第三十四話 名前を書く
工場は、始業が8時である。
マイは6時に起きて、湯を沸かし、前の晩に炊いた米を温める。おかずは作り置きで、二日ぶんを日曜に作る。それから支度をして、6時50分に部屋を出る。バスの停留所まで八分。バスは7時5分。
三年と少し、同じ順番でやってきた。
実習の期間は、あと二か月で終わる。終われば帰る。空港までの移動も、会社が手配してくれることになっている。手続きの書類はもう出した。書類にはいつも、名前と、番号と、在留の期限を書く。
団地の部屋は、会社が借りている。解体が決まってから、会社は別の寮を用意した。三月の初めに移る。荷物は少ないので、一日で済む。
この団地に来たのは、二年目の春だった。
最初、廊下ですれ違う人がみんな挨拶をするので、驚いた。国では、そういうことはあまりない。慣れると、こちらからも会釈をするようになった。ごみの分別が難しくて、何度か間違えた。三度目のときに、六号棟の人が教えに来てくれた。宇野さんという人である。
あの人は、紙に書いて説明してくれる。字が大きくて、読みやすい。分からないと言うと、もう一度、別の言い方で説明してくれる。
いい人だと思う。
いい人だと思うが、あの人と話したあとは、いつも少し疲れる。
三月に入って、団地は静かになった。
七号棟は、もうほとんど空である。マイの棟も半分以上が出ていった。夜になると、明かりの点いている窓が数えられるくらいしかない。
管理会社の人が辞めると聞いたのは、宇野からだった。
「三月いっぱいで、お辞めになるそうです」
「そうですか」
「後任の方が来られます。引き継ぎはきちんとされるそうですので、心配は要りません」
「はい」
宇野はそれ以上言わなかった。マイも聞かなかった。
部屋に戻って、マイは壁の時計を見た。
9時20分で止まったままである。買い替えると言ったのに、買わなかった。もうすぐ出るので要らない、と自分に言ったが、本当は違う。
あれを買い替えると、あの晩がなくなる気がした。
あの晩のことを、マイは何度も順番に並べている。
電気が消えた。9時20分だった。時計を見たので、覚えている。
携帯の明かりで、ろうそくを探した。ろうそくはなかった。それで、携帯の明かりをつけたまま、こたつのところに座っていた。
しばらくして、音がした。
下のほうで、何か重いものが落ちるような音だった。人の声ではない。一度だけである。
マイは立ち上がった。窓のところへ行って、カーテンを少し開けた。
外は暗かった。街灯も消えていた。目が慣れるまで、少しかかった。
慣れてから、下を見た。
七号棟の裏のあたりに、白いものが見えた。
何かは分からない。洗濯物かもしれないと思った。風で飛ばされた布か、袋か。あるいは、そうではないもの。
マイは、二分か三分、そこに立っていた。
そのあいだ、頭のなかで、順番に考えた。
もし、あれが人だったら。電話をする。番号は知っている。かければ、来る。来たら、話をしないといけない。名前を聞かれる。住所を聞かれる。カードを見せる。どうしてここにいるのかと聞かれる。会社に連絡がいく。監理団体にも伝わる。
伝わったら、どうなるか。
何も起きないかもしれない。ただ、記録には残る。
国で待っている人がいる。毎月、決まった額を送っている。妹の学校の費用は、それで払っている。あと二か月で、期間が終わる。終われば帰れる。
もし、あれが人でなかったら。
布か、袋か、何かの見間違いだったら。私は夜中に電話をして、人を呼んで、それで、何もありませんでしたと言うことになる。そういう人になる。
マイはカーテンを閉めた。
閉めて、こたつのところに戻り、座った。それから、寝た。眠れなかったが、布団には入った。
朝、外が騒がしかった。
窓から見ると、人が集まっていた。青いシートが敷かれていた。
あれは、人だった。
管理会社の人が来たのは、その何日かあとである。
停電の時刻を聞かれた。9時20分ですと答えた。時計を見ましたと答えた。
音を聞きましたかと聞かれた。聞きましたと答えた。時刻を聞かれて、9時20分ですと答えた。
窓からは、と聞かれた。
見ていません、と答えた。
あの人は、それ以上聞かなかった。礼を言って帰った。ドアを閉めて、鍵をかけたあと、マイは玄関に立っていた。
言うことは、できた。
窓を開けて、下を見ました。白いものが見えました。でも、確かではありませんでした。だから、電話をしませんでした。
それを言うと、次を聞かれる。なぜ確かめなかったのか。なぜ翌朝まで黙っていたのか。
答えは持っている。持っているが、その答えを言うと、私がどういう立場かを説明することになる。説明すると、書かれる。書かれたものは、どこかへ行く。
あとで、宇野が言った言葉を思い出した。
見ていないなら、見ていないと言えばよいのです。見ていないことを言うのは、嘘ではありません。
私は、見ていた。
三月の第二週に、警察の人が団地に来ていた。
コートを着た年配の男である。前にも何度か見たことがある。この人は、いつも一人で、住民に話しかけて、手帳を出さずに聞いている。
その日、マイはバスを降りて、団地の入り口を歩いていた。
男は、七号棟の下に立っていた。上を見上げていた。
マイは通り過ぎた。
通り過ぎて、十歩ほど行って、止まった。
止まった理由は、自分でもよく分からなかった。荷物は重かった。仕事のあとで疲れていた。あと二か月で帰る。誰も、私に何も聞いていない。
振り返った。
男はまだ上を見ていた。
マイは戻った。自分から人に話しかけるのは、この団地で二度目である。一度目は、ごみの分別を教えてもらったあと、お礼を言いに行ったときだった。
「すみません」
男が振り返った。
「はい」
「警察の方ですか」
「そうです」
「話を、聞いてもらえますか」
男は、少しだけ姿勢を変えた。
「どうぞ」
「去年の、停電の夜のことです」
マイは言った。言ってから、続きを頭のなかで組み立てた。日本語で、順番に言わないといけない。
「私は、9時20分に音を聞いたと言いました。管理会社の人に、そう言いました。でも、それは違います」
「違う」
「時計が、止まっていました。停電のときに止まりました。私は、音を聞いてから、時計を見ました。時計は9時20分でした。だから、9時20分だと思いました」
男は、うなずいた。
「実際は、もっとあとです。どのくらいあとかは、分かりません」
「なるほど」
「それから」
マイは、荷物を持ち直した。
「窓を、見ました。見ていないと言いましたが、見ました。下に、白いものが見えました。人かどうか、分かりませんでした。電話は、しませんでした」
言い終わった。
男は、しばらく黙っていた。それから、内ポケットから手帳を出した。この人が手帳を出すのを、マイは初めて見た。
「お名前をうかがえますか」
マイは名前を言った。
男は書いた。それから、勤め先を聞き、在留の資格を聞き、期限を聞いた。マイは全部答えた。答えながら、自分の声が震えていないことに、少し驚いた。
「ありがとうございます」男は言った。「大事な話です」
「はい」
「今日うかがったことは、記録に残ります。それはご了解いただけますか」
「はい」
「もう一度、詳しくうかがう必要が出るかもしれません。そのときは、通訳を用意します」
「日本語で、大丈夫です」
「分かりました」
男は手帳を閉じた。閉じてから、一度、七号棟のほうを見た。
「あの晩、電話をしていたら、というお考えでしたら」
マイは男の顔を見た。
「それは、私には分かりません」男は言った。「分からないことを、あるように言うのは、私の仕事ではありませんので」
「はい」
「ただ、いま話していただいたことは、無駄にはなりません」
マイは頭を下げた。下げてから、バスの停留所のほうへ歩き出した。
部屋に戻って、荷物を置いた。
手が、少し冷たかった。ストーブをつけて、湯を沸かした。
壁の時計を見た。9時20分のままである。
マイは椅子を持ってきて、時計の下に置いた。乗って、時計を壁から外した。裏の電池のところではなく、コードを抜いた。
時計を持って、椅子から下りた。
燃えないごみの日は、明後日である。




