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第七号棟の夜  作者: 卓哉
第四章 解体

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第三十話 雨の日の窓

 二十年前のことを確かめる方法は、もう残っていなかった。


 当時の管理会社の記録はない。自治会の綴りは処分された。管理室は空である。検視の結果は警察にあるはずだが、深津が見られるものではない。桑名千尋が半年かけて集めたものは、紙袋一つに入って机の上にある。


 残っているのは、自分の記憶だけだった。


 その記憶を、深津は二十年、一度も点検していない。思い出さないようにしてきたので、点検する機会がなかった。思い出さないというのは、正確ではない。毎日ではないが、年に何度か、勝手に戻ってくる。戻ってくるたびに、同じところで止める。


 止めていたのは、あの一場面である。


 窓の外に、二人いた。




 深津は退去済み住戸の一覧を出した。


 七号棟の4階、東から二番目。十一月に退去している。鍵は現地事務所で保管していて、持ち出しには申請が要る。


 申請書の理由の欄に、深津は書いた。


 解体前の残置物および内装状況の確認。


 嘘ではない。空き住戸の状態確認は業務のうちである。ただ、それが目的ではない。この一か月で、同じ書き方を三度した。


 鍵を持って出たのは、翌週の火曜だった。


 その日は朝から雨だった。冬の雨で、風はない。廊下の床が濡れて、外の光を鈍く返している。深津は傘を閉じ、4階の東から二番目の戸の前に立った。


 二十年前まで、ここに住んでいた。


 鍵を開けた。




 部屋は空だった。


 畳は上げられていて、下地の板が見えている。壁のクロスは剥がれかけていて、鴨居のあたりに前の住人の画鋲の穴が残っていた。二十年のあいだに何組か入れ替わっている。深津の家族が住んでいた痕跡は、どこにもない。


 台所へ行った。


 流しの位置は変わっていた。以前は反対側だったはずだが、途中で改修が入ったのだろう。ただ、窓の位置は同じである。動かしようがない。


 深津は窓のところへ行った。


 北向きの小窓である。腰より少し高い位置に付いていて、開けると外廊下ではなく、外廊下の向こう側が見える。この棟の北側には、もう一つ棟が立っている。あいだは十五メートルほどで、そのぶんだけ空がある。


 子どものころ、ここに椅子を持ってきていた。


 台所の丸椅子である。それを窓の下に置いて、乗って、外を見た。母は帰りが遅かった。テレビは飽きた。だから、外を見ていた。誰が帰ってくるか、誰が出ていくか。それを見ているのが、いちばん時間が過ぎた。


 深津は椅子を持ってきていなかったので、少し膝を曲げて、その高さに目を合わせた。


 外は雨である。


 向かいの棟の窓が、こちらを向いて並んでいる。北面なので日が当たらない。ガラスは暗く、鏡のようになっていた。


 そこに、この棟が映っている。


 外廊下の手すりが映っている。柱の並びが映っている。給水管の縦の線が映っている。ぜんぶ左右が逆になって、少し歪んで、雨のぶんだけ滲んでいる。


 深津は動かなかった。


 映っているものの中に、自分がいた。


 窓のところに立っている人影である。小さく、暗く、輪郭だけ。この部屋の窓は、向かいのガラスに映るところにある。当たり前である。映る位置にあるから、映っている。


 深津は右手を上げた。


 映っているほうも、上げた。


 下ろした。下ろした。


 二十年前、そこには二つの人影が見えた。


 一つは、外廊下の、3階と4階のあいだのあたりにいた。もう一つは、そこから少し離れたところにいた。二つとも、ガラスの中にいた。二つとも、輪郭だけだった。


 深津はそのとき、外廊下に二人いると思った。


 思って、次の瞬間に、片方が落ちた。


 落ちたのは、ガラスの中の像である。像が落ちたということは、実物が落ちたということである。それは正しい。


 問題は、もう一つのほうだった。


 深津は膝を曲げたまま、向かいのガラスを見ていた。


 もう一つの人影は、動かなかった。落ちなかった。少ししてから、消えた。消えたときのことを、深津はよく覚えている。誰かが廊下の奥へ行ったのだと思った。行ってしまったのだと思った。


 消えたのは、自分が椅子から下りたからである。


 深津は膝を伸ばした。


 ガラスの中の人影が、上へずれて、それから窓枠の陰に入った。


 もう一度屈んだ。


 戻ってきた。




 深津は台所の床に座った。


 下地の板が冷たかった。しばらく、そこに座っていた。


 二十年前、自分が見たのは、同級生と、自分だった。


 外廊下には、その子しかいなかった。もう一人はいなかった。だから、あのとき警察の人に「誰もいませんでした」と答えたのは、正しかった。正確だった。


 正確だったのに、言えなかったことがある。


 もう一人いたかもしれません、と言おうとした。言おうとして、部屋の隅に立っていた管理人の顔を見た。その人は、母の隣に立って、うちの子はまだ小さいのでと言ってくれていた。あんまり長く聞かないでやってください、と言ってくれていた。


 あの人の顔を見て、口を閉じた。


 閉じた理由を、深津は二十年、こう思ってきた。確信が持てなかったからだ、と。確信が持てないことを、確信が持てないと言えなかった。それが自分の罪だと思ってきた。言っていれば、何かが違ったかもしれないと思ってきた。


 違わなかった。


 言っても、そこには誰もいなかった。もう一人はいなかった。捜索も、聴取も、何も増えなかった。事故は事故のまま処理された。自分が黙ったことは、何にも影響していない。


 二十年、抱えていたものが、空だった。


 深津は膝の上で手を組んだ。組んでから、何のために組んだのか分からなくなって、ほどいた。


 空だった、と分かったことで、何かが軽くなるかと思った。


 ならなかった。


 軽くならない理由は、すぐに分かった。


 あの日、外廊下に本当に人がいたかどうかは、問題ではなかったのである。問題は、手すりだった。支柱の根元が欠けていて、押せば軋む状態で、二十年前からそうだったかもしれないという可能性のほうである。


 それを知っていた人間がいたかどうか。


 十二歳の自分は、そんなことを考えなかった。考えられなかった。だから、あのとき言うべきだったのは、もう一人いたかもしれません、ではない。


 言うべきことは、あのとき、自分の中になかった。


 なかったものを、二十年、責め続けていた。




 深津は立ち上がり、部屋を見て回った。


 六畳と四畳半と台所。押し入れを開けると、上の段の隅に、古い新聞紙が敷いたままになっていた。日付を見ると、四年前である。深津の家族のものではない。


 窓を閉め、鍵をかけ、廊下へ出た。


 雨は少し弱くなっていた。外廊下の床が濡れて、光っている。深津は3階へ下り、階段寄りの手すりのところへ行った。


 支柱の根元は、白いモルタルで埋められている。三か月近くたって、周りの色に少し近づいていた。


 手をかけて、押した。動かなかった。


 深津はそこに立って、向かいの棟を見た。


 この位置からも、ガラスは鏡になっている。映っているのは、外廊下と、そこに立っている自分である。一人だけだった。


 傘を差して、階段を下りた。


 集会所へ戻り、鍵を返却簿に記入して戻した。返却の時刻を書き、判を押した。それから机に座り、紙袋を引き寄せた。


 布張りの家計簿を出した。


 表紙の角がすり切れている。開くと、細い字が並んでいた。


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