第三十三話 受付
市役所は、駅の東口から歩いて七分のところにある。
深津は9時の開庁に合わせて行った。三階の建築指導課は、廊下側がカウンターになっていて、番号札の機械が置いてある。取ると、七番だった。前に二人いた。
待っているあいだ、封筒の中身をもう一度確かめた。
様式が二枚。指摘事項の欄には、非常照明の設置状態と、自主点検の記載との相違、共用部の手すりの不備、その状態が継続していた期間。添付として、自分で撮った写真を印刷したもの。撮影日時が入るように出力してある。
物件の所在の欄には、正式な表記で書いた。第七号棟。図面と台帳の上ではそう書く。口に出す人は、いない。
通報者の氏名の欄には、名前を書いた。連絡先も、会社ではなく自宅にした。
番号が呼ばれた。
窓口に出てきたのは、四十代くらいの男性だった。
「情報提供の件でしょうか」
「はい」
書類を渡した。担当者は座ったまま、上から順に読んだ。読む速さは、茅野より少し遅い。指で行を追いながら読む人だった。
二枚目まで行って、顔を上げた。
「管理会社の方ですね」
「はい」
「所属を書いていただいていますが、これは会社としてのご報告ですか」
「いいえ。個人です」
「そうですか」
担当者は何も表情を変えなかった。ボールペンで、余白に小さく何か書いた。
「この物件は、除却の予定が出ていますね」
「四月着工です」
「そうしますと、是正の指導はできません。建物がなくなりますので」
「はい。うかがっています」
「情報提供として受け付けて、記録に残す形になります。それでよろしいですか」
「それで結構です」
担当者は受付印を押した。
押して、控えの紙をカウンターの上で回して、こちらへ向けた。日付、受付番号、件名、担当者名。それだけの紙である。
「何かありましたら、こちらの番号でお問い合わせください」
「ありがとうございます」
「あの」
深津は封筒をしまう手を止めた。
「差し支えなければ、うかがってもいいですか」担当者は言った。「除却が決まっている建物について、ご自身の会社の管理の不備を、個人でご報告される方は、あまりおられませんので」
深津は少し考えた。
考えて、答えを持っていないことに気づいた。用意していた説明はある。管理の記録と実態に差がある状態を放置したことは、期間の長短にかかわらず問題であり、それを記録に残す必要があると考えました。そう言えば通る。
通るが、それは理由ではない。
「そこで、人が二人亡くなりました」
担当者はうなずいた。
「そうですか」
それ以上は聞かなかった。書類を揃えて、脇のトレイに入れた。トレイには、ほかにも何枚か紙が入っていた。
深津は礼を言って、窓口を離れた。
廊下を歩いて、階段を下りて、外へ出た。外は晴れていて、風がなかった。庁舎の前の花壇に、球根の芽が出ている。
時計を見ると、9時22分だった。
全部で二十分だった。
支店に着いたのは、10時半である。
茅野は席にいた。深津を見て、応接のほうを指した。二人で入り、深津はドアを閉めた。
封筒を出した。
「退職願です」
茅野は受け取った。開けて、中身を出し、上から下まで読んだ。日付、宛名、退職の理由、退職希望日。理由の欄には、一身上の都合と書いた。
「三月三十一日か」
「はい」
「退去期限と同じ日だな」
「そうなります」
茅野は紙を机の上に置き、角を揃えた。
「処分はまだ出ていない。出る前に辞めると、処分を逃れたことになる」
「なりますか」
「なる。記録上はそうなる。それでいいのか」
「かまいません」
「私は、悪くない処分になると思っていた。始末書と、減給が一回。お前の業務内容と、経緯を書いて上げてある」
深津は膝の上で手を組んだ。
「ありがとうございます」
「礼を言われることじゃない。書いたのは事実だ」
茅野は退職願を封筒に戻した。
「今日、市役所へ行ったのか」
深津は顔を上げた。
「先週、建築指導課から本社へ問い合わせがあった。当該物件について管理会社の社員から相談を受けたので、状況を確認したい、という内容だ。名前は伏せてあったが、うちの担当者からの相談だと書いてあった」
「……そうですか」
「本社は、事実関係を確認して回答すると答えた。それだけだ。それ以上は何もない。建物がなくなるからな」
「はい」
「聞かないぞ、私は」茅野は言った。「お前が何を書いたか、なぜ書いたか、聞かない。聞けば、私が上へ上げなければならなくなる」
「分かりました」
茅野は立ち上がり、封筒を持って、ドアのところまで行った。ノブに手をかけて、そこで止まった。
「三月末までは、いつもどおりやってくれ。退去が七十戸残っている」
「やります」
「それだけだ」
ドアが開いて、閉まった。
応接室に一人残された。壁に会社の営業所の一覧が貼ってあって、その端が少し浮いている。深津はそれを見て、押さえようとして、やめた。もう自分の会社ではなくなる場所である。
団地へ戻ったのは、昼過ぎだった。
集会所の鍵を開け、ストーブに火を入れ、湯を沸かした。午後は退去の面談が二件ある。一件目の家は、荷造りがまだ半分で、業者の手配について相談したいということだった。
深津は資料を出して、机に並べた。
並べているあいだ、外で車の音がした。窓から見ると、四号棟の前にトラックが停まっている。引っ越しである。今日は二軒出る予定だった。
何も起きていない。
朝、市役所で二十分かけて出した書類は、いま、トレイの中にある。誰かがそれを読んで、本社に照会をかけて、本社が事実関係を確認して回答する。回答されたものは、どこかのファイルに綴じられる。綴じられたら、それで終わりである。
建物は四月に壊される。
壊れれば、非常灯も、手すりも、階段室も、この集会所も、全部なくなる。書類に書いた場所は、書いた二か月後には存在しない。存在しない場所についての記録が、市役所の書庫に残る。
深津は湯呑みを一つ出した。
誰も来ない。誰も止めなかった。佐久間は止めなかったし、茅野も止めなかった。会社は照会に答えるだけで、住民には何も伝わっていない。この団地の誰も、今朝のことを知らない。
止められれば、意味があったのかもしれない。
止められなかった。
深津は湯を注いだ。注ぎながら、自分がこの三か月、何を期待していたのかを考えた。期待していたものがあったはずである。あの人が捕まるとか、記録が動くとか、誰かが説明を求めてくるとか。
どれも起きなかった。
起きないことは、最初から分かっていた。分かっていて、それでも出した。出した理由は、いま、うまく言えない。
13時40分に、引き戸が鳴った。
一件目の面談の人である。深津は立ち上がり、パイプ椅子を引いた。
「お待ちしておりました。どうぞ」
湯呑みを、もう一つ出した。
夕方、堀内が来た。
退去の日程の確認である。三月の第三週に移ると決めたので、鍵の返却の手続きを聞いておきたい、ということだった。深津は書式を出して、順に説明した。
説明が終わってから、言った。
「一つ、お伝えしておくことがあります。私は三月いっぱいで、この仕事を離れます」
堀内は書式を持った手を、そのまま下ろした。
「そうですか」
「後任の者が来ます。引き継ぎはいたしますので、手続きに影響はありません」
「はい」
「堀内さんには、いろいろと教えていただきました。ありがとうございました」
名前を呼んでから、深津は頭を下げた。
堀内は何も言わずに、書式をたたんだ。たたみ方が丁寧で、角が揃っていた。
「深津さん」
「はい」
「あの日、私が申し上げたことは、何かの役に立ちましたでしょうか」
深津は答えるまでに、間が空いた。
「立ちました」
「そうですか」
堀内はうなずいて、引き戸のほうへ行った。開けて、外へ出て、それから振り返らずに歩いていった。四百十歩、と深津は思わなかった。その数を知らない。




