いていった。
その夜、深津は自分の部屋で書類を開いていた。
七号棟の向かいに立つ棟の、4階の端の部屋。会社が借り上げている社宅ではない。自分で決めて、自分で契約した部屋だった。家具は少なく、床には段ボールが二つ積んだままになっている。ここへ来てから3年になるが、開けていない。
9時を回ったころ、湯呑みを取りに立って、窓のほうを見た。
向かいの窓に、人影があった。
七号棟の4階、外廊下側ではなく、部屋の窓のほうだ。誰かが窓のすぐ内側に立っている。肩の線と、頭の輪郭。腕を持ち上げるような動きをした。
深津は動かなかった。
その影も動かなかった。
湯呑みを持ったまま、一歩窓へ寄る。向こうの影も一歩寄った。それでようやく分かった。あの部屋は先月に退去が済んでいる。カーテンも照明もない部屋のガラスが、こちら側の明かりを受けて、この部屋を映していた。
映っているのは自分だった。
深津は湯呑みを窓辺に置いた。置いたときに、向こうの影も同じ高さに手を下ろした。
カーテンを閉めればいいだけだった。閉めずに、しばらく立っていた。
二十年前も、こちらの棟から向かいの棟が見えていた。あのときは自分が七号棟にいて、向かいがこちらだった。同じ距離を、逆から見ていたことになる。
湯呑みの茶はいつのまにか冷めていた。深津は流しにそれを空け、書類のところへ戻って、明後日の防災訓練の欄に丸をつけた。




