第二十八話 権限
中止の指示は、書面で来た。
封筒に入った通知で、宛先は深津個人ではなく現地事務所である。表題は「団地内で発生した事案に関する対応について」。中身は三項目だった。
一、当該事案の原因究明は警察及び関係機関の所管であり、当社は関与しない。
二、住民からの聞き取りは、退去手続きに必要な範囲に限る。
三、住民から事案に関する申し出があった場合は、内容を記録のうえ、速やかに管理部主任へ報告する。
三項目とも、これまで口頭で言われてきたことだった。書面になったのは、書面にしておく必要が生じたということである。
深津はそれを、机の引き出しに入れた。
里村明日香が亡くなってから、団地は静かになった。
互いを名指しする声は、聞こえなくなった。あの晩どこにいたのかと聞き合うこともない。噂そのものが減った。減ったというより、口に出さなくなった。人が二人死んだあとで、その話をするのは、さすがに気が引けるらしい。
代わりに、退去が早まった。
三月末が期限のところを、一月のうちに出ていく家が七戸あった。理由を聞くと、どの家も同じことを言う。子どもがいるので。次が決まったので。もう荷物もまとめてあるので。誰も、怖いからとは言わない。
深津は転居先の欄が埋まっていく一覧を見ながら、これはいい傾向です、と本社へ書いた。書いて、送った。
残っている手がかりは、一つだった。
停電である。
あの晩、団地全体の電気が落ちた。復旧まで42分。この規模の停電は、この三年で一度もない。落雷もなかったし、電力会社からの事故報告も来ていない。
受変電設備は、集会所の裏の小屋に入っている。四年前に更新されていて、遠隔監視の装置が付いている。動作の記録は本社のサーバへ送られ、設備管理部が管理している。
深津は端末の前に座り、社内システムを開いた。
設備データの区分に入ると、閲覧権限がありません、と表示が出る。この区分は設備管理部と、支店の管理職に開いている。現地担当には開いていない。
深津はいったんログアウトした。
それから、設備管理部へ電話をかけた。
「現地事務所の深津と申します。解体前の設備調査の件で、受変電設備の動作履歴をいただきたいのですが」
「どの期間ですか」
「昨年度の初めから、先月までです」
「解体前の調査ですと、直近三か月ぶんで足りるはずですが」
「更新後の稼働状況を通しで見たいので、年度でまとめてお願いできますか」
「様式は」
「CSVで結構です」
「工事課からの依頼書はありますか」
深津は一拍置いた。
「工程の資料としてこちらで使いますので、依頼書はありません」
電話の向こうで、キーボードの音がした。
「まあ、社内の資料ですから、いいですよ。メールで送ります」
「助かります」
受話器を置いた。
置いてから、しばらく机を見ていた。
いま自分が言ったことは、嘘ではない。解体前の設備調査は実際に予定されている。工程の資料として使うのも本当である。ただ、それが目的ではない。
目的でないことを目的として言うのは、何と呼ぶのか。
二十分後に、メールが届いた。
表を開いた。
行は数万あった。電圧、電流、力率、警報の有無。一分ごとの記録が延々と並んでいる。深津は日付で絞り込み、あの晩のところまで下ろした。
21時19分。すべての値が正常。
21時20分。主遮断器、開放。
種別の欄に、記号が入っていた。凡例を探すと、末尾に一覧がある。自動遮断は別の記号である。この記号は、手動操作を意味していた。
地絡でも、過電流でも、落雷でもない。
誰かが、開けた。
深津は画面を見たまま動かなかった。
22時2分。主遮断器、投入。同じ記号。
開けた人が、戻した。
その間、42分。
深津は椅子の背に体を預けた。天井の蛍光灯が、一本だけ端のほうで点滅している。前から点滅していて、直していない。
操作した人物の記録は、どこにもなかった。
この装置は、誰が操作したかを記録しない。小屋の鍵の開閉も記録しない。鍵は本社と現地事務所にあり、現地の分は深津が管理している。持ち出しには申請が要る。申請の記録は、あの晩の分にはない。
深津は自分の管理する鍵束を出した。
小屋の鍵は、そこにある。使った覚えはない。
鍵は、これ一本ではない。
翌朝、深津は支店へ行った。
茅野は会議から戻ったところだった。深津を見て、会議室のほうを指した。二人で入り、深津はドアを閉めた。
「昨日、受変電設備の動作履歴を取り寄せました」
茅野は座った姿勢のまま、こちらを見た。
「権限は」
「ありません。設備管理部に、解体前の調査だと言って出してもらいました」
「調査の予定はある」
「あります。ですが、そのために取ったのではありません」
茅野は何も言わなかった。
「停電は、事故ではありませんでした。21時20分に主遮断器が手動で開放されています。22時2分に投入。記録に残っています」
深津は印刷した紙を出した。茅野は受け取らなかった。机の上に置かれたまま、二人で見た。
「誰が操作したかは」
「残りません」
「じゃあ、何も分からないのと同じだ」
「同じではありません」深津は言った。「あの晩、誰かが小屋を開けて、電気を落として、42分後に戻したということは分かります。それは事故ではありません」
「事故でないことが分かって、どうする」
「……分かりません」
「分からないのに、権限のない記録を取ったのか」
「はい」
茅野は紙を一度だけ見て、それから深津の顔を見た。
「先に言えばよかっただろう。私が申請すれば取れる」
「申請の理由を書く欄があります」
「書けばいい」
「書けば、止まると思いました」
言ってしまってから、深津は自分の指が机の縁を押さえているのに気づいた。
茅野は長いあいだ黙っていた。この人が黙るのは珍しい。間を空けない人である。
「止めた」茅野は言った。「私は、たぶん止めた」
「はい」
「止めたうえで、私が自分で調べたかもしれない。それは、いま言っても仕方がない」
紙を取り上げ、二つに折って、内ポケットに入れた。
「報告書を書け。権限外の照会を行ったこと、目的を偽って依頼したこと、その理由。全部書け。私が本社へ上げる」
「……分かりました」
「処分は本社が決める。私は何も約束しない」
「はい」
茅野は立ち上がり、ドアのところで止まった。
「深津。一つだけ聞く」
「はい」
「里村さんが来る予定だった日、お前は何時まで待った」
深津は答えた。
「19時です」
茅野はうなずいた。うなずいて、それだけで出ていった。
その日の夕方、深津は集会所に戻った。
誰も来なかった。退去の面談は明日である。窓の外は暗く、七号棟の窓がいくつか光っている。数えると、以前より減っていた。
深津は机に座り、便箋を出した。
書くことは決まっている。日付、依頼先、依頼の文言、権限の有無、目的。事実だけを順番に並べればいい。いつまでに、誰が、何をしたか。それは書ける。
なぜしたか、という欄が最後にある。
ペンを持ったまま、深津はしばらくその欄を見ていた。
二十年前に言わなかったことがあります、とは書けない。あの日、佐久間の顔を見て黙りました、とも書けない。里村さんが電話をかけてきた日の前日に、私は確認済みと四つ書きました、とも書けない。
書けないことばかりだった。
深津はペンを置き、スチール棚の下の段を開けた。
紙袋を出して、机に置いた。桑名様 遺品 保管。日付は十一月。
紐を解いて、中身を出した。




