第三十二話 止めない
行政の窓口は、市の建築指導課だった。
電話で確かめたのは、受け付けてもらえる範囲である。解体予定の建物についても、管理上の不備に関する情報提供は受け付ける、という回答だった。受け付けるが、建物が除却される場合、是正指導の対象にはならない。記録として残る。それだけです、と担当者は言った。
「それだけでも構いません」
「どういったご用件でしょうか」
「非常照明が三年間、床に置かれたままになっていました。防災の自主点検の記録には、正常と記載されています。それから、共用部の手すりに構造上の不備があり、その状態が長期間続いていました」
「管理会社の方ですか」
「はい」
電話の向こうで、少し間があった。
「ご自身の会社の管理する物件について、ということですか」
「そうです」
「……分かりました。書面でお願いします。様式はこちらから送ります」
深津は礼を言って、電話を切った。
様式は翌日に届いた。A4で二枚。物件の所在、通報者の氏名と連絡先、指摘事項、確認した日時、根拠資料の有無。氏名を伏せることもできると注記があったが、深津は書くつもりだった。
伏せると、記録に残らない。
佐久間が来たのは、その週の金曜だった。
16時を少し過ぎたころで、深津は書類を書いていた。引き戸が鳴って、顔を上げると、佐久間が立っていた。手に何も持っていない。この人が手ぶらで来るのは珍しい。
「入ってもいいかい」
「どうぞ。お座りください」
佐久間はストーブに近い椅子に座った。深津は湯呑みを二つ出した。
「あんた、会社をやめるのかい」
深津の手が止まった。
「どちらでお聞きになりましたか」
「聞いたわけじゃない。四号棟の人が、支店の人が来てあんたと長く話していたと言っていた。それから、あんたが最近、鍵の申請を何度もしているとも聞いた。空き部屋を見て回っているんだろう」
「業務です」
「業務だろうね」
佐久間は湯呑みを両手で包んだ。
「悠一くん。私はね、あんたのことを、子どものころから見てる」
「はい」
「あんたは昔から、そういう子だった。何かあると、自分のせいだと思う子だ。宿題を忘れた子がいると、自分が教えなかったからだと思うような子だった。あれは、いい性質じゃないよ」
深津は答えなかった。
「あの女の人が亡くなってから、ずっとだ。里村さんのこともそうだ。あんたは二人とも、自分のせいだと思ってるだろう」
「……そういうことでは」
「そういうことだよ」
佐久間は茶を一口飲んだ。
「あんたが何を調べてるのか、私は知らない。知らないが、あんたが何かを人に言おうとしていることは分かる。書いてる書類が、いつもと違うからね」
深津は机の上を見た。様式は伏せてある。伏せてあっても、この人には分かるのだろう。二十年、この団地で書類を扱ってきた人である。
「あんたがそうしたいなら、そうすればいい」佐久間は言った。「私は止めないよ」
「……はい」
「ただ、あの団地はもうなくなるよ」
外で、風が鳴った。
「四月には壊し始めるんだろう。壊せば、何も残らない。あんたがどこへ何を書いたって、書いた先にあるのは、もうない建物だ。誰も見に来られない。誰も確かめられない」
「記録には残ります」
「残るね」佐久間はうなずいた。「残ることは、いいことだ。私も、記録は大事だと思ってきたよ。管理人ってのは、記録をつける仕事だからね」
深津は湯呑みに手を伸ばさなかった。
佐久間の言い方には、皮肉がなかった。責める調子も、脅す調子もない。本当に、そう思っている人の言い方だった。
少し沈黙があった。
ストーブの音がしている。灯油の残りが少ないので、ときどき音が変わる。
「あんた、ちゃんと寝てるかい」佐久間が言った。
「寝ています」
「顔色が悪いよ」
「そうでしょうか」
「悪い。人に言われないかい」
「言われません」
「言う人がいないんだね」
佐久間は湯呑みを置いた。
「私も言われたことがあるよ。顔色が悪いって」
深津は顔を上げた。
「里村さんにね」
部屋の音が、遠くなった。
「あの人も、あんたと同じで、人のことをよく見てる人だった。廊下で会っただけなのに、佐久間さん、大丈夫ですかって聞いてくれてね。私はあのとき、寝られなくてね、参ってたんだ。それを見抜かれた」
「……いつごろのことでしょうか」
「桑名さんが亡くなったあとだよ。二週間くらい経ったころかね」
「そうですか」
「無理しないでくださいって言われた。佐久間さんに何かあったら、みんな困りますからってね」
佐久間は湯呑みの底を見た。
「ああいう人が、ああいうことになるんだから、分からないもんだ」
深津は膝の上で手を組んでいた。組んでいることに、そのとき気づいた。
里村明日香は、あの人に声をかけていた。
千尋が死んで二週間後。ちょうど、佐久間の顔色が悪かった時期である。そして、彼女はその二か月後に、階段室で死んだ。
深津の頭のなかで、順番が並び直った。
里村は、佐久間の様子がおかしいことに気づいていた。気づいていて、心配して、声をかけた。声をかけたのだから、その後もあの人を見ていたはずである。見ていて、何かに気づいたかもしれない。
私に話したいことがある、とあの人は言った。
電話では言えないと言った。
「深津さん」
名字で呼ばれた。この人が名字で呼ぶのは、聞いたことがない。
「はい」
「顔が白いよ」
「……いえ」
「無理をしなさんな」
佐久間は立ち上がった。手をこたつの縁につくような動作をして、そこに何もないので、椅子の背に手を置いた。
「私はもう帰るよ。あんたは書きなさい。書くのがあんたの仕事だ」
引き戸のところで、一度振り返った。
「悠一くん。あんたのお母さんは、元気かい」
「……元気にしています」
「そうか。よかった」
引き戸が閉まった。
深津は、しばらく動かなかった。
湯呑みが二つ、机に置いてある。佐久間のほうは半分残っていた。深津のほうは、口をつけていない。
いま、この人は何を言いに来たのか。
止めに来たのではない。止めないと言った。脅しに来たのでもない。何も要求しなかった。心配しに来た、というのがいちばん近い。実際、心配していた。顔色が悪いと言われて、そのとおりだと思った。
そして、里村の名前を出した。
出した理由は、たぶん、ない。話の流れである。顔色が悪いという話から、自分も言われたことがあるという話になり、言ってくれた人の名前が出た。それだけである。
それだけのことを、この人は、いま、自分に話した。
深津は立ち上がり、引き戸を開けた。
外はもう暗い。佐久間の背中が、並木の手前を歩いていく。急いでいない歩き方だった。途中で立ち止まって、掲示板の紙を見て、めくれているところを指で押さえた。それから、また歩き出した。
深津は引き戸を閉めた。
机に戻り、伏せてあった様式を表に返した。
物件の所在。通報者の氏名。指摘事項。確認した日時。根拠資料の有無。
深津はペンを取り、上から順に埋め始めた。




