第二十九話 合わない一本
紙袋の中身は、三つに分かれていた。
一つ目は、新聞の縮刷版の複写である。二十年前の地方版で、八行の記事があった。団地の五階建て住宅で小学生が転落し死亡、事故と見られる、と書いてある。名前が載っている。深津はその行を、二度読んだ。
二つ目は、A4の一覧表だった。
日付、場所、関係者、確認済みか未確認か。桑名千尋が半年かけて作ったものである。左端の日付は二十年前から始まり、下へ行くほど新しくなる。字は細かく、罫線からはみ出していない。
深津は上から順に読んだ。
事故の日付。搬送先の病院。検視の結果。当時の管理会社の名称と、その会社が七年後に管理から外れたこと。現在の管理会社の名称。ここまでは、確認済みの欄に丸がついている。
その下から、未確認が続く。
当時の点検記録の所在。手すりの補修履歴。管理人の常駐時間。事故当日、現場に最初に到着した人物。
いちばん下から三行目に、こう書いてあった。
当時の管理人。氏名、佐久間。事故後、自宅への訪問七回。母の記録による。理由の記載は一回のみ。
確認済みの欄は、空白だった。
深津は椅子の背に体を預けた。
あの人は、亡くなる前の時点で、そこまで並べていた。並べたうえで、確認する手段がなかった。手すりの写真を撮り、記録を探し、住民に断られ続けた。そして最後に、手順を捨てて直接ぶつかった。
三つ目は、布張りの家計簿だった。
深津はそれを紙袋に戻した。まだ読めなかった。読む順番が、まだ来ていない気がした。
鍵の話に戻る。
あの晩、受変電設備の小屋を開けた人間がいる。小屋は南京錠ではなく、シリンダー錠である。壊された形跡はない。
鍵は、二本のはずだった。
本社の設備管理部に一本、現地事務所に一本。深津は自分の管理する鍵束を確認し、本社にも電話して現物の所在を確かめた。どちらもあった。あの晩、持ち出しの申請はない。
二本とも動いていない。
では、なぜ開いたのか。
深津はスチール棚の下の段から、引き継ぎ目録のファイルを出した。
十月に一度、開いている。事故報告や苦情の記録に当たる項目がないことを確かめて、そこで閉じた。そのとき見たのは、書類の項目だけだった。
今度は、後ろのほうを開いた。
備品の欄がある。図面、竣工書類、設備の保証書、脚立、掲示板の鍵。その下に、鍵の一覧があった。
品目ごとに、本数が書いてある。集会所、管理室、各棟の共用部、電気室。
電気室。三本。
深津はその行を、指で押さえた。
三本である。二本ではない。
備考の欄に、細かい字で書き込みがあった。前の管理会社の担当者の字だろう。ボールペンの色が本文と違う。
「うち一本、前管理人退職に伴い返却済」
日付が入っている。事故の翌年の三月である。
深津は自分の鍵束を机に置いた。それから本社の分の所在を書いたメモを横に置いた。二本である。
三本目は、どこにあるのか。
返却済みと書いてある。返却されたのなら、前の管理会社が保管していたはずである。保管していたのなら、引き継ぎのときに一緒に渡されているはずである。
目録の受領の判は、押してある。
項目ごとに、受け取った側の判が押してある。電気室の行にも、判がある。判があるということは、当時の担当者が、そこに書かれたものを受け取ったと認めたということである。
深津は電話をかけた。
本社の総務に、引き継ぎ時の受領物の現物確認をしたいと伝えた。倉庫に保管されている段ボール四箱の中身である。担当者は嫌がらなかった。解体前の整理ということで、話は通った。
折り返しは、翌日の午後に来た。
「鍵はありますよ。袋に入って、まとめて」
「本数を教えていただけますか」
「ええと、集会所が二本、管理室が二本、共用部が……ちょっと待ってください」
紙をめくる音がした。
「電気室、二本ですね」
深津は受話器を持ち直した。
「目録には三本と書いてあります」
「そうですか。うちにあるのは二本です」
「その二本は、いま本社と現地にある分と同じものでしょうか」
「いや、別ですね。倉庫のは倉庫の袋に入ったままです。動かしていません」
深津は目を閉じた。
「では、いま存在するのは、本社の一本、現地の一本、倉庫の二本で、合計四本ということになりますか」
「そうなりますね。あれ、多いですね」
「多くはありません」深津は言った。「更新のときに増えているはずです。四年前に設備を入れ替えていますので、そのときに新しい錠と鍵が入っています」
「ああ、なるほど。じゃあ、倉庫の二本は古い鍵ですね」
「はい。使えません」
「じゃあ、合ってますね」
「……はい」
電話を切った。
合っていない。
新しい錠に対する鍵は、本社と現地の二本である。古い錠に対する鍵は、目録に三本と書いてある。倉庫にあるのは二本。
一本、足りない。
足りない一本は、事故の翌年に「返却済」と書かれたものである。書かれているだけで、どこにも存在しない。
深津は机の上を見た。
四年前の設備更新。錠を替えたのなら、古い鍵は使えないはずである。使えないなら、この線は消える。
消えるかどうかを確かめるために、深津は工事課へ電話した。
「四年前の受変電設備の更新工事ですが、電気室の扉の錠は交換されていますか」
「扉ですか」
「はい」
しばらく待たされた。
「盤の更新だけですね。建屋と扉は既存のままです。仕様書にもそう書いてあります」
「では、錠は」
「そのままです」
深津は礼を言って、受話器を置いた。
置いた手を、そのまま机に置いたままにした。
その夜、深津は集会所の裏へ回った。
小屋は、ブロック塀と植え込みのあいだにある。扉は鉄製で、塗装が浮いていた。取っ手の下にシリンダーがある。屈んで見ると、鍵穴の周りだけ、塗装の剥げ方が違う。使われている面と、使われていない面の差である。
深津は懐中電灯を近づけた。
傷は新しくない。ただ、ここ数年で誰かが何度か開けているとしても、この見た目では分からない。分からないものは、証拠にならない。
立ち上がって、七号棟のほうを見た。
この小屋から七号棟の入り口までは、歩いて一分ほどである。植え込みの脇を通れば、集会所の前を通らずに行ける。
9時20分に電気を落とす。
9時47分に棟の入り口の扉が鳴る。
10時2分に電気が戻る。
10時20分に扉がもう一度鳴る。
深津はその順番を、頭のなかで並べ直した。並べ直しても、順番は変わらなかった。
電気を落としてから27分後に、あの人は棟の外へ出た。何かをして、戻った。戻ったときには、もう電気は戻っている。
外にいたのである。
全員が家にいたと言っている晩に、一人だけ。
深津は懐中電灯を消した。
消すと、あたりは思ったより暗かった。外灯は半分しか点いていない。塀の向こうに七号棟が立っていて、一階の窓に一つだけ明かりがある。階段にいちばん近い戸である。
その明かりは、しばらく点いていた。
深津は動かなかった。動かないまま、自分が何をしているのかを考えた。
いま自分がしていることは、業務ではない。会社は関与しないと書面で通知している。権限のない記録を取ったことは報告済みで、処分を待っている。処分が出れば、たぶん、ここにはいられない。
いられなくなるまでの日数を、深津は数えた。
数えているあいだに、一階の明かりが消えた。




