第三十五話 仮囲い
四月の第二週に、仮囲いが立った。
高さ三メートルの鋼板が、団地の周りを囲っていく。桜の並木は残す計画になっていて、囲いはその外側を回った。並木はちょうど散りかけで、鋼板の足元に花びらがたまっていた。
深津は、囲いの外側から見ていた。
三月末で会社を辞めた。同じ日に部屋も出た。いまは二駅先のアパートにいる。家具は前の部屋のものをそのまま運んだので、段ボールが二つ、また開けないまま積んである。
この日に工事が始まることは、退去の説明会で全戸に伝えてある。伝えたのは自分である。伝えた当人が、囲いの外に立っている。
人は、思ったより集まっていた。
三十人ほどが、南側の入り口のあたりに固まっている。ほとんどが元住民だった。工事の車が入るときだけ門が開くので、そのたびに人が下がって、また戻る。
深津はその後ろのほうに立った。
顔の分かる人が何人もいた。四階の東側の家。五階の家。二階の西側の家。一覧表の行が、そのまま人の形になって並んでいる。誰も、深津のほうを見なかった。見ても、会釈をして終わった。会社の人ではなくなったので、話しかける用がない。
堀内がいた。
少し離れたところに一人で立って、七号棟のほうを見ている。三月の第三週に引っ越したと聞いた。ここへは、たぶん電車で来ている。
宇野もいた。前のほうにいて、工事の看板の表示を読んでいる。読みながら、何か口の中で言っていた。誰とも目を合わせていない。
篠田は、囲いの端のところにいた。制服ではなく、私服である。四月から学年が上がったはずだった。母親の姿は見えない。
マイは、いちばん後ろにいた。
深津が気づいて、目が合いかけたが、彼女はすぐ前を向いた。帰国は来月だと聞いている。荷物はもう送ったのだろう、手ぶらだった。
尾関は、人の輪の中心にいた。
中心にいたが、話しかけている相手は、そのつど変わっていた。話しかけられた人は、うなずいて、少しすると別のほうへ移る。移ったあとに、尾関はまた別の人に話しかける。
「この団地はな、いちばん多いときで千人いたんだ」
「そうですか」
「夏祭りは三日やった。屋台が十六出た。あれを全部、自治会がまとめた。役所と話をつけて、業者と交渉して、寄付を集めて。誰も知らんだろうがな」
「そうですね」
「防犯灯だってそうだ。東側の二本、あれは私が三度要望書を出して付けたんだ。三度だぞ。役所の担当が代わるたびに、一から説明し直しだ。今の人間は、最初から付いてたと思ってる」
相手が離れた。尾関は次の人のほうを向いた。
「あんた、佐藤さんとこの人だったね」
「田中です」
「田中さん。あんたは知ってるだろう、あの晩のことを」
田中という人は、少し口元を動かした。
「もう終わったことですから」
「終わってない」尾関は言った。「私は見たんだ。ジャンパーを着た男だ。あれは、うちの団地の人間じゃない。誰も信じなかったが、私は見た。いまでも同じことを言う。二十年後に聞かれても、同じことを言う」
「はあ」
「私は、見えるほうだからな」
田中という人は、うなずいて、離れていった。
尾関はその背中を見て、それから、また別のほうを向いた。今度は近くに誰もいなかった。
深津は少し離れたところから、それを見ていた。
この人は、あの晩、宇野を見た。ジャンパーが同じで、暗くて、距離があった。それだけのことである。それだけのことを認めれば、この人は「見えるほうだ」ではなくなる。二十年、自分が見て、判断して、動かしてきたものの全部が、少し疑わしくなる。
だから、認めない。
認めないほうを選んだ人の周りから、人が一人ずつ離れていく。
9時半に、重機が入った。
最初に壊すのは一号棟である。囲いの内側で、アームが上がって、五階の角に当たった。壁がへこんで、それから、崩れた。音は、思っていたより低かった。
人の輪が少し動いた。
「あっけないもんね」
「そうねえ」
粉塵が上がって、風で東へ流れた。散水の車が水を撒く。撒くと、粉塵は下がるが、地面が濡れて色が濃くなる。
深津は七号棟のほうを見た。
七号棟は、いちばん奥にある。解体の順番では最後になる。今日は何も起きない。窓のガラスはもう外されていて、穴だけが並んでいた。あの3階の外廊下も、給水管の陰も、そのままそこにある。
「聞きました」
近くで、誰かが言った。
深津は動かなかった。声の主は、二階の西側の家の人である。隣にいるのは、五階の女だった。
「佐久間さん、警察に呼ばれたって」
「呼ばれた、じゃないみたいよ。捕まったって」
「え」
「里村さんの件だって。うちの息子が、駅前で聞いてきた。もう先週のことらしいわよ」
「まさか」
「私も、まさかと思った」
二人は、そこで少し黙った。
「なんて言ってるの、あの人」
「突き飛ばしただけです、って言ったって」
深津は、囲いの鋼板を見ていた。
継ぎ目のところに、番号が書いてある。レンタル会社の管理番号である。同じ番号が、少しずつ数字を変えて、ずっと続いている。
「突き飛ばしただけ、って」
「それ以上は言わないって。殺してませんって言ってるらしいわ」
「そんな」
「分からないわよ。人づてだから」
「でも、あの人が」
「そうよねえ。あんなにいい人が」
二人はしばらく話して、それから工事のほうを見た。二号棟の足場が組まれ始めている。話は、そこで自然に途切れた。
尾関は、五、六歩のところに立っていた。
聞こえていないはずがない距離だった。
深津は、その顔を見た。
尾関は何も言わなかった。工事のほうを向いたまま、しばらく立っていた。それから、隣にいた人のほうを向いて、口を開いた。
「この団地はな、いちばん多いときで千人いたんだ」
言われた人は、うなずいた。
深津は、その場を離れた。
囲いに沿って歩くと、東側の門に出る。門のところに警備員が立っていて、工事関係者以外は入れない。深津は名札を持っていない。持っていたのは先月までである。
門の前に、堀内が立っていた。
目が合った。堀内は会釈をした。深津も会釈をした。
二人とも、何も言わなかった。並んで立って、囲いの向こうを見た。見えるのは足場と、クレーンの先だけである。七号棟の屋上のへりが、ぎりぎり見えた。
しばらくして、堀内が口を開いた。
「今日は、風がありませんね」
「そうですね」
「粉塵が上がりましたが、東へ流れました。西の棟のほうへは行っておりません」
「はい」
「9時32分から、10分ほどでした」
深津はうなずいた。
それきり、二人とも黙っていた。黙っているのが、気づまりではなかった。
十分ほどして、堀内は「では」と言って、駅のほうへ歩いていった。深津は少しあとまで残った。
残っているあいだに、篠田が通りかかった。
目が合ったので、深津は会釈をした。篠田は立ち止まった。靴の踵は、まだ踏んだままだった。
「あの」
「はい」
「ひなたが、会いたいって」
深津は、聞き返さなかった。
「いつでも大丈夫です」
「じゃあ、連絡する」篠田は言った。「番号、まだ生きてる」
「生きています」
篠田はうなずいて、行った。
囲いの向こうで、また音がした。低い音である。深津は最後にもう一度、七号棟の屋上のへりを見て、それから駅へ歩いた。




