第三十六話 かえるかもしれない
五月の連休が明けた土曜に、深津は電車に乗った。
篠田とは駅で待ち合わせた。約束の十分前に着くと、もう改札の外にいた。私服で、鞄は持っていない。手ぶらである。
「乗り換え、二回だって」
「調べていただいて、ありがとうございます」
「べつに」
電車は空いていた。並んで座り、一時間半ほど乗った。そのあいだ、篠田はほとんど窓の外を見ていた。深津も、特に話しかけなかった。話しかけなくても、気まずくならない相手だった。
乗り換えの駅で、篠田が言った。
「あいつ、けっこう元気」
「そうですか」
「泣いてるとこ、見たことない。俺の前では」
「……はい」
「学校も行ってる。友達もできたって」
深津はうなずいた。
「伯母さんは、いい人ですか」
「わかんない」篠田は言った。「悪い人ではないと思う。電話に出るとき、声が優しい」
それだけで、二人ともまた黙った。
待ち合わせたのは、団地から二時間離れた町の、小さな公園だった。
伯母の家の近くである。家には上がらないほうがいいと篠田が言い、深津もそう思った。公園には滑り台と鉄棒と、ベンチが二つある。土曜の午前で、親子連れが三組ほどいた。
ひなたは、伯母と一緒に来た。
伯母は五十代の女性で、深津に会釈をした。挨拶をして、少し立ち話をした。手続きのことで一度電話をしている相手である。
「じゃあ、あそこにいますから」
伯母は、公園の反対側のベンチへ行った。見えるところにいて、聞こえないところにいる。そういう距離の取り方だった。
ひなたは、深津の前に立った。
背が伸びていた。四か月前より、少し。髪を後ろで結んでいる。手には、封筒のようなものを持っていた。
「こんにちは」
「こんにちは」
「おぼえてる」ひなたが言った。「かんりのひと」
「はい。深津といいます」
「ふかつさん」
ひなたはベンチに座った。深津は少し離れて座った。篠田は座らずに、鉄棒のほうへ行って、そこに寄りかかった。
「あのね」ひなたが言った。「ありがとう」
深津は、膝の上で手を組んだ。
「ママをさがしてくれて、ありがとう」
風が吹いた。滑り台のところで、子どもが声を上げた。
「おばちゃんが言ってた。ふかつさんが、いちばんにさがしてくれたって。夜に、ひとりで、階段のところまで」
「……はい」
「だから、ありがとう」
深津は、その言葉を受け取った。
受け取る以外に、できることがなかった。訂正することもできる。私は、あなたのお母さんが話したいと言った日に、19時まで待って、それから帰りました。その前の日に、確認済みと四つ書きました。書かなければ、たぶん、こうはならなかった。
言えば、この子は分からない顔をする。分からないまま、何かを覚える。
「どういたしまして」
深津は言った。言ってから、自分の声が普通だったことに、少し驚いた。
ひなたは、封筒を差し出した。
「これ、あげる」
中身は折り紙だった。八つほど入っている。緑と、赤と、黄色。形は、どれも同じではない。
「ぜんぶ、かえる」
「かえるですか」
「かえるじゃないかもしれないけど」
深津は封筒を膝に置いた。
「大事にします」
「うん」
ひなたは足をぶらぶらさせた。ベンチが高いので、足が地面に届かない。
しばらく、二人とも黙っていた。公園の向こうで、伯母がこちらを見て、それから目を戻した。
深津は口を開いた。
「ひなたちゃん」
「なに」
「一つ、話してもいいですか」
「うん」
「私は、二十年前、あの団地に住んでいました。ひなたちゃんが住んでいたのと、同じ棟です」
「そうなの」
「そのとき、同じ年の友達がいました。その子が、階段のところで、亡くなりました」
ひなたは足を止めた。止めて、深津の顔を見た。
「その日、私は自分の部屋の窓から、外を見ていました。何か見えたような気がしました。あとで、大人の人に聞かれたときに、それを言おうとしました」
深津は、そこで一度、息を吸った。
「言いませんでした」
風が、また吹いた。
「言おうとして、口を開けて、それから、やめました。理由は、そのときはよく分かりませんでした。二十年たっても、うまく言えません」
「ふうん」
「あとで分かったのは、私が見たと思ったものは、なかったということです。言っても、何も変わりませんでした。だから、私が黙ったことは、誰にも迷惑をかけていません」
ひなたは、聞いていた。
「かけていないのに、二十年、ずっと覚えていました。覚えていて、それで、また同じことをしました。今度は、大人になってから、同じことを」
深津は膝の上の封筒を見た。
「私は、そういう人間です」
言い終わった。
言い終わってから、自分がいま、二十年で初めてこれを人に話したのだと気づいた。母にも、会社にも、警察にも、佐久間にも、桑名千尋にも話さなかった。話す相手を、ずっと探していたわけでもない。
目の前にいるのは、七歳である。
ひなたは、少し首を傾げた。
「ふかつさん」
「はい」
「はなすの、おそいね」
深津は、口を閉じた。
「うちのおばちゃんも、おそい。おじいちゃんも、おそかった。おとなって、みんなおそい」
「……そうかもしれません」
「ひなたは、はやいよ」
「そうですね」
「ねえ、ブランコない公園って、へんじゃない」
ひなたはベンチから下りて、滑り台のほうを指した。
「まえの公園には、ブランコあったよ。団地の。こわれてたけど」
「ありましたね」
「なんでこわれたままだったの」
深津は答えた。
「直す予算が、つかなかったからです」
「よさん」
「お金のことです」
「ふうん」
ひなたは滑り台のほうへ走っていった。走って、途中で振り返って、篠田に何か言った。篠田は鉄棒に寄りかかったまま、片手を上げた。
深津はベンチに座っていた。
膝の上に、封筒がある。中身は八つ。
帰りの電車で、篠田が言った。
「聞いてた」
深津は顔を上げた。
「さっきの。ぜんぶじゃないけど」
「……はい」
「言わなかったんだ」
「言いませんでした」
篠田は窓の外を見た。線路沿いに、古い家が並んでいる。二階の窓に洗濯物が出ている家と、雨戸が閉まったままの家がある。
「俺も、言わなかった」篠田は言った。「最初に聞かれたとき」
「あとで訂正されました」
「したけど、遅かった」
「遅かったかどうかは、分かりません」
「分かんないよ」篠田は言った。「分かんないままだよ、ずっと」
深津はうなずいた。
電車が駅に停まって、人が乗ってきた。二人はもう話さなかった。乗り換えの駅で、篠田は「じゃあ」と言って、別の線のホームへ行った。深津は「ありがとうございました」と言った。篠田は片手を上げた。
窓の外を、家が流れていく。
どの家にも人が住んでいて、それぞれ何かを見ていて、それぞれ黙っている。深津はそう思って、思ったところで、それも確かめようがないことに気づいた。
あの団地では、七人が七通りのものを見た。どれも本当で、どれも違っていた。並べても一つにならず、一つにならないまま、二人が死んだ。全部説明がついたあとでも、誰が何を見たのかは、結局、その人にしか分からない。
自分が二十年前に見たものも、そうである。
あの窓に映っていたのは自分だったと、いまは分かる。分かったが、あのとき見たものが本当はどう見えていたのかは、もう思い出せない。思い出しているのは、思い出した記憶のほうである。
電車が揺れた。
深津は膝の上の封筒を持ち直した。
中から一つ出して、手のひらに乗せた。緑の紙で、折り目が何本もある。折り直した跡がある。頭の部分らしいところが少し潰れている。
かえるかもしれないし、そうでないかもしれなかった。
深津はそれを封筒に戻し、鞄にはしまわず、手に持ったまま、窓の外を見ていた。




