第一話 退去のお知らせ
集会所の窓は建てつけが悪い。深津悠一は書類の束を机の端へ寄せ、両手で桟を押した。二度つかえて、三度目に動いた。
雨は朝のうちに上がっている。湿った土の匂いと、どこかの部屋の味噌汁の匂いが一緒に入ってきた。
壁の掲示板には、先月から同じ紙が貼ってある。建替えに伴う解体のお知らせ。退去期限は来年の3月31日。右下の画鋲が一つ落ちて、紙の角がめくれ上がっていた。深津は落ちた画鋲を拾い、指の腹で押し込んでから机に戻った。
集会所の一室を借りて現地事務所にしている。もとは囲碁の会が使っていた部屋で、畳を上げてカーペットを敷いただけだから、机の脚のあたりだけ床が沈む。スチール棚、パイプ椅子が四脚、来客用に借りてきた石油ストーブ。まだ火は入れていない。
退去同意書は棟ごとに分けてある。深津は輪ゴムを外し、戸番を確かめながら一枚ずつ重ねていった。判の位置が枠から外れているもの、鉛筆で書かれたもの、日付だけ空欄のもの。空欄には付箋を貼り、あとで訪ねる順に並べる。
七号棟の束だけが厚かった。40戸のうち、戻っていないのは数戸しかない。話の早い棟だ、と思った。それ以上は思わなかった。
10時を過ぎると、引き戸が何度か鳴った。3階の廊下の蛍光灯が切れている、という話が二件。粗大ごみの持ち出しは期限のあとでも構わないのか、という話が一件。転居先の不動産屋を紹介してほしいという相談が一件。深津はそれぞれをメモに起こし、期日の欄を先に埋めた。いつまでに、誰が、何をするか。そこさえ決まれば、たいていの話は終わる。
昼を過ぎて、湯を沸かしているときに引き戸が鳴った。
「こちら、管理会社の窓口でよろしいですか」
立っていたのは、コートを腕にかけた女だった。30代半ばくらい。傘の先から水が落ちて、たたきに小さな輪をつくっている。
「はい。退去のご相談でしたら、こちらで承ります」
「住人ではないんです」
女は肩から下げた鞄を探り、名刺を差し出した。損害保険会社の名前と、聞き慣れない部署名。事故調査。その下に名前があった。
桑名千尋。
深津の手が、名刺を受け取ったところで止まった。
「……管理課の深津と申します」
名刺を返そうと胸の内ポケットを探って、名刺入れを机の引き出しに入れたままだと気づいた。引き出しを開けるあいだ、女はこちらを見ていた。
「20年前に、この団地で弟が亡くなっています」千尋は言った。「七号棟です。ご存じですか」
「……存じています」
「事故として処理されました。それも記録で確認しました。私が知りたいのは、そのあとです。管理をしていた会社が当時の資料をどこまで残しているか」
早口ではない。ただ、ひとつ答えるたびに次が来る。深津は名刺を机に置き、両手を膝に戻した。
「管理会社は途中で変わっています。当時の資料は、たぶん引き継がれていません」
「たぶん、というのは、まだ確認していないという意味ですか」
言葉が途中で止まった。窓の外で、誰かが自転車のスタンドを蹴り上げる音がした。
「……確認します」
「お願いします」
千尋はコートを椅子の背にかけ、腰を下ろした。座ってから鞄をもう一度探り、封筒に入れた紙の束を膝に置く。開かなかった。
「母が半年前に亡くなりました」千尋は言った。「遺品を片づけていたら、日記のようなものが出てきたんです。家計簿の余白に書き足していく類の。あの人は、弟のことを最後まで何も言わなかった。書くだけ書いて、誰にも見せずに死にました」
深津は湯の沸く音を聞いていた。ポットのスイッチが上がる音がして、それきり部屋が静かになった。
「お茶を」
「けっこうです。長くはいません」
千尋は封筒を膝に置いたまま、部屋を見回した。掲示板、スチール棚、床の沈むあたり。視線が戻ってきて、深津の顔にとどまった。そのまま、次を言わずにいた。
「深津くん、でしょう」
湯呑みに伸ばしかけた手が、そのままになった。
「弟と同じクラスだった。何組かは覚えていませんけど、名前は覚えています。うちに来たこともあった」
二十年ぶりに、その呼ばれ方をした。名字に敬称のつかない呼び方を、深津はもうずいぶん長く聞いていない。
あのとき、と口が動いた。息を吸って、続きが出てこないことに気づいた。言おうとしたものは形になる前に喉の奥で潰れ、あとには吸った息だけが残った。深津は口を閉じ、湯呑みを二つ、棚から出した。
「……お名前は、覚えています」
千尋は何も言わなかった。しばらく待って、それから膝の封筒を鞄に戻した。待つのに慣れている人の間の取り方だった。
「立ち入ったことをうかがいます。ここにお勤めなのは、たまたまですか」
「地元ですから」
「そうですか」
千尋はそれ以上聞かなかった。代わりに封筒とは別の、小さな手帳を出した。
「七号棟を見せていただけますか。外からで構いません」
「棟の中に入るのでしたら、鍵の持ち出しに申請が要ります。申請すると、誰がいつ持ち出したか記録が残ります」
「外から見るぶんには要りませんね」
「……要りません」
「では、外から」千尋は手帳に何か書きつけた。「明日の午後でよろしいですか。ご都合の悪い時間があれば合わせます」
断る理由を探して、見つからなかった。退去の説明は業務であり、元住人の遺族が現地を見たいと言えば案内するのも業務のうちだ。深津は手帳を開き、明日の欄の空きを確かめた。
「2時なら空いています」
「では2時に。ここでよろしいですか」
「はい」
千尋はコートを取り、腕にかけ直した。傘を持って引き戸に手をかけたところで、振り返らずに言った。
「弟が落ちたのは、3階と4階のあいだの外廊下だと聞いています。合っていますか」
「……合っています」
「ありがとうございます」
引き戸が鳴って、閉まった。たたきの水の輪は、輪郭がぼやけたまま残っていた。
深津は湯呑みを二つ出したままだったことに気づき、片方を棚に戻した。
それから、スチール棚のいちばん下の段を開けた。
管理を引き継いだときの目録が、色の変わったファイルに綴じてある。前の会社から受け取ったものが品目ごとに並び、受領の判が押されていた。図面、竣工時の書類、設備の保証書。年度ごとの点検記録は、ある年から先しか載っていない。事故報告や苦情の記録に当たる項目は、目録のどこを探しても出てこなかった。引き継がれていないものは、引き継がれていないという記載すら残らない。
深津はファイルを閉じ、メモを一枚起こした。本社の倉庫に旧管理会社からの受け入れ分が残っていないか、明日、総務へ照会すること。期日の欄に明日の日付を入れた。
同意書の束に戻り、判の欠けた一枚に付箋を貼る。次の一枚に手を伸ばした。伸ばしただけで、取らなかった。
窓の外に、七号棟が立っている。5階建て、外廊下のむき出しになった古い型の棟で、洗濯物がまだいくつか揺れていた。3階と4階のあいだの踊り場は、ここからだと給水管の陰になって見えない。
机の上に名刺が残っていた。深津はそれを名刺入れにしまわず、書類の下にも入れず、電話機の横に立てて置いた。




